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少女に気軽な一人旅が届くまで問題8

今回は1964(昭和39)年10月1日、東海道新幹線、東京──東大阪間が開業したところから始めます。ひかりでは4時間、こだまでは5時間で到着する、世界初の高速列車でした。どうも高速列車というのは時速200キロ以上で走る列車のことらしいです。
新幹線についてもガチで掘ると大変面白くて壮絶な話があったりしますが、そこをやっちゃうと戻ってこられなくなりそうなのでばっさり切ります。

今は東海道新幹線というと、東海道・山陽新幹線をイメージしますが、この時期には山陽新幹線パートはまだありません。東海道新幹線より8年遅れて1972(昭和47年)3月15日に新大阪──岡山間が開業します。岡山──博多間も含めて全通するのは1975(昭和50)年です。

それでもこの、東京──東大阪間をひかり4時間、こだま5時間はものすごいです。現在でも在来線を乗り換えていくと8時間半から10時間ちょっとかかるようなので、それが半分以下になると考えると壮絶なものがあります。当時の人達にとってはもっとインパクトは大きかったでしょう。
ましてほどなく迎えた年始、大河ドラマ『太閤記』の第一回オープニングに新幹線が登場するのです。

「太閤記」は、こちらに向って驀進して来る新幹線ひかり号のアップからはじまった。その「ひかり」が、やがて名古屋駅に入構、駅名が表示されると、カメラは真新しい新幹線の名古屋駅からパンして、そのすぐそば中村の、秀吉の生地と伝えられる場所にのこる豊国神社のたたずまいをスナップする。現在の拝殿のかたわらにある笹のそよぎ──そのアップにオーバーラップして、向こうをむいている、これ以上汚いボサボサあたまはないと思われるような髪の毛の後頭部──。やがて、それがふり返ると、はじめて緒形拳氏扮するところの、番組の主人公「サル」の顔が画面に登場する、という段どりであった。

『新幹線と日本の半世紀』内の『私のなかのテレビ』引用箇所

『私のなかのテレビ』に当たることはできなかったので、引用の引用という形ですが、こういうシーンです。とんでもない速さで遠くへ行ける新幹線が、東海道線を移動することのない地域の人達にも強く刻まれた瞬間でした。
速く遠くへ行けるインフラが整うということは、旅行を考える時にとても重要な視点です。まして男性と比較して体力で劣ることが多い女性の場合、移動でのロスが大きいのがネックになります。

インフラとはまた別の視点から見てみましょう。
少し時代は遡り、1962(昭和37)年、NHK総合テレビ『夢であいましょう』の中で、作詞 永六輔、作曲 中村八大、歌手 ジェリー藤尾『遠くへ行きたい』という曲が流れました。

淡々と一人旅への思いを歌う名曲です。旅の歌は楽しい行楽や失恋旅行などのテーマが多く、ぼんやりと一人旅を夢見る歌は決して多くありません。この曲が別のテレビ番組で復活するのです。
1970(昭和45)年、読売テレビでこの曲と同名のパートを含んだ『六輔さすらいの旅・遠くへ行きたい』という番組が開始します。日本国有鉄道(国鉄)一社が提供スポンサーで、列車での紀行番組です。作詞の永六輔氏が単独で出演する番組です。後に番組タイトルは『遠くへ行きたい』だけになります。

ジェリー藤尾氏の曲は悲しい夢のような静かな曲ですが、こちらの番組では山本直純氏の編曲、デューク・エイセスの歌うこの曲はアップテンポで都会的な印象がありますね。

この番組は国鉄のキャンペーン『ディスカバー・ジャパン』の一環として作られたもので、国鉄が民営化した後もかなり長く続いた番組なので、ご存じの人も多いと思います。
ディスカバー・ジャパンは万博での成功を得たものの、赤字はかさんでいる国鉄が個人客を増やしたいという目的のために行った、広告史上最長不倒記録を誇る、個人客、ことに若い女性客をターゲットとしたとんでもないレベルの大プロジェクトです。

