見出し画像

つまるところ、将棋が強いひとは「いじわる」なひと

どーもこんにちは,がばなーです。

今日は,将棋とはいったいどんなゲームか?と言う事について考えたいと思います。

将棋は相手が嫌がることをするゲーム

「将棋とはいったいどんなゲームか?」 

これは百人十色の答えが出るような問題ですが、私が考えるに、将棋とは結局のところ、相手が嫌がることをするゲームです。

相手が嫌がる事と言うと、例えば筋違い角や鬼殺しといった奇襲を想像すると思いますが、別にこれは奇襲に限った話ではありません。

例えば、ノーマル振り飛車に居飛車穴熊で挑むとか、相手の苦手戦法をわざとぶつけるとか、もっと違う例で言えば、王手飛車を掛けて大事な大事な飛車を取っちゃうとか、と金攻めをするとか、桂馬の頭をいじめるとか……、何でもいいです。

そして、相手にとって最も嫌なことというのが、王様を詰まされちゃう、つまり、負けることなわけです。お互いに相手が嫌がることをしていくと、いつかはなんらかの形で決着がつく、そういうゲームですよね。

なので、ある意味、「いじわるな人」が強いゲームなんです。

納得できない方もいると思いますから,言い方を変えてみましょう。将棋というのは2人が互いの利益を追求して戦う対戦型のゲームなので,どちらか一方が得をすれば,もう一方は必ず損をします。誰でも損はしたくないですから,一生懸命,損をしないように頑張ります。それは結果として,相手が嫌がることをしているというのと同じことです。

予防線 ~人格者であることとは別の話~

こういう身も蓋もない意見を聞いて,すっと納得できたひとは多分,将棋に向いた性格を持っています。

しかし,おそらく上記の意見に反論したがるひとも多いことでしょう。例えば,「プロ棋士の〇〇さんは性格がとても良くて,人格者です」などと言いたい方がいらっしゃるかと思います。

ただ,基本的に,「普段の生活で人格者であること」と,「盤上の強さを追い求めること(≒盤上で相手が嫌がることをすること)」は全く別の話です。そこを切り分けて考えないとおかしなことになります。

「盤上でのいじわる」は将棋というゲームのルールによって許容されてます。なので,盤上ではいじわるであればあるほどよいです。しかし,普段の生活では礼儀正しくしていたほうが何かと得です。

対局中は対戦相手にいじわるしてもいいですが,対局が終わったら仲良くしましょうね。ただし,初心者相手の指導対局ではいじわるしすぎずに,すこし緩めてあげてくださいね。

奇襲戦法は卑怯ではない。

わたしは以前,王道を往く,四間飛車党でした。プロ棋士のせんせーたちの多くが「強くなりたいなら奇襲などやらず,王道の戦法をやりなさい。例えば,矢倉や四間飛車がいいぞ。」と言っているからです。

わたしはその意見を真に受けて,四間飛車をずっとやってきたのですが,その反動で「奇襲戦法は卑怯」とか「奇襲戦法は本流ではない」とか,「奇襲戦法ばかり指していては強くなれない」とか,そういう高尚な思想を持っていました。

でも,奇襲をきちんと咎めるのって,難しいんですよね。当然,負けることもあります。というか,将棋は2人のうちのどっちかが負けるゲームで,しかも終盤のウェイトが高いので,奇襲をやられようがやられまいが,負けるときは負けます。

以前のわたしは,奇襲に負けたら,「王道の戦法を勉強しているわたしが奇襲に負けるなんておかしい,一生懸命やってるのになんで負けるんだ」と悔しがっていました。

しかし,よくよく考えてみると,「奇襲戦法は卑怯」という発想がそもそもおかしいんですよね。

多くの奇襲戦法は対策が確立されているので,その対策を知っていれば,奇襲を仕掛けられた側が有利とされています。なので,相手は不利を承知で,奇襲戦法を選択しているわけです。対策をきちんと勉強すれば,奇襲を仕掛けてくれるのはむしろ歓迎なわけで,「奇襲戦法は卑怯」と悪口を言う必要などありません。

