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ロマンシュ語 magiel の語源はラテン語の modiolus

日本でのロマンシュ語の知名度が高くなって久しいが、その分、皆さんがロマンシュ語に触れる機会も増え、あるロマンシュ語の語源が気になって仕方ないということも今や日常茶飯事ではないだろうか。この記事では magiel という語を例に、気になったロマンシュ語の語源の調べ方について解説する。

mesPledaris で方言形を調べる

ロマンシュ語には magiel /maˈdʑiəl/ という語がある。「グラス、コップ」といった意味である。より正確にいうと、magiel というのは標準ロマンシュ語 Rumantsch Grischun /ruˈmantʃ ɡriˈʒun/ での表記であり、各方言形では次のようになる。

Rumantsch Grischun: magiel
Sursilvan: migiel (pl: migeuls)
Sutsilvan: migiel, magiel
Surmiran: magiol
Puter: magöl
Vallader: magöl

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各方言形を手っ取り早く調べるには mesPledaris https://www.pledari.ch というサイトが便利である。ドイツ語、イタリア語、フランス語、そして英語の4言語版があり、それぞれの言語とロマンシュ語の各方言形とで双方向に調べることができる。例えば、たまたま magöl という語を目にして、これがロマンシュ語であろうとの見当がついても、どの方言形かわからない、といった場合は Search direction(英語版 myPledari の場合)で [Rumantsch (total) -> ... ] を選べば、自動で上のような magiel の各方言形を一覧にして表示してくれる。

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さて、このようにして英語版の myPledari で magiel なり magöl なりを調べると、この語が英語の «glass, drinking glass» に相当する男性名詞であることがわかる。同様にイタリア語版やフランス語版で調べると、それぞれ «bicchiere»、«verre» に相当することがわかる。同じスイスという国で話される同じロマンス語であるにも関わらず三者三様である(フランス語はグラウビュンデン州では話されないが)。ここまではっきり違うと、素人目にも語源が異なるだろうと推測できる。ではドイツ語由来だろうか。というのも、グラウビュンデン州はスイス連邦内でもロマンシュ語が話される唯一の州ではあるけれども、一番勢力のある言語はやはりドイツ語なので、ロマンシュ語もこのゲルマン語に大きく影響を受けているのだ。というわけで、今度はドイツ語版で調べてみると、対応するドイツ語は «Glas / Trinkglas» と出る。説明するまでもなく、これは英語と同系列の語であるが、少なくとも magiel の語源であるとは思われない。では magiel はどこから来たのか。

フランス語の verre であれば、語源はラテン語の uitrum である。イタリア語の bicchiere の語源は、後期ラテン語の bīcārium である。(ちなみにドイツ語の Becher やフランス語の pichet も直接間接にこの語につながるらしい。)メジャーな言語であれば、大辞典の各項目に語源欄があったり、語源を調べるためだけの語源辞典があったりする。なんなら wiktionary で調べるだけでも、大方の語源はわかってしまう。ところが、ロマンシュ語となるとそうはいかない。magiel は wiktionary の見出しにすらなっていない。これはもうグラウビュンデン州まで行って Dicziunari Rumantsch Grischun で調べるしかない。

Dicziunari Rumantsch Grischun (DRG)

Dicziunari Rumantsch Grischun (DRG)とは、Schweizerischen Idiotikon (ドイツ語)、 Glossaire des patois de la Suisse romande (フランス語)、Vocabolario dei dialetti della Svizzera italiana(イタリア語)と並んで、スイスの国家的辞書編纂事業の一つである。20世紀初頭から編纂が始まり、今もなおその作業は継続されている。第1巻のAに始まり、昨年の2020年に刊行されたばかりの第14巻ではMの途中までが収録されている。というか21世紀に入ってからほぼずっとMである。果たしていつ完成するのか。その頃に我々は生きているのか。ともあれ、それだけ大きな辞書である。語源についての記述もあるに違いない。ちなみに、辞書の名前に Rumantsch Grischun とあるが、これは記事の冒頭でも言及したいわゆる標準ロマンシュ語としての rumantsch grischun (1982年制定)ではない。「グラウビュンデン州で話されているロマンシュ語の辞書」といった意味合いでVallader 方言形で名付けられたものである(結果的に標準語でも同じ綴りになっている)。

そんな100年余りの歴史がある辞書なので、当然ながら電子化なんてされているはずもなく、引くためには遠路はるばるスイスまで行かなくてはならない。(もちろん買おうと思えば買えるので、日本国内にもあるのかもしれない。各巻2万円くらいするが。)という状況だったが、なんと2018年の暮れに既刊分がオンラインで公開された。電子化作業は中国の南京で行われたらしい。予算の都合による外注とのことで、人文科学系学術事業の世知辛さは何処も同じである。

参考:A Swiss dictionary made in China - SWI
https://www.swissinfo.ch/eng/romansh-in-the-digital-age_a-swiss-dictionary-made-in-china/44609660

