文章組手「春」5000字

 春はゴミ。なぜなら声優事務所をクビになったのが春だからだ。春が目の前にいえたらぶん殴りたい。バットないしバールでぶん殴りたいのだ。目の前にこい。正座しろ。叩いて殴って殺害ポン!イエス!好きです!脳漿!!圧倒的飛び散り!!!
そこのけそこのけ声優事務所クビになった人間が通る!ハイカラさんを蹴り飛ばせ!エイエイオー!エイエイオー!

 もうね、今思い出しても震える。いや、わかっていた。放出される年の少し前から「多分今年いっぱいだろう」と思いながら過ごしていた。寒い冬を乗り越え、暖かい春が来る。その時期は契約更新だ。連絡があり、契約更新の旨が伝えられるとセーフ。「お話がありますので」と言われるとアウト。風のうわさでそういうことを聞いていた。

 たしか普通にバイトに向かおうと準備をしていたときだった。週5でバイトができる環境は金の余裕は生まれたが声優としての仕事のなさや能力のなさを実感するにはちょうど良かった。
「明後日事務所にこれますか?お話があります」

 ア、アウトー

 いや待てまだだ。まだ終わりじゃない。まだあわてるような時間じゃない。契約更新のシーズンだ。そのお話かもしれない。春っぽくて良い話題だねえ。もうすぐ桜も咲くって話だ。そうなると事務所の人との飲み会もある。花見ではないが酒は人を狂わせることがあるので室内の方が安心だ。

 さて、どうしよう。バイトに行かなければならない。ならない。ならないんだよ俺は。なぜなら日銭を稼がないと死ぬからだ。死ぬ?声優としての死は明後日に迫ってますが?待てよ。まだだ。まだ決まっていない。では同じ事務所の同期に連絡をしてみよう。多分そいつにもなんらかの連絡が来ているに違いない。俺は冷静だ。冷静さを失わないのは紳士の嗜み。冷静に家を出て自転車に鍵を打ち込む。荒々しい交尾のように。って家の鍵締めたっけ?締めた。締めたはず。なぜならいつも鍵をしまっているカバンのポケットに鍵が入っていてチャックまで締めているからだ。しかし本当に締めたか?家を出るとき、俺は考え事をしていた。自分の人生にとってかなり大切な考え事を。考え事というか考えられない。思考が青空に引っ張られて通勤と途中にあるポストの色も赤と認識できないレベルの状態になっている。
 落ち着け。落ち着くんだ。自転車を停めて徒歩2分。そこにコンビニのサンクスがある。電車は一本遅らせても遅刻しない。タバコ。まずはタバコを吸うのだ。マイルドセブンメンソールワン100ミリボックス。煙を入れて脳を麻痺させろ。遠回りな自殺を受け入れて厭世的に、ニヒリズムを保て。世界は思っているより曲がっている。曲がり角から顔を出していた悪魔に俺は気がついていたはずだ。来年はこの世界には存在していないと思い続けて数年だ。覚悟を決めて受け入れるのだ。寒い冬が終わり春が訪れる。春は卒業シーズンであると同時に新しいことをはじめるシーズンだ。これはきっかけなのだ。声優という肩書にしがみつき、自分が何者でもなくなることに恐れて動けなくなっている。それを断ち切るハサミだと思うべきだ。
 タバコが三本目に入った時、生まれてはじめてバイトをサボった。