プロ棋士の方々が奇襲をやらないのは,「やれば不利になる」から,ただそれだけの理由です。しかし,われわれアマチュアの場合は「奇襲をやると有利になる」,そういう可能性が低くありません。なので,奇襲をやってみるのも面白いですよね。

奇襲を毛嫌いしているそこの貴方もぜひ奇襲をやってみてください。奇襲をやってみることで,なにか新しく学べることがあるはずです。

麻雀漫画から学ぶ奇襲とイカサマの違い

少し脱線しますが,麻雀漫画の「哲也-雀聖と呼ばれた男」って知ってますか?(ちなみに,将棋漫画の「宗桂〜飛翔の譜〜」を描いた星野泰視せんせーがこの漫画の作画担当です。)

麻雀も古典的なボードゲームですが,大昔の手積み時代はイカサマが横行していたようです。手牌をすり替えたり,牌を何枚か隠し持ったり,自分が得するように牌を積み込んだり,いろんなイカサマのテクニックがあったようです。

「哲也-雀聖と呼ばれた男」は,主人公の阿佐田哲也がそういったイカサマを使って麻雀で勝ちまくる話なのです。

「主人公がイカサマ使うのは卑怯」と思われるかもしれませんが,敵もイカサマを使ってくるので,劇中では均衡が取れています。エンターテインメントとして,この漫画は非常に面白いです。この漫画の原作の「麻雀放浪記」の露悪的な雰囲気をうまく昇華して,娯楽性を高めた名作。知らない方は読んでみるといいかもしれませんね。

ただし,現代では哲也のようなイカサマはご法度で,厳しく禁じられているため,真似してはいけません。

さて,将棋の奇襲戦法は,麻雀のイカサマとどう違うのでしょうか?それはルールによって許容されているかどうかです。鬼殺しや筋違い角といった奇襲戦法はルールで禁じられていませんよね?なぜかというと,これらの戦法はゲームバランスを崩壊させるほどの強大さ,あるいは卑怯さを持っていないからなんです。

奇襲戦法を仕掛ける権利は,自分と相手の双方にあります。それは将棋というゲームの暗黙のルールです。相手の奇襲を咎めたいならば,それは指し手によって行われるべきで,口で批判するのは筋違いです。

「卑怯」という言葉は「怒り」という二次感情の発露に過ぎない

ところで,「怒り」という感情は,二次的な感情と言われています。元々は別のネガティブな感情が,怒りに変わっていくのです。

将棋に負けた悔しさから,ついつい苛立ってしまう気持ちはよくわかります。でも,「苛立つかどうかは,自分でコントロールできる」という,アンガーマネジメントの考え方が最近では広まっています。

悔しさは上達の原動力になることもありますが,悔しさが対戦相手への怒りや憎しみに変わってしまってはいけません。なので,奇襲戦法に負けても必要以上に悔しがらないことが重要です。「奇襲戦法は卑怯」などとSNSで批判しても何も変わらないのです(批判するのは楽しいけども,グッと我慢しましょう)。

「盤上でのいじわる」を許容する心の強さ

さて,ここまでの内容で言いたかったことをまとめた後,結論に入ります。

この記事では,以下の4点について話してきました。

(1)「将棋は相手が嫌がることをするゲームである」こと

(2)「将棋が強いひとは,盤上では”いじわる”である」こと

(3)「盤上での”いじわる”」は将棋というゲームのルールによって許容されていること

(4)卑怯な戦法というものは存在しないこと

こういった意見はインターネット上で散見されるものですが,以前のわたしは,こういった意見を見かけたら,その都度,強く反発していました。なので,わたし自身もがこの記事で書いたことが「100%正しい」とは思っていません。

でも,「そう言う側面もあるよね」と,自分の考えとは異なる意見を素直に受け入れられるようになったのが,私にとって1つの成長だったと思います。

以前のわたしには,「盤上でのいじわる」というものを許容する,心の強さや柔軟さ,そういったものが欠けていたように思うのです。

さてさて,最後までお付き合いいただきまして,どうもありがとうございました。ご意見,ご反論,なんでも構いませんので,コメント等いただければ幸いです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?