くるパーの名言から学ぶノーマライゼーション。
僕の好きな「GO」(2001年)という映画があります。
同作品は金城一紀氏原作の小説を映画化したもので、人気絶頂バリバリ時代の窪塚洋介が扮する「くるパー」の(恋愛に関する)物語。
落語が好きな在日朝鮮人の「くるパー」は様々な出会いを経て成長していく。
ハワイに行くために簡単に朝鮮籍を捨てる父親。
「とにかく走れ、捕まるなよ」と言う先輩。
愛国心を言い訳に暴れまわる昔の不良仲間。
大切なことを教えてくれずに逝ってしまった親友。
愛し合っていたはずのなのに、国籍の違いで豹変する恋人。
弱くて頼りなくて、情けないお巡りさん。
全ての出会いが「くるパー」の将来を形作っていく・・
在日朝鮮人、在日韓国人、純粋な日本人、どう違うの?違うからなに?と考えさせられます。
さらに。この映画の魅力はくるパーの名言の数々。
「名前って何?薔薇と呼んでいる花を違う名前にしてみても美しい香りはそのまま」
「凄いことに気づいた」と告げたまま逝ってしまった親友ジョンイルが遺した、ロミオとジュリエットの本に線が引かれていた文章。
韓国人とか朝鮮人とか名前をつけて区別をしているけど、なんと呼ぼうが自分は自分。国籍や呼び方が変わったからといって「くるパーはいい奴だ」ということは変わらないよ伝えたかったのかな。
「俺、自分の肌の色が緑色だったらよかったのにって本気で思う時ありますよ、そしたら自分が在日ってことを忘れなくてすむし、怖いって思うやつはハナから近よってこないし」
自分が在日であることを伝えた途端に、恋人から「怖い」と距離をおかれてしまった「くるパー」が偶然出会ったおまわりさんに愚痴ったセリフ。
日本人なのか、在日なのか、大した違いじゃないと思っていたのに。切ないです。
「ノ・ソイ・コレアーノ、ニ・ソイ・ハポネス、ジョ・ソイ・デサライガード」
在日朝鮮人のままか、在日韓国人になるのかを選べ、と言う父親に対してくるパーが出した答え。「自分は朝鮮人でも日本人でもない、ただの根無し草だ」とスペイン語で答えるシーン。
国籍なんてどうでもいいことだ、どっちでもいいことだと言い放つ、くるパーがめっちゃカッコよかったです。
「名前をつけなきゃ不安でしょうがねえんだろ?ライオンは自分のことライオンだなんで思ってねえからな」
在日だ、国籍だなんてしょうもないことを気にするのは、怖いからだろ!差別する人間を秀逸な言い回しで否定します。
くるパーにとっての国籍なんて、「ジャン・クロード・バンダムじゃなくて、ヴァンダムだ」とか、「マコーレカルキンじゃなくてマコーレーカルキン」だとか、そのくらいどうでもいいことなのに、パンツが見えても気にしない彼女にとっては、最愛の恋人が恐怖の対象に豹変してしまうくらい重大な問題となるのです。
恋人は最終的には、自分がくるパーを好きになったのは「彼の国籍」じゃなくて「彼の目」だったということに気がつくというハッピーエンドには、小説を読んだような多幸感を感じさせられます。
同作品の中では在日への差別をスタイリッシュに否定していますが、「障害」にも置き換えても見ることが出来るなと思います。
「障害」とか「自閉症」とか「行動障害」とか「こだわり」とか名前をつけて分類して、個人を判断することって、必要なのだろうか?
どんな呼び方をしても個人は個人。障害の有無ではなく、その人がどんな人なのかじゃないでしょうか。
「広い世界を見るのだ!」
くるパーのように広い世界を見ていきたいですね。
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