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アート思考は、非効率?

先日参加した「FACiliTY - 第37回: XX歳からのアート思考」での『13歳からのアート思考』著者の末永幸歩さんとナカヤマン。のトークが面白かったので、備忘録的に纏めておきたい。

2人のトークは、「アート思考は、非効率だ」という事に合意することからスタートした。ナカヤマン。の「先に面白いと思って手を出すのがアーティストであり、もともと好き嫌いがあるので、時代と合う合わないはある。しかも今は、半年サイクルで合う合わないが変わるのでタイミングを合わせるのが難しい」という話は、アーティストの思考と今の市場経済のサイクルの齟齬の大きさを感じさせる。

アート思考とは?

アート思考というのは、デザイン思考や論理思考の対立項的なものでなく、別の次元でとらえないといけないというのが2人の考えのようだ。「アート思考は手順がはっきりした方法論ではない、何か新しいものを生むための道具ではない」(ナカヤマン。)「自分なりの視点でとらえて、自分なりの表現をすること、自分起点で種から根を伸ばして花を咲かせるのが、アーティストであり、花が別次元的に新しい価値を生むことがあるかもしれないが、それはわからない」(末永幸歩)

アート教育は画一的

ナカヤマン。から末永さんへの質問は、「この本に書かれている教育って実際授業でやってるの?」であった。これはナカヤマン。自身、美術の授業では、絵を描いたり、デッサンをしたりの実技しか受けなかったからだ。(これは私も同じだった。)末永さんの答えは、「本の内容は授業そのものです。そして他の先生からもっとデッサンとかをやってほしいとかよく言われました。今でも美術教育は昔とそんなに変わっていない。」ということだ。むしろ末永さんの教育こそが、美術教育のスタンダードになるべきなのにと思うんだが。

末永さんの授業は、一学期が本に書かれているようなアート思考的な授業、二学期以降がそれに基づいた実習で、一学期で生徒は、なるほどそんな見方があるんだと身に着けた新しいモノの見方で、二学期に実際作ってみるとなかなかうまく形にできないそうだ。でも一学期からモノを作るより、ずっとモノの見方は拡がっているという。この授業の話を聴いていて思い出したのが最近読んだ樋口耕太郎著『沖縄から貧困がなくならない本当の理由』の中のエピソードだ。彼の学生がレポートした小学3年生の時のエピソードとして「学校の一番好きなところを描きなさい」という課題に対し、彼女は「夕暮れ時の図書室の扉」、銀色の扉に夕焼けが反射して、色々な光が魔法のように変化する風景を描いて、提出すると先生は「こんな色のはずがない、ちゃんと見て描きなさい」と言いながら画用紙を水道で洗い流したという話だ。末永さんのような先生ならば、一番高く評価されるような生徒が、画一的な授業をする教師の枠に嵌められていく残念なエピソードだ。

アート思考は大人に教えられるのか?

末永さんの「アート思考は、教育的、社員教育的に使えるのでは」という考えに対し、ナカヤマン。は少し疑問を呈する。「子供の場合、学校でそれぞれ学ぶ時間を割り振られているので、アートの時間をちゃんと割り当てられているが、大人の場合は、どう時間を割り振るかを自分で決めなくてはならないので、効率性を求められるビジネスの中にいる人に、すぐに結果の出る論理思考的なものと非効率で時間がかかり結果が出るかどうかわからないアート思考的なものの選択を迫られる中で、非効率なアート思考的なものに時間を割り振るようにさせるのは難しいので、大人の教育は難しいのではないか。」

「こちらが純度100%でも周りを汚染させていくのは手間がかかる。しかしそうやって数%でも周りに拡げていくことでしか、アート思考的なものは伝わらない。その意味でアート思考は伝達効率が悪い。」と語るナカヤマン。この言葉はすごく同意するし、それは先に挙げた樋口耕太郎さんの言葉、「沖縄であれ、日本であれ、現代社会の問題を根源的に治癒するのは、「人の関心に関心を注ぐ」こと、そして「人が自分を愛することの手助け」を基軸にした社会をつくること、そしてそれを実現する方法は、「ひとりの力」以外にない。」という事とも通じているように思う。

アート思考を実践することは、「自分を愛することを手助けする」ことであり、アート思考を理解することは、「人の関心に関心を注ぐ」ことに通じるのではないか、そうであれば、ゆっくりでもいい、アート思考をもっと拡げていくことには大きな意味があると思う。


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