3.11

今から10年前の2011年3月11日、東日本大震災が発生した。当時、僕は宮城県在住の高校生だった。

揺れている間は「あぁ、僕はここで死ぬんだなぁ…」と思いの外冷静な思考回路の元でそんなことを考えていた。教室の窓ガラスが独りでに割れていき、それまで一度も閉まっているのを見たことが無い防火扉が「バターン!バターン!」と音を立てながら閉まっていた。

揺れが収まると校庭に避難することになった。校庭には地割れが起きていた。まだ3月の宮城県は当日雪が降っていたので待機中寒かった。

この時、僕を含めて友達何人かは「凄いことが起こったねぇ~」と呑気に話していた。メールだけが繋がっていたので、家族や親戚の無事は確認していたし、ちょっと高揚感を感じていたのだ(そういうとこやぞ)。

暫くして、教師陣から帰れる人は帰るように指示が出た。当然電車は動いて無いので、歩いて帰ろうとした。多分本当に歩いて帰ろうとしたら2~3時間くらいかかると思うけど、何の迷いも無く歩いて帰ろうとした。

ところが、学校の周りの道路が水で沈んでいた。車の車体が半分ぐらい浸かる位の水量だった。僕の通ってた高校は海に近かった為に直撃こそしなかったが津波の影響を受けたのだ。

父親が迎えに来てくれる予定だったが、結局その日は無理だとなり学校で一泊することになった。この時も僕はそこまで事態を深刻に考えてはいなかった。テレビとかが無いので、状況を全く把握してなかったので「まぁ明日には元通りになってるっしょ」位の気分でいた。

翌日、父親が朝早くにかなり大回りをして迎えに来てくれた。父の車のテレビで初めて事を重大を知って心底驚いた。決して頭がいい訳では無いが「津波」「メルトダウン」等の言葉を聞いて「え?これは不味いのでは?」となったのだ。家に着くと母親が涙を流しながら迎えてくれた。

我が家は市内にあって地盤もちゃんとしていたので家自体は大した被害が無かった。それから暫くはとにかく暇な毎日が続いた。何か買い出しに行こうにもお店も開いていないので、給水所に行く以外特にすることが無いのだ。電気が来るまでは窓際の日向で「みなみけ」等の漫画を読んで過ごしていた気がする。

突然終わった学校も新学期が始まるまで随分かかり、久しぶりに学校へ行った時は普段あまり学校が好きでは無かったが、友人や教師の顔を見て無性に嬉しくなった。

不幸中の幸いだったのがまだ寒い3月と言うこともあり、食べ物がすぐには傷まなかったのと汗をかくことも無かったので風呂等を我慢するのがそこまで苦痛で無かったことだ。これが7月やら8月だったら、より阿鼻叫喚の地獄絵図と化していたように思う。

逆に個人的に大変だったのはトイレ問題だ。トイレが使える施設へ向かう時間でしたいものもしたくなくなるのだ。特に母と妹は本当に大変だったと思う。また僕は大変に胃腸が弱いこともあり、一度夜中に下痢を起こしてしまったのだ。まだ水も使えなかったので、当時飼っていた犬のトイレにした。夜中に泣きながら後片付けをした思い出がある。非常事態のセットを用意してる方々、もしまだなら本当に簡易トイレは用意した方がいいよ!と僕は声を大にして伝えたい。

あの時凄く感じていたのは「元気でいれる人は元気でいるのが一番」と言うことだ。この何年か、また大きな地震や近年は大雨、今はまさにコロナで大変な人、辛い思いをしてる人も沢山いるのだろう。しかし、それに引っ張られるのはやはり良く無いのだろう。本来は元気で入れる人は元気でいるべきだと僕は思う。先ずはしっかりご飯を食べて自身の元気をしっかり維持するべきだろう。みんなで暗くなるより世の中は少しでも明るい方が絶対にいいのだ。

今はコロナのこともあり、なかなか旅行等へは腰が重い時期とは思うが世の中が少しでも落ち着いて来たら是非宮城へ遊びに行ってみて欲しい。日本三景の松島や、秋保へ行けば温泉もある。何より宮城は食べ物が美味しい。仙台牛の牛タン、ずんだ、豊富な海の幸(金華サバ、秋刀魚、牡蠣、ホヤ、ホタテ等々)。色んな人が宮城の良いところに触れて「あぁ、宮城って良いところだなぁ」となってくれるのが、宮城で育った身として本当に嬉しいことである。

あの大震災から早10年、未だ苦しみ戦ってる人、乗り越えて前に向かってる人と様々だろう。ただあの日感じた色々なことは忘れずにいて欲しいと10年経った今僕は何となくだが思うのだ。


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