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夢、書物、夜

――何かが二度繰り返されるときにはじめて「謎」は生成する。(p75)
――ことばをかえれば、私がもし、簡単に解ってもらえるような仕方で、皆さんが解ったという確信をすっかり持てるような仕方で、話をすすめたら、対人的ディスクールに関する私の前提そのものからしても、誤解はどうしようもないものになってしまうでしょう。(ラカン『精神病〔下〕』、小出浩之他訳、岩波書店、1987年、9頁)(p124)

内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(文春文庫)

最近また、よく夢を見るようになった。先日はいくつかのエピソードのうち、このような夢を見た。――10冊ほど本を積み重ねて、外出に持っていく本を選んでいると、一番上に重ねた岩波文庫の「時間と自由」(ベルクソン)にしろ、と家人から言われる。自分で撒いた種だろう、と。

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かつて“現実感がなくなっていく”という理由で夢日記をやめて、ずいぶん経つ。それでも夢を思い出すということは、何かを伝えられているのだろうと思う。あるいは、処理しきれないことが自分のなかにある、とも言える。

この考え方は、むかし臨床心理学より借り受けたものだ。“夢があなたに何かを伝えようとしている”と言う人もいたように、この分野では、夢が直接に何かを示している、とは考えない。
カウンセリングで夢をあつかう場合も、解釈の決めつけは避けられる。夢がごく私的なものであるならば、早見表のように直接的な解釈はありえない。その代わりに、カウンセラーはクライアントのことばに耳を傾け、ときに問いを重ね、たぐりよせるようにその意味を共に探っていく。「答え」がすぐに洞察されることもあれば、人によっては長い期間をかけて探し続けることもある。

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書物との出会いもまた、ごく私的なものかもしれない。

本を手に入れる際、私は「いちど目に止まった本が、全く別の場面でもう一度目に止まったときは買う」ようにしている。二回も気になったのなら買ったらいい、というわけだ。特に、気になった理由や内容が分からないときに限って、このルールは適用されることが多い。つまり分かり切っていたら、その本はあまり買う気にならないということでもある。

冒頭の引用に沿えば、本は二度、私の目に止まることで「謎」となる。
実際に、何が書かれているのか、なぜ気になってしまったのか、といった関心が強くなるからこそ、その本を手に入れたくなるものだ。この関心はつまり、本に対して未知の領域があると感じ、自分と関係があるとも感じているのに、アクセスしにくいとも感じている状態だと言える。
おそらく、これが「謎」が生まれるということなのだろう。

私は「謎」となった書物に惹きつけられる。「謎」は未知の存在があることを知らせ、自らの無知を自覚させてくれる。それはワクワクさせてくれるが、あまりの見通しのなさに絶望感すら呼ぶものである。

そのような「謎」は、時に慣れ親しんだ日常生活にリンクすることもある。冒頭の夢を例に挙げてみよう。じつは「時間と自由」はすでに手に入れている本だ。何度か読んでみて、読み切ってもいないし、いまひとつ腑に落ちていない。そして実際に、机には10冊近く積み重ねられた本がある。つまり積読のなかでもこの本が最も消化不良だから、本を大量に溜め込むことにそれほど賛成していないであろう家人の口を借りて「読め」と言っているのだ、と解釈することもできる。

そうかもしれない。しかし、そんな解釈だけで十分なのだろうか。なぜ「時間と自由」なのか。一体あの夢はどういう出来事だったのか――
もちろん独りよがりの理解を避けるためには、過度な解釈を避けたほうがよい。しかし、分かりやすい解釈ほどあてにならないものもない。分かりやすく解釈されることで、それ以外の取りこぼされた解釈があるということを忘れてしまいかねないからだ。何より、書物との出会いがごく私的なものであるのなら、型通りの解釈なんてそうそう当てはまりはしないだろう。

解釈に向かって行きつ戻りつし、定めかねていると、日常生活にリンクした「謎」の存在感はしだいに大きくなる。その本に答えが書かれているはずなのに、はっきりと見えることはない。答えの周辺をぐるぐると廻り続けて、その本を読むときにも、書かれている内容と自分の抱えた「謎」が二重写しになっていく。

書物が「謎」となったとき、そこからは汲み尽くされることのない仮説と問いが生み出される。書物の本懐とは、まさに”とどまることのない自問自答”にあるのかもしれない。

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また、経験則ながら、数年ごとに自分の価値観を見直さざるを得ないような感覚に襲われることがある。それが最近やってきているような気がすると同時に、奇しくもこの間には足をくじいて、あろうことか骨折にまで至った。私はこの状況をまともに受け止めきれず、現実であることすら疑い始めている。

河合隼雄はかつて「中年クライシス」という言い方で、その年代の人々が陥る人生の行き詰まり感を表現したが、ひそかに私は、かなり前から、それこそ何度も、これに似たものが自分自身にやってきていると思ってきた。この時期には、小手先の解釈で済ませても、自分が十分に納得できる形で解決できなければ似たようなことが繰り返し起きる。

いつもなら答えだったものが、そうでなくなる。ときには問いそのものが何なのかさえも分からない。そういった状況にいると、今までの当たり前が、自分の価値観が揺り動かされてくる。かつてユングは、これを「夜の航海」と呼んだ。無意識の海で行く方も分からず、独りで小舟を漕いでいくような孤独をいう。
東畑開人氏は『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』(新潮社)で「夜の航海」に言及しているという。

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「謎」というものは、軽く扱われがちなのだろう。できるだけ早く答えを得たい、そう思うがあまりに、日頃の振る舞いや考え方まで表層的になってしまうのかもしれない。そうであるのなら、我々にはまず「謙虚さ」――自覚的であることが必要だとも思う。

ある概念が「何を意味するのか」が分からないままに「何かを意味しつつある」現場に私たちを召喚し、それに立ち会わせること、そのようにして「意味」という概念の「改鋳」を私たちに強いること、それがレヴィナスのテクスト・パフォーマンスのきわだった特徴である。レヴィナスはそのようなテクスト・パフォーマンスがめざすものを端的に「謎(エニグム)と呼んでいる。

内田樹『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫、p64)


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