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過去の苦しみは私のすべてではない。さまざまな心情が積み上げられた「今」だからできること

家族からの心理的虐待、親友の自殺、不眠症、引きこもり——。さまざまな経験を今こうして人に話せる状態になるまでには、一体どのような過程があったのか。野里さんに当時の状況を教えてもらうと同時に、いろんな心情に出会ってきた今だからこそ感じることをありのままに語ってもらいました。

野里 のどか(のざと のどか):1993年、鹿児島県出身。大学で社会学・哲学を専攻した後、新卒でフリーランスとなる。取材ライティングやスタートアップの採用広報、コンテンツマーケティングに取り組む。また、自身の経験からこどもの人権やグリーフケア活動に関心を持つようになり、2023年3月に社会福祉士の国家資格を取得。

宝物を扱うかのように仕舞い込んでいた過去の記憶

——幼少期に家族からの心理的虐待に苦しまれていたと聞きました。当時の状況を教えてください。

幼少期に両親が離婚し、1年ほど父子家庭で育ちました。その後、父が再婚。継母から心理的虐待を受けるようになりました。「こどもが産めないのはあなたたちのせいだ」などと暴言を吐かれたり、夜中に叩き起こされたり、離婚届で脅されたりすることが、私が家を出る高校卒業まで続きました。

家庭状況が他とは違うことには気がついていましたが、当時は両親の離婚や心理的虐待が恥ずかしいことだと思っていたので、誰にも相談できなかったんです。幸か不幸か、父に引き取られて苗字は変わらなかったので、両親が離婚していることを周りの友達にも気づかれにくかったんですね。

スクールカウンセラーが学校に設置されていることは把握していましたし、気にかけてくださる先生もいましたが、「相談しに行くところを友達に見られてしまったら」「再婚家庭だと知られてしまったら」という不安から、事実を必死に隠そうとしていました。

手を差し伸べてくれる人に頼ることができていたら状況が変わったのかもしれませんが、あのときの私にとって、それはとても難しいことだった。家庭での苦悩を人に打ち明けられたのは、高校の友人が初めてでした。

——友人に話すことで、心理的な変化はありましたか?

“誰かに話せた”という点では、一歩前進できた感じがしました。友人に打ち明けてみて「やっぱり本当は誰かに聞いてほしい気持ちがあったんだ」と心の底にあった想いを自覚しましたね。

一方で、「私の周りにも同じような人がいたよ」といった一般化しているような言葉を返され、周りとの分断も感じてしまって……。

置かれている状況は一人ひとり違うので、相手の環境や心情を理解したり、配慮したりするのはとても難しい。それは当然ですし、もちろん友人が親身になって話を聞いてくれていることもわかっていたのですが、彼らの言葉が慰めや励みには感じられませんでした。むしろ大したことないと矮小化されている気分になったのだと思います。

——寄り添ってくれる人がいたとしても、経験した人にしかわからない心情を共有するのは難しいことなんですね……。

当時の私にとって家庭環境について打ち明けることは、まるで抱えてきた宝物を見せるような行為に等しくて。過去の記憶が私の大きな部分を占めていると思っていました。

でも、その考えが大きく変わったのが大学時代。小説や古典を読んで、その内容の考察・研究を行うゼミに所属しはじめてから、“過去を伝えるため”ではなく、“議論するため”によく自分のバックグラウンドを交えて話をしていたんです。

そこで少しずつ胸の内に仕舞い込んでいたものを伝えていくうちに、「過去の出来事はアイデンティティからは切り離せないけれど、私のすべてではない。大事な宝物として見せるようなものではなかったんだ」と気がつきました。

正直、勇気を持って話してみても傷つくことのほうが多かったです。それでも誰かに伝えることをやめなければ、いつかは「話してよかったな」と思える瞬間に出会えると思っていてそしてそんな人に出会えたとき、忘れられない瞬間も手にすることができました。

いろいろな経験が少しずつ積み上げられてきた今だからこそ、できることがある

——大学卒業後の23歳も、今の野里さんに大きな影響を与えた1年だったのですよね?

