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文章組手「生と死」3000字

 生は偶然、死は必然。
 父親と母親が出会い、愛し合い、結果として私が生まれた。二人が出会わなければ私はボーントゥーザワールドしなかった。これはなんという偶然。私だけでなく、世界中の人間全員が奇跡のような確率でこの世界に存在している。

 その先、最後にあるのは必然の死。心臓が止まれば終わる。87年生きた祖母も生まれてすぐに命を落とす子供も同じ。心臓が止まれば必ず死ぬ。

 たちが悪いことに生まれてから死ぬまでの期間は誰にもわからない。昔ゲームセンターに自分の死期がわかるゲームがあり、その結果35歳とかそこらだったがありがたいことに39回目の蒸し暑い梅雨前を感じることができている。

 生きるとは、生きるとは何か?ただただ心臓の鼓動、脳の指令のままに生きるのも正しいと思っている。しかし、70年ほど人生が続くと考えるとそれだけでは暇すぎる。暇だからこそ、人類は目標という概念を作ったのではないか?そして私は割とその目標を大切にしながら生きてきた。目標を達することが人生であるとも考えている。

 思えば中学生の時には将来の目標が出来上がっていた。文章組手で何度も書いているが西友になるということが自分自身の目標だった。それまでは学生として、子供として親の庇護の元で暮らしてきたが「声優になりたい」と思うことで人生が動き、大げさではあるがそれを「生きる理由」「人生の目標」としてセットしたのではないかと考えている。

「声優になれなきゃ死ぬことと同じ」

 冗談抜きでそう考えていたし当時つけていた日記にも書いていた。恐ろしい。クソだせえ。なんとも青臭い視野狭窄。視野を狭め、世界を矮小化させることで生に加速を付けて最短距離を駆け抜ける「フリ」をする。それは愚かで気付かぬように。
 目標なんて極論自己満足でしかない。会社などでの目標はまた違うかもしれないが、人生をかける夢、なりたい自分なんて自己満足だ。だってそれをしなくても生きていくことはできる。現に声優を辞めて生きている私がこの文章を書いている。

 だが、その自己満足が人生を、生をブチ上げるスパイスであり、必然である死に対しての唯一の抵抗だ。

 死とは消えることだ。この世界から肉体が消える。骨になりツボに入れられ拷問のように重たい石をその上に置かれて花粉症なのに花を供えられたりする。それが一般的な死。

 死は正直怖い。バチクソ怖い。オシッコ漏らしちゃうレベル。「怖くねー!早く死にてー!」と考えている方もいるだろうがそういうのも全然尊重する。ただ、私はバチクソ怖い。
 世界から消える。存在が消える。ならば何かを残したい。自分の生という人生の舞台、ステージ、映画、その主役である自分が消えてそこで全てが消えて終わる。だからこそ生きる。主役としてどこまで生を楽しめるのかを考える。死の瞬間「やりきったわ!待っとったで!」と言える状態を求めて足掻き苦しみ転がり進む。もしかしたら停止や後退をすればもっとマシになるかもしれないが、残念ながら生は生本番一発勝負。停滞・後退は概念としては存在するが事象としては存在しない。生きている時間が1秒進めば1秒死に近づく。

 若い私はビビった。さらに1999年に人類が滅亡するなんてことも言われていた。それはそれで何もなかったが、狭くなった視野の状態で生を充実全うするためギアを上げる。声優になる理由は何か?それは「必然の死」を心地よく受け入れるため。そのためには自分が納得できる人生を歩めばベストだからだ。ガキの時はそんなこと考えていなかったが、おっさんになった今、多分そんな理由だったのだろうなと考えてしまう。

 そして1つ誤算があった。ありがたいことに奇跡的に声優になり、いくつかの作品に声を吹き込みインターネットで本名を検索すると数点ヒットする。どうだ、人生の目標を叶え、死して名を残すことにも成功したぞ。これでいつ死んでも怖くね~!
 そんな時、全然人生が充実していなかった。いや、目標に到達し、やりたいことをやれている充実感はあった。だが、悲しいことに周りと比べてしまう。30歳も近くなった時、同年代と飲酒行為をすると払いを少なめにしてもらうことが増えてきた。周りは結婚や出産、責任ある立場など、確実に成長している。子供の時に思い描いた大人になっている。だが私はどうだ?毎日電話応対のバイトで受話器越しにヘコヘコ頭を下げ、少ない仕事を待ち続け、たまの収録を終わらせるとまた仕事がない日々に恐怖する。

 目標、人生の大目標の先を考えていなかった。目標が通過点であることを考えていなかった。声優になる。それは良い。その先は?仕事をバキバキにこなして更に名を売り事務所でも開くか?専門学校の講師になるなどして後進を育てるか?ノーノーノー。能力もヘボく名も売れていない自分にそんなことができるはずがない。今、何も考えずに毎月の支払いを払うことで精一杯だ。

 それを充実なんて言葉でごまかして生きてしまっていた。生きながら死んでいた。転がりはじめると早い早い。人生でないがしろにしてきた物、仕事や立場や年齢が謀反を起こし、棍棒刀てつはうなどで一気に精神をぶっ叩きにくる。

 声優を辞めた時、完全に人生が停滞した。死ぬのがめちゃくちゃ怖くなった。遠くにあると思いたい必然の死が自分の周りをうろつき首を吊るのを求めている。そんな気がした。とりあえず働いてはみたが、この仕事で一生やっていくことは不可能な仕事しかできない。
 思い切り人生を、生を走り込んできたと思ったが勘違いだった。自分がすべてをかけたつもりの人生は割と大したことがなく、その先に広がるドクソ長い人生が本番だったのだ。

 会社に入っても馴染めない中、文章を書くことで少しだけ救われた。だが、声優をやっていた時のイメージが脳にまとわり付いている。「これだけだとだめだぞ」と言っている。ではもうやりたいことは全部やるしかない。いろんな可能性に飛びつき、とりあえずは生きる。その中で掴めた出っ張りにしがみつき、それを大切にしていきたい。

 おっさんになってわかったのは確かに人生は自分が主役のステージだが、それを見ているのは自分一人ということだった。他人は他人の人生にさほど興味はない。なぜなら他人は自分の人生の脇役でしかないからだ。それはそれで良い。自分の人生を、生を自分のために集中することができる。やがて訪れる死に対して粛々と準備をすれば良い。嗚呼、素晴らしきかな人生。自分の生は自分の物であると認識できたからこそ自由に生きることができる。人生に囚われ、目標の奴隷になっていた毎日が終わると、不安を覚える広さのステージが待っていた。

 人生を受け入れると以前より死が怖くなくなった。相変わらず日々の支払いに追われる日々だが、それはそれで楽しめている。自由に生きると決めてがんじがらめになっていた毎日を一歩踏み出した時、不確かな生とタバコを吸いながらダラダラ待っている死が見えてきた。曖昧な道で安穏を吸い込みおっかなびっくり進んでいく。目標は生きること、その先は生きることを楽しむこと、最後は死と肩を組むこと。とりあえずそれだけを決めて今日もカレーを仕込んでいる。たまにやる滑舌の練習も愛しく思いながら。

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