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正解はないけれど…

この記事の続編にあたる記事を書きました。

書くかどうか迷っているうちに、謝罪動画も出てしまったので、今更な感じもあるけれど、Twitter上で多少のやりとりもして、(ある意味で)謝罪に追い込んだ当事者として、自分の考えをまとめて表しておくのも大切かなと思って書いてみる。

先に前提として述べておきたい点として:
・私は「ゆる言語学ラジオ」を面白いと思っている
・基本的には「ゆる言語学ラジオ」を応援している
だから、この記事は「ゆる言語学ラジオへの批判」記事ではない。内容への具体的な指摘も含まれない。

話の都合上、この記事は「ゆる言語学ラジオ」への言及がその大半を占めるけれど、主題は「素人が発信すること」への付き合い方である。

ゆる言語学ラジオが私に絡まれてしまった経緯

この文章全体が脈絡のないようなものだけれど、なぜこれを書くに至ったか、経緯を示しておいた方が読む方も理解しやすいと思うので、まずことの流れを説明する。

お二人が「ゆる言語学ラジオ」の活動を始めたのは2021年3月10日頃のようだ。YouTube以外の音声メディアでも同内容で配信しているらしいが、私はYouTubeしか拝見していないので、それ以外のメディアについては言及しない。

5/17、TwitterのTLで#11の内容の危うさが言及され始める。それ以前にも、私のYouTubeのおすすめに何度かサムネが表示されていた記憶はあるのだけれど、その時点では一度も見たことはなかった。「あ、あれか」と思って、自分でも当該回を視聴した。私がみた時はチャンネル登録者数はまだ1万にも届いてなかったように思う。

その夜、日付を跨いで5/18、私自身もTwitter上で田川先生のブログ記事を引用した上で、「ゆる言語学ラジオ」に言及した。

私が田川先生のブログを参照したのは、問題視されている本への批判記事がまとめられており、私も過去にそれで勉強したことがあるからだけれど、同じく動画をみた上で先生のブログにたどり着く人もいたようで、翌日には先生も動画の存在に気づいたようだった。それと前後して、ゆる言語学ラジオの「中の人」から直接リプライをもらう。

「指摘」したのはおそらく私だけではないし、この後直接田川先生ともやりとりしている(後述)ので、私ひとりの所為ではないだろうけれど、この日を境に水野さんは胃が痛い日々を過ごすことになってしまったわけで、私も一つ、申し開きをしておこうと思ってこの記事を書こうと思った、というのが事の次第である。

素人から素人へ

そもそも偉そうに講釈を…いや講釈すら垂れずに文句ばかり言ってるお前は何者なのか。実の所、私は今アカデミアの世界に籍を置いていない。何年か大学院にはいたが、もともと個別言語学畑の出身で、独学で言語学の本を何冊か読んだりしたことはあっても、「言語学」の講義を受けたことはない。そういう意味では水野さん以上に素人とも言える。少なくとも「ガチ言語学勢」ではない。

ただ、私も10年以上Twitter上での「ゆる言語学クラスタ」みたいなところでいろんな人と交流する中で、たまたま「言語学初心者が迂闊に近づいてはいけない本」の存在を教えてもらうこともあり、たまたまそのうちの一冊が今回の動画で紹介されていた、というだけである。

したがって私には別に他人のことをとやかく言う資格はない。私の普段のツイートを知っている人の中には、それこそ「お前が言うな」と言いたくなる人もいるだろう。とは言え、自分がテキトーな発言をして諌められるという経験も含め、多少なりとも学問の世界に片足突っ込んだ状態で長くいると、思うところはそれなりに出てくる。

専門の先生方が直接指摘できるのならそれが一番いいのかもしれない。しかし、物理的にも各々の先生が割くことのできる時間は有限だし、実際のところ「素人相手に」どこまで本気になって良いかというのは難しい問題である。私のようなものが、直接手解きを受けられたことは(当時は院生という立場であったけれども)とてもラッキーなことであった。だから、今の私の立場でできる恩返しを、と大層なことを考えているわけでもないけれど…、まあ、無責任にTwitterで文句を垂れ流している自分の態度も褒められたものではないなと思って、この記事を書いている。

