ボクはやっと

読書記録④ 「ボクはやっと認知症のことがわかった」

R2年読書記録vol.4

あの長谷川式評価スケールの作成で有名な、長谷川和夫先生の著書で、遺書とも言われている本です。
2年前、長谷川先生が自分が認知症になったことを公表したときは、すごく驚いたことを覚えています。

認知症の当事者の自叙伝は、これまでもありましたが、認知症研究の第一人者のエピソードは、初めてであり、とてもインパクトがあります。

この本を一言でいうと、

「認知症の人の存在は、地域社会の寛容さや包摂する力の有無を映し出す鏡である」

と言えるかなと思います。

認知症を持つ方の周りには、3つの誤解があると言えます。

1つは、

「認知症の本質は、脳の障害である」という誤解です。

この考えは、いわばステレオタイプの考えであり、

「認知症の本質は、暮らしの障害」と捉えるべきだと考えられます。

脳の障害が本質だと捉えていると、「治す」「正す」「諭す」関わりが中心になってしまうでしょう。

これが大きな、偏見や誤解を生み、当事者や家族を苦しめているのかなと思います。

「暮らしの障害が本質」と捉えると、

「今までの普通の生活が出来なくて困っている人」となり、その障壁を取り除く、知恵や工夫が求められるでしょう。

2つめの誤解は、

「認知症は固定されたものである」という誤解です。

一日の中でも、変化するということ。

言わば、「グラデーションがある」と言えるかもしれないですね。

長谷川先生も、相談や講演をこなせる調子の良いときと、頭の中が混乱し、自分でも何を言っているかわからない時があるとのことです。

1日の中でも、処理できる量、負荷が変わるというとを前提にすべきだと考えられます。

利用者さんや入居者さんでも、朝は調子が良いけど、お昼にかけて表情が曇ってきて、昼下がりには「帰りたい」とおっしゃる方やせん妄が見られるがいます。

そういえば、実家の祖母も昼下がりには、5分おきくらいに

「なにかすることない?」

「お風呂入ったっけ?」

「ご飯食べたか?」

と聞きに来ていました。

夕方〜就寝にかけては、日中に比べ、やるべきことが決まっています。

(夕飯の準備、お風呂の用意、食事、お風呂、トイレ、就寝のように)

介護している両親は、頻回の訴えなので疲弊していましたが、今思うと、忘れてしまうのもありますが、

・忘れていると皆に迷惑がかかる

・お風呂に一気に入らないとガス代がもったいない

・早く全てを済ませて安心したい(判断材料を早く減らしたい)

という思いがあったのかもしれません。

3つ目の誤解は、

「困っている原因は、認知症を持つ人にある」ということ。

記憶力の低下、見当識障害、判断力の低下などの認知症の症状があることは、それだけでは本当は問題にはなりません。

世界に1人認知症の人しかいない世界だったらと考えれば、多分困らないですよね。

認知症を持つ人の周囲の環境「人・制度・文化・もの」という【枠組み】が、認知症の症状がある人をどう捉えるか、受け入れる思いやりがあるか?にかかっていると思います。

その枠組み次第では、

「手が掛かる困った老人」

になるのか

「普通と違ったところは多少ある個性的な人」

と映るのかが変わります。

つまり、

【認知症の人は、周囲の人間や社会の寛容さ、包摂する力の有無の程度を映し出す鏡のような存在】であると言えます。

あなたの目の前にいる、認知症を持つ人が、「困った老人」と見えているのであれば、困った老人と見えるような「枠組み=色眼鏡」があるといえます。

事実、敬老の文化がある沖縄県では、長谷川式で1桁くらいの方が、畑に行って帰ってという生活を特に困らずに過ごしています。

どういう枠組みがあるのか?振り返って見る必要があるそうです。


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