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すずめのスズちゃん

こんにちは。
マネージャーの高野です。

表紙の写真は、「すずめのくらし(小学校1年生国語・教育出版)」
小学校一年生で習う単元。割と最初の方だったと思います。
この単元の国語テストがありました。
今回はそのテストでの息子の自由な発想から考えさせられたあれこれを書きたいと思います。

すずめのスズちゃん

よくある国語のカラーテスト。
教科書の本文が抜粋され記載されていて、その中から重要ワード抜き取ったり、主人公、作者がどんな気持ちだったか?とかとかを答えるもの。日本の小学校では割とポピュラーなテストだと思います。(添付写真参考※今回の記事のテストではありません)

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実際のテストは、表紙の写真と一緒のもの。数匹のすずめが映る写真と共に本文の書き出しはこうでした。

書き出し、、
【テスト本文】
「すずめのくらし」
のはらにちゃいろのことりがいます。すずめです。なにをしているのでしょう・・・(以下本文続く)


【テストの問題】

問1:のはらにいるちゃいろのことりの名前はなんでしょう?
(正解)すずめ


となるわけですが、

息子の答えは。。。

「すずちゃん」

と回答しバツされてました笑

最初は「え?!スズちゃん?どれがスズちゃん?」と驚きましたが、すぐにこれって間違いなのか?という感情が湧いてきました。

だって私たちは小さい頃から

「お名前は?」と聞かれたら

「高野美穂です」

と答えるように教えられてきたわけですし、

ことりの名前は?と聞かれて息子は総称ではなく個として解釈したのでしょう。一度バツされてやり直しした回答には「スズちゃん、スズくん」って書いてありました笑。(男女で攻めた笑)

もちろんそれもバツ。
最終的には先生に「すずめ」と書き直されてました。

息子になんで「すずめ」がマルかわかる?と改めて聞いてみてもは本質的には理解できていないようでした。そして私もそれ以上説明ができませんでした。
どの子がスズちゃん?でどれがスズくん?という疑問は拭えないですが笑、この回答をみた時これって単純に間違いっていう括りにするのはなんだかなぁ〜とふと「雪が溶けたら何になる?」論争を思い出したのでした。。。


(注)最初に断りを入れますが、私は決して日本の教育を否定するわけではありません。そして息子の回答を正解にして!とクレームするモンペでもありません笑。

「雪が溶けたら何になる?」

かれこれ40年ほど前からちょいちょい世間を騒がせている(?)

「雪が溶けたら何になる?」論争。

こちらはご存知でしょうか?ご存知ない方のために少しご説明。


ある理科の問題。

【問】氷(雪)がとけたら何になる?

答えは「水」です。

ただこれに対して「春」と答えた生徒がいた。
その生徒は「不正解」となり世の中からは様々な意見が飛び交いました。このことを一躍世の中の論争の土俵に持ってきたのは、その昔、朝日新聞の天声人語に取り上げられたからだと言われています。

1980年のその天声人語。

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朝日新聞1980年2月10日天声人語
氷が解けたら何になりますかという問いに、たいていの子は「水になります」と答えた。むろんこれは正しい。ところがひとりだけ「春になる」と答えた子がいた。みなが一斉に同じ方向に考えを向けていた時、その子だけは別の方向へ頭を働かせていたのだ。(天声人語より抜粋)


この記事が出た事により、個人(子ども)の自由な発想を尊重しない定型化された学校教育への批判、教師のみが正しい答えを所有・承認するという正答主義への批判が高まりました。こぞってメディアも取り上げる。こういう論調は世間でも歓迎されるようで、ある一方ではこれは謎々にすぎないという声もあるし、独創性を潰す行いだと批判する人もいました。

数年後、このネタが、1992年の産経新聞の「産経抄」にもそっくり同じ趣旨で使われました。

添付:産経新聞1992年2月28日産経抄

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その後また天声人語で紹介。

添付:朝日新聞2010年2月2日天声人語

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これはもはやメディアが今の日本の教育を批判したいがためのいかさまストーリーなのではという疑惑が一部では出ていたらしいです。がしかし、

添付:朝日新聞2010年2月20日天声人語

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実際に不正解になった。という人からの投稿が出てきたのです。
このことからまた論争が勃発。
こういう論争がずっと続くってことは日本の教育のあり方に常に個性を潰してしまうとか、そいうった拭えない不安が見えかくれしていたのかなとも思います。これは今でもですよね。


皆さんはすでにご周知の通り、実社会において特にビジネス社会では答えがない、二つ以上あるということがほとんど。複雑化、多様化された経済社会のなかで何にでも通用する完璧な答えもないし、今までの前例や常識が全てに通用するとも限りません。
だからこそ常に自分で考えて新たな答えを創り出すという作業が必要になります。

突然ですがここで問題。

「1+1」の答えは???