何はともあれ、DRG-Online (http://online.drg.ch) である。先述の通り、既刊分に当たるMの途中までしか扱われていないが、magiel はかろうじてこの範囲に含まれている。早速調べてみよう。

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DRG-Online を使用するにあたっていくつか注意点がある。
まず、語釈、語法や語源の解説は全てドイツ語で書かれている。DRG-Online のインターフェイスも基本的にはドイツ語かロマンシュ語からしか選択できない。
また、DRGの紹介で述べたように、標準語が策定される前からの辞書なので、見出し形が必ずしも標準語の綴りと一致するとは限らない。とはいえ、標準語形もいずれかの方言形から採用されていることがほとんどなので、見出しと異なっていても全文検索によってたどり着くことは可能である。
それから、前提として、個人利用なら基本的に無料であるが、商用利用はできない。

調べる手順としては、左メニューから[Neue Suche/Nova tschertga]を選択し、 表示された[Suchbegriff/Noziun da tscherrtga]欄に調べたい語を入れるだけである。magiel の語を入力し検索してみると、GLAS と MAGÖL I の二項目が現れる。前者はドイツ語からの借用語だろう。そして、後者は mesPledari でみた Puter/Vallader方言形と一致する。求めていたのはまさにこの項目である。

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項目を開くと、まず最初に、各方言形とドイツ語での簡単な訳語、歴史的な文献に現れる様々な語形が列挙され、その後に数を振られた語義ごとの解説と用例が続く。そして、記事の末尾にやや小さい文字で、今回の目的である語源の解説がある。

magiel の語源は MODIŎLUS

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magiel の語源はラテン語のMODIUS「(穀物の)計量単位、枡」の指小辞形 MODIŎLUS「飲むための器」である。これが我々の探し求めていた答えである。その他、古プロヴァンス語 muiol、古イタリア語 miolo、古ヴェネツィア語 muzuol(>フリウーリ語 muzûl)も同様に「飲むための容器」の意味があること。この語はもともとエンガディン地方(五方言のうち東の Vallader と Puter が話される地域。この二つを合わせてラディン方言ともいう)にしかなく、ドイツ語由来の語彙(この場合は Glas)を除去しようとする「むなしい」試みによって、残りの方言に、それぞれの方言音に適応させつつ借用されたことなどがわかる。(DRG 11, 780, 55-74)

こうして我々は magiel の語源がラテン語の modiolus に遡ることを突き止めた。子供とロマンシュ語で話している時に、突然「magielの語源はなんなの?」と聞かれても胸を張って答えることが出来る。

ちょっと脱線:他のロマンス語での modiolus その後

ちなみに水谷版『研究社羅和辞典』で modiolus を引くと「①(水車の)水受け.②車輪受け.③車軸の中心部,こしき.(…)」とあって、ピッタリくる語義がないが、旧版の田中版で調べると「1. 小さな枡.2. コップ.(…)」とある。Gaffiot にも «petit vase à boire»、Lewis & Short にも «A kind of drinking-vessel» として、どちらも Digesta. 34, 2, 37. を参照しているので、古典期においてどうだったかはわからないが少なくとも6世紀のラテン語ではその意味で使われることがあったのだろう。

また、DRGの語源欄で「古イタリア語」などはわざわざ「古」とつけている。現代語には残っていないということだろうか。ためしに小学館の『伊和中辞典』を引いてみると、見出し語として miola は見つからない。これまた巨大なイタリア語の歴史辞書 Grande dizionario della lingua italiana (http://www.gdli.it/)を引いてみるとmiòlo「ガラス製のコップ」を表す古い方言形とあり、miuòlo, mivòlo, mizòlo, muiuòlo などの形があったことがわかる。また、同語源の語として、DRGと同様に古ヴェネツィア語 muzuòl、フリウーリ語 muzul の他に、パードヴァ語 medzuòlo、ボローニャ語 mdzuòl、そしてフランス語の moyeu、プロヴァンス語の mojol をあげている。

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フランス語の moyeu /mwajø/ は「(車輪の)ハブ、ボス、こしき」という意味である。水谷版『羅和辞典』があげていた語義にも通ずる。同じ modiolus の子孫として現代語に残る magiel と moyeu は意味も形も(音も)ずいぶん異なるように思えるが、原義の「小さい枡」から「円筒状の容器」を指すようになり、それぞれ「グラス」と「ハブ」に限定的に使われるようになったのだろう。ちなみにラテン語の modius はフランス語で muid となって容積を表す単位として使われた。

ところで日本語の「こしき(轂)」も「こしき(甑)」と同源なのだろうか。そうだとすると、調理器具とハブという似たような関係がロマンス語と日本語に共通して存在しているのが面白い。あるいは英語の hub と hob の関係の方がこれに近いかもしれない。



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