それでも応援する理由

冒頭で「ゆる言語学ラジオ」の取り組みを応援していると言った。

YouTube動画なり、Podcastなり、基本的にはエンタメである。やはり、見てもらう、聞いてもらうためには面白く話を進めなくてはならない。それは一つの技術であり、一つの才能であり、それを準備したり撮影したり編集したりという一連の作業には時間も労力もかかる。間違っているというならお前がやればいいという声もあるかもしれない。ごもっともな意見であるけれど、そもそもが誰にだって出来ることではないのだ。その点は素直に尊敬するものがある。

また、言語学的な内容を扱っている動画は他にもたくさんある。こういう言い方も気が引けるが、その中ではまだまだマシな方である。少なくとも参照した文献をきちんと紹介しているだけでもかなりしっかりしている。実際のところ、専門の先生方の中にも好意的な評価を見せている方もいる。(そしてツイートを引用した近藤先生ご本人にこの記事が紹介され私が恐れ慄くことになる)

そして何より、指摘に対する態度である。もちろん人間的な意味でも誠実な方なのだろうけれど、言語学に対しても誠実であろうとされているように見受けられる。学問における誠実性とは何か、についてこれを機に改めて考えているけれど、一つの答えとしては、批判や指摘を受け付けること、そして、誤謬の修正やあるいは再批判をきちんと行うことなのかな、と思っている。(批判に対して表面的に謝罪しても、訂正も反論もしないのであれば、それは学問的には誠実とは言えないと思う。一方でその批判が取り組むに値しないと判断して無視するのは勿論自由である。実際、学術的には価値のないただの難癖というのは存在するし、私の発言も結果的にそうなることがある)

この態度に関しては、わざわざ私の発言にリプライしてくださったこともそうだし、後で紹介する田川先生のブログでも言及されている通りである。私のしょうもないツイートがまるまる無視されても、むしろそれは当然だと思うけれど、通り一遍の謝罪どころか、ちゃんと読み込んだ上で丁寧な返答をいただいた身としては、ちゃんと評価すべきだし、評価してもらえるよう書き留めておくべきだと思う。

かくして、謝罪と訂正を含んだ動画が公開された。その頃には一応書き始めていたこの記事も公開しづらくなり、結果的にだいぶ構成が変わった。

私が恐れていたのは、謝罪や訂正が行われた際に、
「面白ければいいじゃないか」
「言語学警察は要らない」
というようなコメントが溢れることだった。
実際には、色々な意味で怖いのであまりコメント欄を覗くことはしていないので、杞憂だったのかもしれない。しかし、私の問題意識の核心はここであり、この記事もそのために書いたようなものである。

面白さの代償

似たような話は何も言語学に限らないが、話題が学問的なものであろうとも、それがメディアで取り扱われれば、どうしても「おもしろおかしく」「刺激的な」紹介をされがちである。それはエンタメとしてのある種の仕方なさではある。多少の問題は孕んでいても多くの人に知ってもらうことは、学術的には精確誠実だけれど無味乾燥で誰にも見向きもされないよりは意義があることなのかもしれない。

しかし、諸刃の剣というか、エンタメの代償というか、一度そうして広まったことはもはや容易に訂正できない。なんだかんだで「テレビで言っていた」という信用度は侮れない。また、面白いとなれば人は知人に話したくなるものだけれど、人間は知人を介して聞いた話は、赤の他人(それがその道の専門家でも)より信頼しやすいというバイアスもかかる。

