今回のインテリアと「モノとのつきあいかた」のこと
今回のお部屋はわたしの好きなインテリアの原点に戻って
ホワイト系のシャビーシックな空間づくりにしました🩷
10年ほど前、離婚して沖縄に引っ越したときも、
インテリアは白を基調にしていて
当時はピンクがアクセントカラーの、プリンセスライクなかわいいお部屋でした。
そのころよりもちょっと大人になった(笑)今回は、
ホワイトとベージュを基調にした、
かわいいというよりはエレガントなシャビーシックインテリア。をイメージしてます🩷
(色を入れるなら淡いライラック系にすると思う)
お氣に入り家具でお部屋を飾ってご満悦です。笑
いまのわたしは家具が飾りみたいな感覚になっていて
わたしにとってお氣に入りの家具は、それ自体がお部屋を彩る存在なのです🩷
岡山でのインテリアが(引っ越した県内3軒とも)
自分好みのインテリア環境とかなり違っていたこともあり、
好みのテイストと違う場合はどういうふうにしたらいいのか全然わからなくなってしまって困惑状態になりました(笑)
いろいろ工夫したけれどどれもしっくりこなくて、
「インテリアにこだわるのがガッカリする原因なんだ!」
と自己否定モードに入って自分を苦しめた時期もあったり。。
それがまた魂レベルでみると、そのときの自分にとって必要なテーマをしていた状態で、魂的には「順調だね😊」って感じだったわけだけど、自我的には絶望を感じて諦めていました。
諦めモードが続くとだんだん心が無感覚になっていくというか
ゆるやかに感覚を麻痺させていく感じになっていきます。
それって悲しみも麻痺するけど喜びも感じられなくなるのでハートが閉じていくんですよね。。
最終的にどこにも居場所がない感じがして、いつもどこかに緊張があるような、完全にはリラックスできない感じ、心地よくない感じになっていきました。
おうち至上主義みたいなところがあるわたしにとっては、
インテリアや環境にこだわるということが
どれほど自分をベストな状態に整えることに貢献していたのか、
環境がどれほど大切な位置づけにあるのかということを痛感しました。
(これが理解してもらえないと「ただの贅沢」とか「わがまま」に見えるんじゃないかな〜と思うので、このへんの価値観が合う人とでないとできない話題かも)
「物質的なものを楽しむ」ということが
地球で生きる楽しみのひとつでもあったので
「暮らしにまつわること」
インテリアだったりお氣に入りの道具にこだわったりすることが
自分にとってはけっこう「生きる喜び」みたいなところにつながっているのです。
(自分の星を読んでもそんなところが出ているのですごくわかります 笑)
なので、
それを削がれてしまうと、だんだん心が縮んで、しゅーんとなってしまうのです(笑)。
地球を生きる喜び(「物質」を楽しむ喜び)が そのぶん減ってしまうので
「べつに肉体をもってなくてもいいんじゃ…?」ってなるのです。笑
めちゃくちゃインテリアや道具に凝るとか、高いお金を投資するわけじゃないけれど
わたしにとっては「心地よい環境であるかどうか」というのが
めちゃめちゃ大事なんですね〜
もちろん、人によって優先順位は違うので、あくまでもわたしの場合です。
何はともあれ、
「今回の住まいはわたしの『お城』にしよ〜✨」と思っているので
自分の趣味まるだしになっていくと思います(笑)
「安いから」「高いから」というような外側の理由で買うのが好きではないので
(そういう理由で買ったモノって結局本当は氣に入ってなかったり、使いこなせなかったり、しっくりこなくて手放してしまうことが多いから)
氣にいるものが見つからない間は手近にあるもので代用して待つタイプ。
だから、基本的に必要なものを揃えたら、
あとはすこしずつ、コツコツ、ゆっくり、じっくり、、という感じで
「育てていく楽しみ」を感じながら、お氣に入り空間をつくっていこうと思います😊
インテリアや道具にこだわりは強いけれど
モノが多いのは好きではない。笑
たくさんあればいい、たくさん欲しいというわけではなくて、
シンプルにお氣に入りだけに囲まれていたいタイプ。
昔は「いつか使うかもしれないからなかなか捨てられない」という人だったのですが。。
たび重なる引っ越しを経て、荷物の多さにうんざりしたり、どれだけ不要なものを持っていたのだろうと思い知ったことに加えて、ある体験をしたことから、価値観が変わっていきました。
価値観が変わった出来事
上でお話ししたように、
引っ越しのたびに執着を少しずつ手放して、だんだんと荷物を減らしてきたころ、モノとのつきあいかたを見直すショッキングな体験をしました。