次の日も一日家でのんびりしていた。もうそろそろ桜も咲き始める心躍るシーズン。人々は特に用事もないのに酒や馳走を持ち寄り花より仲間の痴態に声を上げる。そんな楽しい季節に自分のクビがぶった切られるのを感じるなんてどういうことだ。前世の自分が蛇を殺しすぎたのかもしれない。もしくはアルビノのイノシシを。一日がすぎるのが遅い。昼飯の材料を買いに行って自宅で作り食べ尽くすまで、たったの40分程度。何かをしている時はなにかに集中できるが、何もしていない時間に耐えられない。多分だが、明日、10年以上に渡る役者生活の終わりが待っている。もしかしたら違うかもしれない。しかし「俺は違う。ガンガンに仕事をやった」といえる状態ではない自覚が明日のショックを乗り越えるために小さな諦めをプレゼントしてくる。
 明日無職になる。厳密には今も無職の親戚みたいな状態だが肩書がある。合コン、飲み屋でのトーク、そして自分を支える物。その全てに「声優」という肩書はプラスになった。いや、もうそれしかなかった。それが消えるとただの無職30代男性の出来上がりだ。何も出来上がってはいない中年男性をこの美しい世界に爆誕させるのは忍びない。ではクビでも吊ろうかねえ!切られるから吊れないか!ガハハ!
 笑っている場合か。しかし笑うことくらいしか絶望に抵抗できる武器がないのだ。窓を開ければ陽光と花粉。俺を世界に連れ出そうと手を差し伸べるが明日までは何もしたくないのだ。誰にでも見せる優しさは悪意と同意だと拳で教えてやる。おい春。そこに座れ。歪な鉄の棒で仕置だ。痛くしないから殴らせてくださいよ。一年で数ヶ月しか会えないってのに俺を悲しませやがって。キスしてやる。その後はもちろん殴る。
 人間というのは悲しいことに肩書で構成されている。会社員、学生、主婦、無職。それらの肩書は変わり続けるが、肩書の中に上下があり、その最下層の無職に転落してしまう。いや、バイトはあるのだが会社員経験のない30代。この年令になればその先に転がっている絶望の香りは体臭となるほどに感じていた。しかし違う。今度は色が見えた。まだ人生にやり直しが利く年齢かもしれない。今ここで立ち止まることができて幸運なのかもしれない。そうやって明日受けるダメージを軽減する思考を広げ、繋げ、頼りない網を作っている。

 春は卒業、入学のシーズン。何かが終われば何かがはじまる。人間が生き続け、人生という旅を続けている限りは何かが終わり始まり続けるのだ。眠気も感じない。無限とも思える時間をタバコ、ゼロコーラ、ポテトチップスで埋め続けていたら朝になった。疲労感もない。心の中で膨らんでいるのはなんだ?名前を付けるには朧気で、気にしないには圧迫感がある。多分、持ち時間は数分だろう。そこでどうする?いや、まだ契約更新の可能性も残っている。事務所の人は俺を驚かすのが大好きだった。仕事が決まった時も「怒ってます」みたいな空気を出してドキドキしながら訪ねたら「お仕事で~す!」ときたこともある。そんなチャーミングな人たちだ。
 ビルのエレベーターは相変わらず遅い。今日はその遅さが少しうれしい。できれば地震が起こり停止してほしい。そんなドサクサに紛れいつの間にかあと一年。あと一年あれば頑張る。そう思って少し笑う。じゃあ今までの9年は頑張ったのか?「しょうがない。なんとかなる」で過ごして来なかったか?本気で頑張ったのは最初の数年、その後は声優としての能力でなく外交で仕事を取ろうとしていなかったか?人間は実力以上のことはできない。それを持ち前の邪悪さでなんとかしようとしていた。そんな部分からも卒業をしないといけないだろう。変わらなければいけない。どんな結果でも。そう思ってドアをノックした。

 再びドアを開けた時、自分の中で何かが変わっているのかと思ったがそうでもなかった。声優としての肩書はなくなったが、心ある言葉をかけてもらうことができた。その言葉は契約が切られる全員にかけているのかもしれないが、詳細は書かないが思っていたよりもいい空気だったってことだ。
 ただ、声優としての肩書がなくなったのは事実。いや、フリーの声優になったのか。ある程度仕事をやってきた人、実績がある人がフリーになるのは良い。故広川太一郎氏もフリーだった。だが自分はどうだ?ただの無職。有名なネット声優や声マネ主よりも名前は売れていない。だが、やっと、やっと事務所から解き放たれた。ならば自分のやりたいことを思い切りやるだけだ。春、新しいことをやるにはうってつけだ。遅いエレベーターにイラつく。早くここから出て、何かをはじめたい。