言語学に興味を持って、大学で学んだり、あるいは独学するうちに誤りに気づいて正しい認識に訂正されていくのなら、それでもいいのかもしれない。しかし、そういったケースは残念ながら少数派だろう。学問的に正確でなくとも、おもしろおかしい部分だけが人口に膾炙し(しかも本人たちはそれが学問的にも正確であると信じ)、もはや訂正しようとすることが無理な話になってしまう。

おそらく「ゆる言語学ラジオ」を見たことでおすすめに表示され、偶然見ることになったのだけれど、堀元さんが「ダサい引用」について語る動画で、夏目漱石が “I love you.” を「月が綺麗ですね」と訳したとする俗説に言及している。この俗説の萌芽は1970年代に見出されるらしいが、広く知られるようになったのはおそらく21世紀になってからの話で、こうも瞬く間に広がったのは、詰まるところ「面白いから」と言って良いと思う。しかし今となってはこれが俗説であると逐一指摘したところで煙たがれるだけだろう。誰もそんな「面白くない」指摘は望んでいない。(「月が綺麗ですね」の検証は次のページが詳しい)

つまり、ゆる言語学ラジオを視聴した方が、学術的には間違っている内容を、それが面白いからと他人に語ることもまた、堀元さんに言わせれば「ダサい引用」になってしまうのではないか。それでいいんですか?ソークラテース自身は「無知の知」という表現は使っていないけれど、それで「ソクラテス、ダサい」と言ってしまうのもダサくないですか?
「ダサい」ついでに言わせてもらうと、謝罪動画後の動画(#25)で、最後に「厳密な考証は行っておりません」「内容には諸説あります」と、丁寧に逃げを打っているのは(勿論それが誠実であろうという態度の表れであるというのは承知しているけれども)、やはり「ダサい」と思う。

なんだか、今度は堀元さんを批判しているような書き振りになってしまったが、この取組みは、堀元さんが聞き手として「ゆるく」反応しながら、水野さんに自由に語らせることで面白くなるというご本人の思惑もあるのだろうし、実際そこはうまくいっていると思う。

素人から素人へ その2

素人が言語について発信することについてでいうと、言語学というより語学よりの話だけれど、Twitterでは昔から賛否が分かれる存在がある。いわゆる「語学たん問題」である。もっと広い範囲で言えば「学術たん」とまとめられていたりもするけれど、言語に関するところで言えば、おそらくその「語学たん」ブームの火付け役でもある「英語たん」を筆頭に、それに続く形で2013年の春頃からさまざまな「〜語たん」が生まれた。

「英語たん」の中の人は多分「プロ」だろうけれど、次々と生まれる「〜語たん」の中には、おそらくこれから学んで行こうという学生が運営するものも多く含まれていて、すでにその言語に習熟している人や専門家から見ると、誤解を招く(というか本人が誤解している)説明や、まずい一般化、単なる間違いなどを次々と発信していくものもあった。

当然、直接指摘する人もいて、その指摘への対応は様々であったけれど、中には「自分は勉強中なのだから」「専門家ではないので」と開き直るものもあったし、「なぜ自分がそんなにいじめられなくてはならないのか」という被害者意識を表すもの(気持ちは察する)、元来「〜語たん」というのはみんなに好かれるようなキャラ作りも含めた活動であったから、そのフォロワー(嫌な言い方をすれば「取り巻き」)が「自分たちが楽しんでいるんだからいい」「無粋な突っ込みは気にしなくていい」というような反応をすることもあり、険悪な雰囲気を感じることもあったと記憶している。

こう書くと、かなり「語学たん」に対して否定的だと思われるかもしれないが、私はそこまで否定的ではなかった。とは言え、やはり間違いをそのまま放置しておくのも忍びなく、次のような記事を作成している。(@fotshu は当時フランス語関連の活動をまとめるために使っていた私のアカウントである)

前述の通り、「語学たん」をめぐるトラブルは多数見ていたので、当時の私はどういう形で伝えるべきかそれなりに悩んだ。自分から「大人げなく」とタイトルに入れているのも拙い工夫の痕跡である。

