「気がついた人がやる」のヤバさ

大学生の時に理系の学部に通っていた私。

3年生くらいから研究室に所属して卒論のための卒業研究を行うのだが、この研究室は思った以上に異常な空間だった。

私が所属しているのは総勢15人程度の所。一般的な規模感、成果もそこそこ出している研究室だと思うが、個人的にはこの空間がとても異常だった。

まず、途端に世界が狭くなった。
毎日同じメンバーと顔を合わせて、研究は毎日同じことの積み重ね。
2年生までは好きな授業を履修してその場で友達ができたり、毎日会う人が違い、自分の時間も十分あった。それが私の中の大学生というイメージだったし、結構楽しかった。しかし、急に同じ研究室を選んだからという理由だけで毎日長い時間共に過ごさなければいけない。
研究についても初めの頃は見たこともない機械を扱ったり実験が楽しかったが、楽しかった時期は1ヶ月もなかったと思う。卒論のテーマをもらってからは毎日同じような実験を繰り返して気がついたら1日が終わっている。
仕事も同じようなものだとは思うが、仕事はお金を稼げるが、研究は学費を払っている。研究室へのギャップが大きかった故よりつらくなってしまったのかもしれない。

世界が狭まったことと単調な日々に加えて共同生活の辛さも痛感した。
例えば、共用スペースで実験道具等を出してそのまま片付けずに放置してあったり、実験した後のテーブルにゴミが散乱しているなどは日常茶飯事。「後片付けしましょう」なんてことをいちいち言わないとできない20歳過ぎの人が多いし、少なくなった試薬を補充せずに次使う人のことを全く考えない自己中もいるし、イライラすることが多すぎた。

そんなこんなでストレス過多の研究室が苦手になった。
一時期、本当に行きたくなさすぎて泣きながら登校していたし、その時期を抜けてからもなるべく研究室にいる時間を短くしていた。今になって振り返ると卒業のためとは言え、別にそんなに頑張って行かなくてもよかったのになと思う。

嫌だった研究室だけど、学びはたくさんあった。

まず1番に「気がついた人がやる」の恐ろしさに気がつかされたこと。
研究室内のルールで結構これが採用されていたのだが(少なくとも私のいた所では)、「気がつかない人」は気がつこうともしないし、周りが見えていないから「やる人」はいつも同じ。でもやってもらったことも察知できないから一生気がつかないまま。

次に、「気がつかない人」に気がついてもらうことはほぼ不可能だということ。そしてそういう人にはなにも期待しない方が精神的に安定すること。ある種の異文化交流だと思って接すると無駄にイライラせずに過ごせる。

この学びのおかげで似たようなシチュエーションに出くわしてもあまりイライラしなくなったから、学生のうちにこのような体験ができてよかったかもしれない。

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