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君は愛されるために生まれた

「君は愛されるため生まれた」という歌のタイトルを聞いたことがおありになるでしょうか?

この歌はおそらくクリスチャンならどなたでも耳にし、歌ったことがあると思われるくらい有名なゴスペルソングです。

1997年に韓国のイ・ミンソプ牧師が作詞作曲して以来、少しずつ各国に広まり、現在では世界26各国語に訳され、親しまれています。

この歌詞の持つメッセージ力の強さは、多くの自殺願望を持つ人や孤独な人を死から踏みとどまらせてきたといいます。

先週の礼拝メッセージの中で、牧師が個人的に関わっておられる家族のいない一人のある孤独な少年が、この歌詞に惹かれ、この言葉の意味をもっと知りたい、どうしたら救われるのかと牧師に問いかける中で、悔い改めの祈りに導かれ、イエス・キリストを主として受け入れ、救いに導かれたという逸話を聞きました。

どんな環境に置かれていても、神様は孤独でつらい思いをしている人の訴えを、ご自分を叫び求める声を、絶対に聞き逃すことはないのだとあらためて知り、心が震えるほどの感動を味わいました。

世の中には、「愛」という言葉を聞くだけで、「そんな安っぽい言葉は聞きたくもない。愛なんてしょせんまやかしだ!虫唾が走る!」と拒否的になり、背中を向けてしまう方も少なくないでしょう。

ことに自分が幼少期に愛されたという実感をもてずに育ち、自分の存在価値も他人を愛する気持ちも分からない、という方ならなおさらのことです。

臨床心理学を勉強するようになり、小さい頃の外傷的体験(トラウマ)がどれほどその人を一生涯苦しめ続けるのか、ということを数多くの事例から実感をもって知るようになりました。

だけど、そんな風に「愛」に拒否的になるのは、その人の想定している「愛」の定義が、狭くて小さくて自分中心の、「人間の愛」だからなのです。

この歌の中で歌われているのはそんなちっぽけな、「人間の愛」ではなく、小さな私たちのためにどんな犠牲をも厭わない、人間の想定範囲内なんてはるかに超えてしまうくらいの、とんでもなく大きな大きな「神様の愛」なのです。

実は、この歌を作られたイ・ミンソプ牧師は、自身がご両親から暴力やネグレクトのような壮絶な虐待を受け、幼いころから何度も何度も死ぬことを考え続けてきた孤独な少年時代を送られた方です。

そんな中で、神の語りかける声を聴き、自分が誰からも愛されている実感がなかったとしても、神は私たち一人ひとりを愛するためにこの世に誕生させてくださったこと、自分も愛されている存在なのだと知り、この歌を書かれたのだそうです。

イ・ミンソプ牧師は語ります。
「奇跡は欠けているところ、足りないところにこそ起こるのだ」と。

だから「私には何も欠けているものはない。自分は価値のある人間だ。自分は自分の力でこの人生を切り拓いてきたのだ。だから神様の助けなんて必要ない」と言って神様を拒否する人の元には、神様がどんなにその人の心の扉をノックしたとしても、その人の所に入ってくることはできないのです。

マタイの福音書9:10~13

イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓についていた。
すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

ルカ18:9~14

自分を義人だと自認し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

自分を虐待し続けた父親が、神を否定し続け、いよいよ救急車で運ばれ、もう最期かもしれないと思ったとき、このままでは父が天に行けない!地獄に行ってしまう!と思ったイ・ミンソプ牧師が、必死の祈りの中で罪の悔い改めと主を受け入れる祈りに父親を導き、長い長い30年越しの確執が和解へと導かれたという証には、涙が止まりませんでした。

年老いた父親もそばについていた母親もその時にはミンソプ牧師と共に泣いていたそうです。
そして共に、イエスを主とする生き方へと変えられたのです。
これを奇跡と言わずして、何と呼ぶのでしょうか。

罪を犯したくて罪に手を染める人は誰もいません。
人を傷つけたくないのに、根底に深い心の傷を負っている人は、どうしても自分の意に反して(あるいは無意識のうちに、心の深い層に抑圧された自身の傷がその人を操作して)人を傷つけてしまうのです。

自分のことを「罪人」と自覚しなければ、人が神を求めることもないでしょう。そういう意味では、自分を立派な人間だと自認している人よりも、獄中につながれている孤独な人や、目に見える形で明らかに法を犯し続けていると自覚して苦しんでいる人のほうが、ずっと神様に近い場所にいるといえるのかもしれません。

おそらくミンソプ牧師の父親も、自分でも無意識のうちの人生早期の深い傷つき体験があり、人を愛したくてもうまく愛せない、そのために人から真に愛されていると実感することもできない、とても孤独な人だったのでしょう。

笑顔を絶やさず、柔和で穏やかな話し方をされるイ・ミンソプ牧師の背後に、そんな壮絶な家族の物語が隠れていたなんて、直接会ったことのある人は、きっと誰も想像もできないでしょう。

私自身も、こんな「愛」に満ちた美しい賛美に、そんな苦しい祈りがあったなんて、今まで全く知りませんでした。

これからこの歌を賛美するときには、世界中の孤独な人、傷を持っている人がどうか、神様の本当の「愛」を知ることができますようにと、祈りを込めて、今までとは違う真剣な気持ちで歌うことができそうです。

興味を持たれた方は、ぜひイ・ミンソプ牧師が日本の教会に招待されて語られたメッセージ動画を視聴してみてください。

君は 愛されるため 生まれた
君の 生涯は 愛で満ちている

君は 愛されるため 生まれた
君の 生涯は 愛で満ちている

永遠の神の愛は われらの
出会いの中で 実を結ぶ

きみの存在が 私には
どれほど大きな 喜びでしょう

君は 愛されるため 生まれた
今もその愛 受けている

君は 愛されるため 生まれた
今もその愛 受けている

2024年1月28日礼拝メッセージ「死ぬことなく、かえって生きて」イ・ミンソプ師 詩編118篇17節 (youtube.com)