はい。「2」ですよね。

でもここではあえて田んぼの「田」とします笑。

何が言いたいのかというと、私たちは普段の生活の中で「1+1=2」というような考え方を習慣化していませんか?ということです。
与えられた問いに対して常に適正で適切な答えが常に一つある!と思いがちなのかな?と思います。唯一絶対の答えをいち早く、間違いなく、正確に出してきた人を評価してきた昨今の教育のあり方が、表面的な問題、質問等に対して表面的な答えを出していくという練習を繰り返してきたからなのだと思います。
この考えばかりだと、答えは常に一つなので自分でわざわざ考えて創り出すという作業が省かれます。

模範解答と違っていたら不正解という風潮に対しての世の中の不満の一例として上記の「雪が溶けたら何になる」論争への火付け役になったのかなと感じています。

私たちがこれまで経験してきた経済社会が大きく変化する今、社会はこれまで経験してきたことがないようなスピードで非常に複雑化、多様化してきています。
こういった時代背景の中で模範解答に縛られた問題ばかりを問いていると正しい答えは一つ!他は全て間違いだと考えてしまう=視野が狭くなってしまうのでは?と危機感を持つのも自然の流れなのかなと思います。
今までの発想をほんのちょっと変えて、上から見ていたものを下から見たり、斜めから見たりして視点を変えることで新たな価値を生み出す。そんな時代が今私たちが置かれている時代なのかなと感じています。

日本の義務教育の始まりはなんと明治から。
形はその時代とともに変化していますが今も明治時代からの名残が残っています。
日本の教育全てが個性を潰すとは全く思いませんが、常に一問一答ではない世界がすでに始まっているのだと思います。それに合わせて教育のあり方も急ピッチで変化させて行く必要があるのかもと素人ながら感じるのでした。(教育関係者の皆さん、若輩者の1意見ですのでお手柔らかにw)

ここがびっくり海外から見た日本の教育

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海外から見て日本人では当たり前と思っていることも実はすごく特異だったりします。
その一部をご紹介。

給食

そもそも日本では給食はただ空腹を満たすためのものではなく、以下の目的を学ぶ学校教育の一環として捉えられています。そのため自分達で育てた農産物を使用するなど、「給食」という枠に囚われずに授業を展開している学校もあります。

食事の作法
健康な食習慣
日本やその地域の食文化
適切な栄養摂取による健康促進
社交性や協同の精神
自然尊重と環境保全の精神
勤労を重んずる心
食料の生産・流通・消費

しかし、海外の給食事情を見てみると、給食があっても自分でサーブして食べる方式であったり、自分でその日のメニューを決めることができる国も存在し、その国の給食では自分の好きなものだけを食べるので栄養バランスは偏ってしまいがち。 さらに、欧米諸国などでは、教室ではなくカフェテリアで食べるところがほとんどです。また、そもそも学校が半日で終了するために給食がない国や、1日学校がある国でも、お昼ご飯は1度家に帰って食べる文化の国もあります。


進級

日本では、義務教育の期間中に落第することはまずありません。出席日数が少なくても、成績がいくら悪くても自動で進級します。このシステム、日本では当たり前のように受け入れられていますが、多くの欧米諸国の人々から見ると衝撃的だそう。 成績が悪いということは、その学年で勉強した内容を理解していないということ。理解していないままに次の学年に上がっても、当然勉強内容を理解できるはずもないですよね。欧米諸国では低学年のうちから自動的に進級することができません。成績が悪いと留年することもあります。 逆に、飛び級制度があるのが海外ならではと言えます。「それぞれの子どもに合った教育を受けさせる」という考え方が浸透しているのが特徴です。日本が横並びの「和」を重んじるのに対し、海外は「個」を重んじているとも言えるでしょう。


教科書

入学式が終わったら、大量の教科書を渡されて持ち帰るのに苦労した、なんて経験がある方は多いのではないでしょうか?次の日の時間割にある科目の教科書を鞄に詰めた、というのは全員がしたことのある経験でしょう。しかし、これも世界的に見ればとても珍しいことなんです。 アメリカには低学年のうちはそもそも教科書がないことが一般的で、生徒によって先生が用意したプリントや本を読むなど、レベル別にその生徒に合った指導が行われています。つまり、同じ教室にいても皆同じ内容をしているわけではないということです。 高学年になってくると教科書を使用する場面がでてきますが、学校から「レンタル」するという形で利用されています。あくまでレンタルなので自宅に持ち帰ることはできませんし、書き込むこともできません。アメリカやオーストラリアでは、教科書は授業中にのみ使用する本なのです。

掃除

日本では必ずある「掃除の時間」ですが、海外には存在しません。清掃員が雇われており、子ども達が下校後に掃除を行うのが一般的。海外の人々にとって、日本では当たり前の光景である自ら教室や廊下、トイレなどを掃除する子ども達の姿はとても衝撃的なんだそうです。 これは、給食と同じく掃除も学校教育の一環として行うという日本の学校の姿勢の現れ。自分達で掃除することによって、ものを大事に使おうという意識が芽生えたり、公共の場所を綺麗に保つよう心掛けるようになることを目標としています。清掃員がいる海外の学校には、食べかすなどが下に落ちたとしても「掃除してくれる人がいるから」と、拾わないのが当然と考えている生徒が少なくありません。 日本が取り入れている「掃除の時間」は、今海外の教育者の間でも話題になっており、実際に掃除の時間を導入した学校もあるほど。ただし子どもの自主性を重んじる海外では、掃除を強制することが児童虐待と言われてしまうこともあります。先生に言われたことを行うのは当然という日本の教育に対し、権力にもノーと言えるような教育を重んじている海外では「掃除の時間」に対して大きく賛否が別れているのが実情です。