それは前回のおうちに引っ越すときでした。
(なぜか2〜3年おきくらいに引っ越してます)
そのおうちは、前の持ち主さんが荷物を置いて行かれたままになっていて、それを処分するのが条件でした。
けれど、その処分というのがとっても大変で、大量のモノであふれていたのです。
それらが自分のものではなく無関係な人のものであったことから冷静に俯瞰できて、たくさんのモノを片づけながら淡々モードに入ってゆき、氣がつくと「モノと人との関係性」みたいなことを考えてました(笑)
「最初は持ち主さんに氣に入られて家に迎え入れられたモノたちが、いつのまにか放っておかれて何十年も忘れさられて、最終的にこんな形で赤の他人に片づけられてしまうなんて…。
この子たちもかつては持ち主さんに愛されていただろうに、こんな最期を迎えるなんて、なんだか氣の毒だな…。」
と、だんだんと 悲しいような、やるせないような氣持ちになってきたりもしました。
そこにかつて住まわれていた奥様が昔のわたしと似ていて、
可愛い缶とかお店の包み紙とか布とか型紙とかが捨てられないタイプだったのです。
経年劣化した「元・可愛いもの」たちが大量に発掘され、
「可愛いから使い道がないけれどとっておいたもの」の数十年後の状態を目の当たりにして、
「これは他人事ではない」と思いました。
それまでは可愛い缶とかを見かけると「パッケージ買い」をしてしまったり、可愛さに負けて何年も捨てられずに持ち越すタイプだったのが、
この片づけ体験によってそういう情熱がスーッと冷めて、
以来パッケージ買いをすることがほぼなくなりました。
(使い道が明確にあるもの以外はパッケージ買いしません)
いつでも「捨てない」ということだけが「モノを大事にすること」とイコールなわけではない、ということをつくづくと感じました。
モノは大切にされてナンボというか…
「管理しきれない」ということも含めて、大切にできないのであれば「ちゃんと処分してあげる」ほうが、時にはモノを大切にすることになるのではないだろうか、ということを強く感じました。
いらないならいらないで『ちゃんと捨ててあげる』ってことが、
そのモノに対して『責任を取る』ってことでもあって、
めちゃくちゃ大事なことなんだな〜と感じました。
ちゃんと「終わらせる」ことが「大切にすることである」ということ。
これは人間関係とか、ほかのことにもいえると思います。
本当に大量だったのと、氣持ち的に「これ以上無理だな」って思ったので 最後は業者さんにお願いしましたが、
モノとの関係についていろいろと考えさせられた貴重な体験でもあったので、
最初から業者さんにお願いするのではなくて、途中まで自分たちでやったことはよかったと思います。
何かを買うとき、「ゴミになるかどうか?」「処分するとき大変か?」などを考えるようになりましたもん。
そんな体験のおかげで
「モノを持つ」ということに対する責任だったり、
劣化していくリスクを考えることだったり、
モノとの付き合いかたについて考える機会をいただき、
「わたしはできるだけ自分で迎え入れたものは自分で処分するようにして、最期までそのモノの面倒をみたいな」
と思うようになりました。
「終活」とかいう言葉もあるけれど、
ほんと、いつ死んでも周りの人が処分に困らないようになるべくシンプルにしておきたいわ(笑)。
人って普通に暮らしてるだけで、意外とモノを持ってますからね〜
ミニマリストにはなろうと思わないけれど、
モノとの関係を見直す機会を何度かもらったから、
自分なりにシンプルになってきました。
これからもできるだけモノを増やさないようにして、
「好き」を大切にしつつシンプルな空間にしたいです。
今回のお引越しでも手放せなかった、母から譲り受けた数十年ものの家具たち。
それらはわたしの半生以上の年月を共にしてくれています。
これは「好き」とかなんとかいう次元ではないな。。
「あると便利な子」が残ってます。笑
ややテイストが違うのですが、年の功か なんとなく空間になじんでくれています。
将来的に買い替えなどで処分するかもしれないけれど
いまは愛着とともに使わせてもらっています。
いつまでお世話になるのかな〜😊
家具って安価なもの(すぐ壊れたり劣化するもの)以外は
なかなか買い替えませんよね。
先日実家に行ったら、わたしが小学生の頃から見ている和だんすがあって
「懐かしい〜」と思いました。
母もけっこう物持ちいいのかしら。。。笑
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