その結果どうなったか。少なくとも私が確認できる範囲では何も変わっていない。おそらく中の人はもうメンテナンスすることもなく放置しているようである。私の指摘の仕方がよくなかったからかもしれない。しかし、フランス語たんは現在も呟き続け、フォロワーは8000を越えている。

私が「素人が発信すること」にどう付き合うか、自分はどう発信していくべきなのか、という問題意識を持ち始めたのはこの頃からである。

素人が発信するメリット

昔のインターネットには「半年ROMってろ」という言葉があった。インターネットが広がる前は、そもそも素人が発信する場というものはかなり限られていた。今からしてみればなかったようなものである。今は誰でも気軽にすぐにでも発信することができる。「素人は発信するな」と言って済む時代ではない。

私自身、フランス語を学び初めて間もない頃はまだTwitterもなく、某大型掲示板が全盛期の頃で、外国語板のフランス語関連のスレッドでフランス語の質問があれば、自分で文法書を開いてそれに答えるという形で勉強していた。時には「フランス人はそんな言い方はしない」と言われ、参照した文法書を盾に取ると「そんな文法書は燃やした方がいい」と言われたりもした。今でいう「クソリプ」である。しかし、私自身もまだまだひよっこ学習者ではあったので、他人に教えているつもりで、より詳しい人たちに教えてもらうことはたくさんあった。

先日、ロマンシュ語の語源についての記事を公開したが、私はロマンシュ語はたまに趣味で勉強している程度で話せるわけでもないただの素人である。公開することに躊躇いも感じるけれど、より詳しい人に指摘してもらうことで自分にとっても勉強になるし、そのやりとりが他の誰かのためにもなるかもしれないという期待もある。誰か指摘してくれ!

学問的に誠実に

そんなわけで、私は素人が学術的なことについて発信していくことを否定しない。素人が発信する以上、間違いが含まれることもある程度は仕方ない。というかプロが書いたものだって誤りは含まれる。結果的に誤りであることが後からわかることもある。ただ、だからと言って開き直ることもまた違う。おそらくそれは自分の勉強にもならないだろう。素人が(そしてプロであっても)発信する上で大切なことは誠実であることだ。上にも書いたけれど、発信する上での学問的な誠実性とは、自分の発信に対しての批判や指摘を受け付けること、そして、誤謬の修正やあるいは再批判をきちんと行うこと、というのが、ここ最近考えてひとまず出した答えである。

まぁ、理想論なので、私はこれからもTwitterではテキトーなことを言うけれど。

専門家から素人へ

そうは言っても素人が発信する世の中である以上、素人同士の化かしあいはなくならないし、お前もテキトーなこと言うんじゃ、結局何を信じればいいのだという話になる。専門書を読め、専門家に話を聞け、で済むなら件の動画も生まれなかった。

こういった問題に専門家がどう対処すべきなのか、どう付き合うべきなのか、というのは難しい問題である。一般向けに啓蒙的な活動をされている先生方もいらっしゃるけれど、誰でもできるわけではない。上で述べたように、各々の先生の時間は有限だし、ただ間違いを指摘したところで、それが果たしてどれほどの影響力を持つのだろうか。労力に比して得られる効果はあまり期待できない。あるいは、指摘の仕方次第では、ただ相手のやる気を削ぐだけになりかねない。その結果、将来の有望なコンテンツの芽を摘むことになってしまうかもしれない。

結局のところ、徒労感とともに「難しいね」ということになってしまう。正解はないけれど、各自でできることをやるしかない。(そして、こういうことを考えるときに、私みたいな立場の人間が何を言える立場にあるのか、みたいな葛藤もある。)

実例:専門家から素人へ

以上が、この記事で一旦書き表しておきたかったことだけれど、この記事を読んでいる人の中には「ゆる言語学ラジオ」に興味を持って読みに来た人も多いだろうから、専門家ができることの一例として、言語学者が一般向けに(も)公開しているものを、いくつか紹介しておこう。

