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『写真家ドアノー/音楽/パリ』展の感想。(約5000字)


はじめに。

私はルポライターでない。
そのためこの記事は、一般的な展覧会の現地取材記事とは異なるはずだ。改行も少ない。役立つ情報も一切無い。これを読めば訪れた気分になることも無いだろう。わかりやすいものが読みたい人は読まないことをお勧めする。
これは私が、ただ感想を述べたくて書いているだけのものであって、この場で本作品展が見るに値するかどうか評価を軽率に下したりはしない。
ここから先を読まれる方は、以上の前提を踏まえた上でどうか読んでもらいたい。


感想。

二〇二一年二月一六日、渋谷Bunkamura ザ・ミュージアムで開催中の『写真家ドアノー/音楽/パリ』に訪れた。

昨年の三月に横浜そごうで行われたドアノー展はコロナの影響で中止されてしまった。私は中止したおそらく当日、そごうの入り口でそれを知った。その悔しさもあり、今回の展覧会は街のポスターを見てすぐに行く事を決めた。

今回は主催も違うため、ポスターに彼の最も有名な一枚『パリ市庁舎前のキス』が使われていない時点で、その作品がない事は予期していたのでそこは驚かずに済んだ。のちに公式サイトを見れば、わざわざその旨が明記されていた。ドアノーと聞けば誰もが思い浮かべるあの一枚を展示しないのはやや挑戦的にも思えるが、本作品展は元々パリにある音楽博物館で開催されたものを日本向けにアレンジ開催されたもののようで、そもそもの趣旨が違うようである。
作品を眺めていると、「この辺りの華やかな写真は日本向けのアレンジだろうな」、となんとなく意図を推察できるが、それらがあることによって満足度は高められるので良いことだ。


私は写真に詳しくない。
しかし、写真には明々白々たる好みがある。
それについて書くとやや長くなるが、書いておかなければ私がこの展覧会について言及する意味がないので是非とも読んでもらいたい。

私の写真の好みとは、《匿名性》と、《空間に生きる人物》に尽きる。つまり、被写体の顔が判別に難く、纏う衣服によって被写体の性別、時代性、職業、社会的地位"のみ"が判別されるものを好む。"夜目遠目傘の内"のように帽子に隠れた顔や後ろ姿など、素性が隠れた写真はなんとも言えない興に入るのである。

または、被写体をやや遠景から撮影し、空間の中でいかに被写体が存在するかが提示されている作品を好む。それゆえ、被写体の顔が画面の大部分を閉めた、その者がその空間から切り離されたような写真にはほとんど関心が無い。
これは事物における、個そのものよりも、その個がいかに全体と関係するかに着目する私の世界の認識の仕方によるものである。言い換えると、"個人の特徴がいかに全体に寄与しているか"に私は着目するということだ。
『ガンバの冒険』で例を挙げる。あの物語には、主人公のガンバを始め、マンプク、ガクシャ、ヨイショ、イダテンといった十五匹の仲間がいる。名前の通りそれぞれ個性を持つが、私は彼らの個性に着目しつつ、それよりも彼らがいかに集団に"寄与するか"に着目する。全体主義的な考えだと言ってもよい。個の活躍より、個が生み出す全体の関係性を俯瞰するのをより好むのである。
写真家、植田正治に心惹かれる理由はそこである。彼の写真の方法には、そういった点を見出すことができる。


さてドアノーである。彼は職業写真家としてパリに生きる芸術家たちを多く撮影していたようだが、彼は屋内で音楽家を撮影するよりも、屋外で複数の人物を一度に画角に捉えた方がよほど得意なのではないかと伺えた。
一人にフォーカスしたポートレイトは正直あまり面白みがなく、ただの彼らの生きた記録といったような印象を持った。その中にも珠玉の作品はあったものの、多くは素通りするようなものだと私には思えた。