一人旅への思いを歌う『遠くへ行きたい』を主題歌としたのは、かなり意識して仕掛けたのだと思います。

知らない街を歩いてみたい
どこか遠くへ行きたい
知らない海をながめていたい
どこか遠くへ行きたい

遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅

愛する人とめぐり逢いたい
どこか遠くへ行きたい

歌詞『遠くへ行きたい』

ポスターも当時理解されなかった先鋭的なコンセプトで作られました。

 ディスカバー・ジャパンの最初のポスターは、覚えていらっしゃるかどうか、日光で若い女の子が熊手で落ち葉を掻いている、たったそれだけのB全ポスターでしたね、しかも、その写真というのはブレているわけです。人物も落ち葉も全部ブレているわけです。誰が誰、何が何とはっきり分からない。つまり、これが観光ポスターか、という代物なんです。「日光」と謳っているわけでも何でもない。ただ、そこへ「DISCOVER JAPAN」というロゴが鍵の手にでかでかと入っている。
(中略)
 しかし、最初にこうしたポスターが貼られたときは、一体、何のキャンペーンが始まったのか、誰も分からなかったみたいですね。一番分からなかったのは国鉄の人たちだった。

藤岡和賀夫全仕事[1] ディスカバー・ジャパン

自分の心と向かい合う「ディスカバー・マイセルフ」を軸として、特定の場所に誘致するためのものではなく、どこかへ行きたいという思いを集客に結びつけていったのです。
キャンペーンの副題「美しい日本と私」は、決めた後に「川端康成の講演の演題『美しい日本の私』と似ている」と気付いて許諾を得に行って、改めて川端氏に命名してもらったという経緯があったそうです。

美しい日本を巡り、自分自身を見つめるというヴィジョン。自分達に向けられているようなコンセプトは若い女性に突き刺さりました。同年に創刊された平凡出版(現 マガジンハウス)『an・an』、その翌年に創刊された『non・no』(集英社)を読んでいるタイプの若い女性をアンノン族と呼ぶくらい増えていたのですが、このアンノン族とディスカバー・ジャパンで旅行をしようと思った客層はかぶっていました。
個人的にはどちらが主に影響したという訳ではなく、同時期に「美しいものを一人で見に行きたい、旅に出たい」ような若い女性層が増えていたのだろうと思います。このタイミングにはまだ「先鋭的でハイセンスな若い女子」が大勢一人旅に行くようになったという体感でいます。

ただ、アンノン族とまとめられつつも、創刊時のan・anとnon・noは決してカラーが近かった訳ではないようです。本が入手できたのがan・an関係しかなく、non・no黎明期あたりの話がまとまった本を確認できませんでしたが、読めた本を確認する限りではnon・noは当初は先鋭的すぎて売れなかったan・anを徹底的に研究して「売れるan・anを目指していた≒an・anよりは角の取れたコンセプトだった」だろうと推測しています。

イノベーター理論で言うなら黎明期のan・an読者はイノベーター~アーリーアダプター、non・no読者はアーリーアダプター~アーリーマジョリティに展開している途中みたいな感じだったのでしょう。
このあたりの客層が混在していることが結構大きい気がしています。要するにこの客層を雑にまとめると「ちょっといい感じの若い女の子が大量に旅行に行きだした」ということです。

この時の電通はめちゃくちゃいろんなことをやっています。一人旅の客、しかも女性客を誘致するためには「一人旅のお客が泊まれる、しかも旅の情緒を打ち消すことのない宿泊施設が必要になる」んです。そのために『心のふるさとお寺券』という2名以上の女性グループがお寺に泊まることができる宿泊券を企画したり、広告ポスターを貼れる記念スタンプ台を大量に用意したり、スタンプノートを用意したりと、持ち出し部分もかなり多いプロジェクトでした。

そして1972(昭和47)年3月15日、山陽新幹線も新大阪──岡山間が開業し、1975(昭和50)年3月10日に岡山──博多間が開業し、東京──博多間を6時間56分で移動できるようになりました。
このディスカバー・ジャパンの時期にこそ「少女が一人旅に行けるインフラ」は整ったと思っています。

『少女に気軽な一人旅が届くまで問題』はこれで終了です。割と地獄を見ました。次回はまだ何の記事を書くか決めていません。できればコンパクトにまとまるやつをやりたいです。



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