まず、気軽にと言うことであれば、再三言及している田川先生の動画がお薦めである。短くまとめられているものの、実際に言語学をこれから学ぶ学生向けに作られたものなので、まさにこれから学びたいと言う方が雰囲気を掴むのにもよいと思う。

安全な入門書の紹介としては同じく田川先生の次の記事や、もう少し骨太の文献一覧としては松浦先生のまとめが参考になる。

私はこのお二人の先生と個人的な交流があるので(と言ってもほぼTwitter上だけれど)それなりの信頼があるけれど、中には、信用できないと言う方もいるかもしれない。とは言え、紹介されている本は、多くの方が推薦しているものばかりなので、そこまでハズレはないだろうし、批判したいのであれば読んでから批判すれば良いと思う。建設的な批判であれば、多くの先生は真摯に応えてくれるはず。

君子になるために

逆に、刺激的なコンテンツが溢れるネットの海で「変な言語学」をつかまされないようにするためにはどう気をつけたらよいだろうか。一番確実なのは、やはり言語学をしっかり学ぶことで、まずは上で挙げられているような本を読むことだけれど、個人的なライフハックとして次のような言説や特徴が見られるものには近づかないことにしている。

・出典を全く載せない。
・「ネイティブはこう言わない」
・「学校では教えてくれない」
・言語の優劣にこだわる(「日本語はすごい」とか「英語は論理的」とか)
・やたら「学校文法」や既存の「英語教育」を批判する。
・とにかく生成文法が許せない。
・文系理系の二分法をなんの疑いもなく使う。
・具体的な説明のない「※諸説あります」

いや、物によっては読んだり見たりすることもあるけれど、その場合でも眉に唾をつけてみている。でも、私がそうできるのは、そういう危ういコンテンツやそれに対する識者の指摘をたくさん見てきたからでもある。(念のために付け加えておくと、上の主張をしていればそれが即ち「誤りだ」と言いたいわけではない。ただ、誠実な人はそんな煽り方をしないとは思うので、あえて近づく必要はない、ということ)

ゆる言語学ラジオを見る前に

最後にもう一度、ゆる言語学ラジオを推しておく。無視できない数の誤りが含まれていることについては目を背けられないけれども、お二人のやりとりが面白いことは確かだし、チャンネル登録者数の多さ(執筆時点で4万に届こうかというところ。すごい)が何よりそれを証明しているだろう。件の動画をきっかけに三上本も売れているらしい。もしかしたら、精確性にこだわって一般向けへの発信を控えている専門家よりも業界には貢献しているかもしれない。

とは言え、やっぱり立場上、手放しで紹介するのもはばかれるので、次の記事に目を通した上で実際の動画にあたることをお勧めしておきたい。

まずは、田川先生とゆる言語学ラジオとのやりとりをまとめた次の記事。

また、ここで問題となっている動画とは別の漢字を扱った回について指摘している次の一連の記事。(nkayさんは文字学の方で、他の記事も大変参考になるので漢字に興味がある方は是非読んで欲しい。)

(他にも勉強になりそうな指摘記事があればここに追記するかもしれない)

それから、実際に言語の専門家が作ったYouTubeコンテンツとしては、国立国語研究所(NINJAL)のYouTubeチャンネルがある。専門的な内容のものはとっつきにくいかもしれない(これが無料で見られるなんてすごい!)けれど、一般向けのフォーラムを記録したようなものもある。

と言うわけで改めまして、「ゆる言語学ラジオ」のご紹介です。是非楽しんでください。

ゆる言語学ラジオ:
https://www.youtube.com/channel/UCmpkIzF3xFzhPez7gXOyhVg/featured

それに言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない。あやまって取りあつかわれたり、不当にののしられたりしたときには、いつでも、父親である書いた本人のたすけを必要とする。自分だけの力では、身をまもることも自分をたすけることもできないのだから。
プラトーン『パイドロス』275d-e(藤沢訳)


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