第1章"街角"では、度々登場するアコーディオンは楽器そのものが踊るようでテンポよく進む。
『パリ祭のラストワルツ』のドラマ性は言わずもがな、『サンタクロースとヴァイオリン弾き』、『音楽好きの肉屋』などの人々の目線や関係性には惹かれた。
そして、第2章"歌手"の一枚目、『サン=ジェルマン=デ=プレのジュリエット・グレコ』は恐ろしく完璧な一枚だった。キュレーター達も「この時代のパリの良さが全て詰まっている」と称したように、この写真ほど魅了した写真は他になかった。これ以上私が何か言葉を添えれば全て蛇足になるだろう。よって解説を避ける。

その写真の美しさによって、それ以降の第3章"ビストロ、キャバレー"、第4章"ジャズとロマ音楽"、第5章"スタジオ"、第6章"オペラ"のほとんどは霞んでしまった。

かろうじて立ち止まったのは、第5章"スタジオ"にある『ビュッフェクランポンのクラリネット工房』の連作だ。工房に降り注ぐ光の中、ベレー帽を被って作業をする職人や、彼らの一点を見つめる表情には絶妙な美しさと気品があった。これは、私がヨーロッパのヴィンテージファッションを好むからだろう。労働服を着た職人の彼らの手元に差し込む窓からの清らかな光は、私のうちに詩的な感情を興した。

第6章"オペラ"のうちの一枚にイヴ・サン=ローランがバレエ『カルメン』での衣装合わせをしている写真を見つけ、突然の登場に思わず見入ってしまった。知り合いに会ったも同然である。
黒いスーツを着た彼は、大きな白い一枚布を纏ったショービジネス界の女王ジジ・ジャンメールの後ろに立ち、二人で鏡を眺めている。彼はカフリンクスをのぞかせながら左腕を彼女の頭に乗せ、頭部に被せる装飾の様子を見せている。右腕は彼女の顔の右方に滝のように垂れた白い布を手で遊ばせながら流しているが、その指先にまで美学が溢れていてまた美しい。
私はイヴ・サン=ローランには"苦悩"というイメージしか持っていなかったため、彼が陶器でできたようなあの繊細すぎる顔立ちに満足げに幸福の笑みを浮かべ、その楽園のような優しげな表情をしているのを見ると、「楽しくてよかったね!」と安堵してしまった。しかし眺めているうちに、彼のその破顔から暗澹たる悲しみが滲み出ているように思えてくる印象的な一枚である。


そして、私が最も興味を惹かれたのは第7章"モーリス・バケ"のシリーズだ。チェリスト、俳優、登山家(スキーヤー)である男性を撮影したシリーズで、これがなんともコミカルだった。
モーリス・バケの風貌がそのコミカルさを引き立てる。眼窩が深く、大きく目を見開いてもまだ二重の幅が余るような目は眠たげにも見え、その上には黒く太い眉が繁茂している。それは目尻で突然折れ曲がるのだが、その歪さは彼の人相を繊細な芸術家というより大胆な喜劇役者に見せるのである。鼻も口もとにかく大きく、その口を頬の先まで突き上げて笑顔を作るので、それが返ってドアノーの写真にシュールレアリスムなリズムを生む。私が同じような作品を撮るなら、より匿名性の高い被写体を用いるが、ユーモラスなモーリス・バケがそれを担うことで、独特なコメディーを見せられている気分になる。
この一連の作品は非常にユーモアがあり、写真の外で笑っているドアノーを感じられるくらい愛着の湧くものだった。

《チェロは全裸で演奏できる稀有な楽器だ》
とドアノーのキャプションがつけられた作品『裸のチェリスト』は、全裸のモーリス・バケがその身体をチェロで隠しながら人前で演奏をしているという写真で思わず笑ってしまった。私自身チェロを弾いたことは少なからずあるが、そういったことを考えたことはなかった。

そして、とある邦題には感心した。
"D'eau majeure"とフランス語で名付けられた作品は、モーリス・バケが水の中から顔だけ出し、例によって眠そうな目を見開き、頰の先まで口を突き上げた満面の笑みでカメラを向いている。その手前にはいかだのようにチェロが水に浮かんでいる。これを邦題では『水による波長調』と翻訳されており、翻訳者のしたり顔を私は感じた。
"D'eau"とはフランス語で"of water(水の)"を意味し、"ドー"と発音する。それと"Do majeur(ハ長調)"をもじったものなのだが、日本語では"ハ長調"を"波長調"にすることで、原題の諧謔を再現している。
無論、写真も愉快である。しかし、チェロは無事なのだろうか、それだけが気がかりである。