そうですね。23歳はとてつもなく大きな幸せと悲しみが混同した時期でした。

千葉県に移住して『コワーキングスペース まるも』の店長になったり、シェアハウスに住み始めたりしたのが23歳。再婚家庭に育ち、血縁関係に囚われていた私にとって「他人と生活しているのに居心地が良い」という状態が新鮮でありとても幸せでした。

一気に世界が広がりはじめた一方で、大切な親友の自殺も経験しています。彼が亡くなる1週間前にも連絡を取っていたので、「あの時もっとちゃんとメッセージを返していたら……」という考えが今も離れません。

——そんな時期が……。野里さんはアドレスホッパーや会社員などのさまざまな働き方を経て、現在は社会福祉士を目指されています。これはご友人が亡くなられたことがきっかけだったのですか?

友人が亡くなっていなかったら、社会福祉士に興味を持つことはなかったと思います。それに加えて、不眠症や引きこもりに悩んでいたことがきっかけです。しばらくは外出できず、一人きりで過ごす時間が続いていました。

ただ、ちょうどその時期はコロナ禍。自殺者数の増加も問題視されており、ふと「使っていない命なら、せめて他の人のために使おう」という思いが芽生えてきて。家庭環境や親友の自殺、シェアハウスでの生活、アドレスホッパーとして働いた日々などの、とてつもなく苦しい経験も、幸せな経験も、その全部が合わさって今の私をつくっている。

今の自分だからこそ、何かできることがあるのかもしれない——。

幼少期からずっと“自分の社会に対する在り方”を考え続けていたこともあり、社会福祉士を目指して勉強をスタートさせました。

幼少期から視野を広げ、自己表現する方法を身につけてほしい

——ご自身の経験を振り返ってみて、“今だからこその気づき”はありますか?

今思うと、幼少期にいた世界から見えていた選択肢は本当に少なかったんです。

限られた世界で生きていると、そこでの経験が自分のすべてかのように錯覚してしまうんですよね。特に外の世界をまだ知らないこどもにとって、「自分をつくっているものは家庭環境だけだ」と思い混んでしまうのは仕方のないことだと思います。

でも実際は“特定”の経験ではなく、“さまざまな”経験が一つの要素となってその人をつくりあげている。だから環境に自分が潰されてしまう前に、もっと早い段階で“世界は外にも広がっていること”に気がついていたらよかったなあと思うことはあります。もちろん、これがどれだけ難しいことなのかは身をもって経験してきているのですが……。

また、幼少期から本や漫画を読んで、自分を表現する・気持ちを外に出す方法を身につけていたことは、今でも本当によかったと思っています。

抑圧された環境で育ったせいで、私は学生時代だった頃、コミュニケーションはうまいくせに本質的な気持ちの言語化ができない人間だったんです。でも、安心できる環境で生活できるようになってからは、そんな欠けた部分を幼少期から触れ続けていた言葉たちが補ってくれました。

活字に触れて、声以外で自分を表現する術を身につけていたことが、人生の歩みの助けになったと感じています。

——最後に、今後の展望を聞かせてください。

こどもの人権問題に関わっていきたいですね。

同時に、大人に対するアクションも必要だと感じていて。大人がいきいきしていないと、社会的に弱い立場にある人へ八つ当たりや不幸せがいってしまう。その矛先になりがちなのがこどもです。なので、まずは私自身が毎日をハッピーに生きて、身近な人に優しくできる人であろうと思います。

そして、実は3月(2023年)に社会福祉士の国家試験に無事合格しまして……!

これからは社会福祉士としての“知識”と、ライターとしての“伝える力”をもって、信頼できる情報を届けられる人にもなりたいです。

今のこどもたちは身近に相談できる人がいない場合、ネットに頼ることが多いと思うんです。そのとき、最初に出てくる情報が根拠のない不確かなものだと、最悪の場合、彼らが命を落とすことにつながりかねません。命に関わることだからこそ、謙虚に教養を深めていきながら、誠実な発信を心掛けたいです。

〈取材・執筆・編集=おのまり(@onomari_kor)〉

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