参考:https://haa.athuman.com/media/japanese/culture/945/


伝え方が曖昧な日本の文化

ここで話はまた戻り私はこの論争の裏にはもう一つ。
伝え方が曖昧な日本の文化が潜んでいるように感じています。

テレビや様々な批判の中の話題では、上の記事は子供の素直な感受性と枠にとらわれない自由な発想の例として、心温まる内容ということで話が広がりました。確かに、受験のためやテストで正解をするための勉強をするうちに正解として求められる答えばかりに意識が向いてしまう傾向はあると思います。豊かで素直な感性を持ち続けたいものだ、と。ほのぼのする話です。

同時に、私には小さな疑問も沸いてきます。

これは質問に問題があるんじゃないか、と。
おそらくこの問いの場合、「水」と答えを導くためには助詞は

「が」ではなく「は」です。


聞き方(伝え方)が誤解を招く。
場合によっては、日本語として適切ではないとも言えるかもしれません。

「雪が溶けると何になるか?」という文章は、主語が抜けているんです。
「雪は溶けると何になるか?」がおそらく正解です。

なにが言いたいのか、それは

相手がどう受け取るかの配慮が欠けている。と思うのです。

「雪は溶けると何になるか?」という質問であればおそらく答えは「水」です。

なぜなら「雪は溶けると何になるか?」の文章では
主語が「雪」に固定されていて、前半部分の「雪は溶けると」においても
後半部分の「何になるか?」においても、共通しているはずだからです。

後半の「何になるか?」の主語は「雪は」であって、それが省略されていると考えるのが妥当です。
でもこれって捉え方人それぞれだったりしますよね。

この問題ではおそらく「雪は溶けると(雪は)何になるか?」と聞いていて
なので、答えとしては「雪が溶けたもの」を答える必要があってそれは「水」ということになります。

次に論争に上がっている「雪が溶けると何になるか?」という文章では
前半部分の主語は「雪が」で明確ですが、後半部分が不明瞭だと考えられます。

結果として「雪が溶けた後には、どうなりますか?」と聞かれていると受け取られるようになる、と。
なので、雪が溶けた状況で起こる変化であれば何でも答えられます。

「雪が溶けると(雪山が)雪崩になる」でも良いだろうし
「雪が溶けると(雪国の人が)笑顔になる」でも良いだろうし
「雪が溶けるとスタッドレスタイヤが要らなくなる」でも良いはずです。

本当に理科の問題としての意図を持っているなら
「雪溶けると何になるか?」と聞く必要があるはずです。

曖昧な答えを生む質問をしていることに自覚できるのも重要だと思うんです。

話は少し飛躍して、日本語は曖昧な質問(伝え方)が多い。
それは日本のハイコンテクスト文化が関係しているのでは?と思います。
その理由は日本は島国でありそもそも単一民族であり村単位で生活してきた歴史があります。伝える努力やスキルがなくても、お互いにしての意図を察し合うことでなんとなく伝わってしまいます。

「多く言わなくても伝わる」文化です。察するの文化ですね。

このハイコンテクスト文化社会は同じ地域、同じ環境の仲間であればお互いにコミュニケーションはとても有利に働きます。
よく高齢の夫婦が「あ」といえばお茶が出てくるようなコミュニケーションです。
このようなコミュニケーションが取れることは大変理想的なことです。ただしこれはコミュニケーションの手法ではなく関係性により構築される事により実現が可能となります。

ただこれはごく一部の限られた範囲の中で為せるもので、私たちが生きる社会中では時に弊害となります。

主語がない察しての文化のままコトを進めると、例えば仕事で言えば曖昧なままことが進み、結果伝えた側と受け取った側の感じ方の違いにより全く別のものが出来上がってくる。というようなエラーがおきます。

相手が必要としている情報は何か?と考えて相手の視点に合わせて伝える。自分が見ているものがみんな見ているものとは限らない。
人は見たいものしか見ないと多くの実験でも実証されているように共通のイメージを持つ言語化がもっと必要になると感じています。


最後に。。。

話が大きくなってしまいました。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
結局じゃぁスズちゃんは間違いだったのか?
国語のテストとしては間違いでしょう。
問い方が悪かったのか?
そんなこともないでしょう。
答えは間違いなくすずめです。だって本文に書いてある笑。
(写真に映る数匹のスズメ全員に名前を付けたらマル◯だったのかなw)
ただテストではマル◯はもらえなかったけど、マル◯をもらうばかりがすべてじゃない。
その柔軟性は大事にして欲しいと親心としては思ってしまうのでありました。

参考:https://www.phoenix.ac.jp/faculty/social_welfare/cw_blog/entry/2019/07/003724.html
参考:https://cocoiro.me/article/54462


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