 ビルを一歩でたら心がベキっと折れた。急に来た。今までも声優仕事は少なく、これからも生活自体はさほどかわらない。しかし、一番大きな違いは「声優としての仕事が来ないこと」だ。仲の良いディレクターとかが奇跡的に連絡をくれるかもしれない。いや、そんなことはない。自分はそのディレクターからすればオンリーワンの存在でもない。ただ飲み会でちょっとおもしろい人間でしかない。
 思っている以上に自分自身に価値がない。声優だった時間、この事務所で過ごした時間に自分の価値を高めることができなかった。それが今、子の状態に繋がっているのだろう。やはり話し合いの時はある種の躁状態になっていたのか。冷静になってしまったら何もできない。今も事務所近くの公園でベンチに座り込み、ただただ紫煙を吐き出している。
 暖かい春の風が体を包むが、何も感じない。「それ」になりたくて過ごした2年、「それ」に進むために活動した4年、「それ」である喜びを実感した5年。考えれば18歳から子の年齢まで芸能・声優の世界しか知らなかった。売れなくともたまの仕事で表現をやり、ただただ、ただただしがみついてきた。
 この心の虚無は生き方がわからないからなのだろうか。声優でなくなったのだから何か仕事を探せば良いのだろう。バイトなんてすぐに辞めて就活をやればいい。多くの企業に落ちまくり辛い思いをするだろう。しかしありがたいことにバイト漬けの生活になっていた。多少の蓄えもある。新しい生活に向けて飛び出そう。
 だめだ、何をやるのかがブレまくっている。冷静な考えができない。フリーとして頑張り新しい事務所を目指すか?それとも就職か?何をやるにしても多少の計画性が必要になるのだが、今まで自分自身を構築していた物が全て吹き飛び何も考えられなくなっている。
 これから桜も咲き始める。なんとかしなければ。

 そう思い、最初にやった行動はバイトをやめることだった。就職するにしてもフリーで続けるにも、少しでも環境を変えることで何かが変わるのを期待した。そしてフリーとしてやっていくために一年間、二ヶ月ごとにトークライブを開催することにした。場所はNAKED LOFT。当時付き合っていた彼女は「やっと普通に働いてくれると思っていたのに」と言っていたが完全に無視して色々あって別れた。続けるにしても辞めるにしても完全燃焼をしないと過去に呪われてしまう。過去に呪われないためにも完全燃焼し、迷える魂を浄化せねばならないのだ。やってやる。やってやる。この一年で過去の自分を殺す。そして次の春には新しい自分となってリスタートする。それがどんなはじまりでも受け入れられるようになるまでやる。
 人生に行き詰まったらアクセルを踏むしかない。春、咲き乱れるは狂気の桜。吹き飛ぶ花弁に己を重ね、刹那を纏い進むのみ。

 そうした覚悟を持って活動し、現在はポンチャックマスターとして間借りカレー店の店主をしている。この状況は正解かどうかはわからない。しかし、ある種の表現者として皆様に文章やカレーを見せることができている今を割と気に入っている。厳しいことが続く毎日ではあるが、前には進むことができている。

 また春が来る。クビになった日のことは今でもその季節になれば思い出すし、春というテーマで最初に頭に浮かんだのがこのエピソードだった。多分、私はまだ自分自身を殺しきれていない。呪いも解けていない。だが、それを抱えながら足を引きずり血を垂れ流すことに耐えることができている。この呪いが誇りとなる時、あの最悪な春を抱きしめることができるのだろう。それを目的に生きるのは好みではないのでやらないが、汗をかきながら過ごす日々はいずれそこに到達するだろうと感じている。春にしては少し寒い今、数度目の初心を思い出し、文章組手の締め切りに追われて(少しぶっとばしたが)過ごしている。自営業を始めて初めての春。カレーの香りに包まれたうさぎ小屋は、割と居心地が良い。

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