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第48試合「99年1月4日」

今朝、ある記事を目にした。
小川直也が伝説の1999年1月4日の試合の話をしたのだ。
内容は「アントニオ猪木の指示で橋本真也に対しセメント試合を仕掛けた」と言う事である。
これはファンだったら周知の事実だろうし、何となくでも分かっていた事だろう。

しかし、私はこのコメントを聞いて逆に2つの疑問が出た。
1つ目は「何故、東京ドーム興行でやったのか?」
2つ目は「何故、橋本vs小川でやったのか?」である。

まず1つ目だが、これはドーム興行までの橋本真也の流れを見ると出て来る。
ドーム興行の前段階で橋本はスコット・ノートンに連敗。
更に不摂生から来る不調で練習もままならない状態だった。
その上、佐々木健介の台頭(一説では長州力の忖度が有ったとか)に加え、同時期に猪木・佐山聡が設立した世界格闘技連盟U.F.Oの盛り上がりにより、ドン・フライが参戦。U.F.Oのエース格になった小川と共に人気が出た。
この時点で橋本の評価は下がっているのだ。

その上でドーム興行の試合順を見てもらいたい。
第5試合 佐々木健介vs大仁田厚
第7試合 ドン・フライvsブライアン・ジョンストン
第8試合 橋本真也vs小川直也
第9試合(セミ)IWGPタッグタイトルマッチ
第10試合(メイン)IWGPヘビータイトルマッチ
2つ目の疑問だが、これはミスター雁之助のツイートにヒントが有る。
「あのドームで大仁田さんの毒を上回るにはそれ以上のセンセーショナルな話題が必要だった。」
当初、猪木は邪道大仁田のドーム参戦には反対だった。
しかし、大仁田はドームに居る。どういうことか?
これは当時現場監督だった長州の考えだったのではないか。
長州としては佐々木に注目させたい、だがまだ若手の佐々木を後の試合に回せない。だから毒である大仁田と組ませてインパクトを出そうとしたのではないか。
タイトルマッチまでには時間がある為、最後の2試合までには余裕が有る。5試合目で一度盛り上げて、そこからタイトルマッチまで流れていく。
幸い、後の試合は若い永田・外国人同士の試合・下降線の橋本である。

だが、猪木もここで大仁田に良い思いをさせる訳にはいかない。
そこで注目したのが小川である。格闘家の小川がレスラーの橋本に勝ったとしたら、それも完膚なきまでに叩きのめしたらどうなるか。
そして、小川にオーダーを出す。ブックを破ってセメントで試合をしろと。

結局、橋本は完膚なきまでに叩きのめされた。
その後、小川との因縁の対決を経て橋本は新日本退団まで行く事となる。
そして橋本は更に会社に対して不信感を募らす事となる。

これと同じくして全日本プロレス社長三沢光晴が解任、プロレスリングNOAHを旗揚げする事となった。
三沢も全日本に対して不信感が高まり、プロレスそのものに愛想が尽きる所まで来ていた。形は違えど、橋本の境遇に似ている。
そんな三沢が新団体を立ち上げた。
新日本を退団していた橋本が新団体で奮闘する三沢に姿を重ねて、一念発起したのだろう。
NOAH設立から約1年後、新団体ZERO1を立ち上げる事となった。

橋本はただ不平不満だけでZERO1を立ち上げたのか?両国での旗揚げ戦の際
「破壊なくして創造はなし、悪しき古きが滅せねば誕生もなし、時代を開く勇者たれ!」と挨拶をした。
この考えは三沢光晴が言った「これもプロレス」に通ずる所が有る。
古い習慣を壊し、新しいプロレスを魅せていく。
これが本当に橋本がやりたかったプロレスなのではないか。

だが、不運にも時代が橋本を待ってはくれなかった。
1.4事変以降、格闘技至上主義がファンに根付き、プロレス離れが加速。
ZERO1自体もNOAHや全日本と合同で興行を組むも人気復活とならない上に自身の肩の怪我で試合そのものが満足に行えない日々。
結局、敵であるPRIDEと組みハッスルを立ち上げるも団体運営が上手くいかずZERO1は解散、自身も志半ばで天国に旅立つこととなった。

この1.4事変とZERO1設立の因果関係は橋本真也が新しく生まれ変わる為の場を設けたいと思ったのが影響してたのではないだろうか?
新日本プロレスのパワーバランス崩壊でカマセ犬にさせられ、更に新しい団体で輝こうにも自分で起こした1.4事変により時代や他団体が待ってくれなかった。

一番の加害者であり一番の被害者こそ橋本真也だったのだ。

(敬称略)

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