『雨の日のチェロ』は、写真中央に佇む真っ黒なチェロケースに傘を差し、右方を神妙に見つめるモーリス・バケ、後方で左向きに絵を描く男性の背中が印象的で、イタリアの人形写真家Paolo Venturaを想起させる。人形のように時が止まったこの一枚に、敷き詰められた石床、くびれた街灯、電線のない空など日本では撮影が難しい要素が多くあり、ヨーロッパに対する憧憬を一層掻き立てた。

他には、チェロを背負ってスキーをする一枚(絶対に動きづらいはずだ)、スキー場内でチェロを演奏し、それに群がるスキーヤーを上空のリフトから撮影した一枚、また、『サン=サーンスに捧ぐ』、『蒸気の出る歩道橋』、『柵を越えて』、『フェルマータ』など、モーリス・バケとのユーモラスな作品は、踊るような偶然の美しさを捉えた作風であるドアノーとはまた違う、シュールレアリスムを取り入れ作り込まれた写真であり、私はそれらを大層気に入った。


しかし、その映像に映っていたドアノー自身もまた、美しい被写体である。
ジャケットを着て眉間にしわを寄せながらカメラを胸元に構え、訝しげな顔を浮かべるドアノーは芸術家たる顔つきそのものだ。彼の表情は彼の写真に出てくる誰よりも私の好みの面持ちだった。

その後の第8章"80-90年代"はもはや私にはなんの感動も与えなかったので、ほとんど記憶にない。やはり七〇年代までが写真という媒体の最盛期であったのではないかと思わざるをえない。

出口にあるフォトスポットは、暗がるパリの街で踊る男女が印象的な『パリ祭のラストワルツ』が大きく印刷されている。この前に立って踊る二人を妨害する人は流石にいなかった。


そして、ソールライター展同様、壁に書かれた言葉にはあまり関心を持てずに終わった。
ドアノーの著書を読んだことがないのでとやかく言うのはお門違いかもしれないが、今回壁に書いてあった言葉のどれも私の感性には合わなかった。

《パリは、時間の浪費がチケット代わりになる劇場だ。》

という語句もいまいちピンとこない。これはおそらく日本語と英語(もしくはフランス語)の語順によるもので、

《Paris was a theatre where “you paid for your seat in wasted time.” 》(ネットから引用)

と彼が言ったのならまだ理解は深まる。

日本語訳は直訳というわけではないが、どうしても自然な日本語でなく違和感は拭えない。
『パリは』から『劇場だ』という比喩の関係性が、さらに長い比喩によって遮られ、私のような浅学な人間にとっては、一目で映像化できない文章になってしまっている。
英語のように『パリは劇場だ』と先に提示し、『時間の浪費がチケット代わりになる(劇場だ)』という比喩を後から修飾するならば、多少ニュアンスは崩れるが、

《パリという劇場は、時間の濫費が席代の代わりになる。》
《パリという劇場のチケットは、時間を浪費することで支払われる。》

と、私なら翻訳したい。
しかし、こんなコピーライターでも無い人間が数分で考案した翻訳など腐るほど会議に上がっているだろう。素人には分からない理由でこれらは却下されているのである。

それでもあの翻訳以上に良い言葉が見つからないとすれば、そもそもこの言葉を選んだことに多少なりとも無理があったのではないかとさえ思ってしまう。
ならば、

《チェロは全裸で演奏できる稀有な楽器だ》

と壁に書いて、笑いを誘っても良かったかもしれない。


最後に。

これを機にドアノーの過去の作品を探していくと、さすがフランスの国民的写真家である。宝のような写真が山のように出てくる。そこには匿名性の高い後ろ姿のストリートスナップや、緊張感のある一瞬を捉えた奇跡的な一枚など、より好みな作品が多くあった。
この展覧会を一層盛り上げ、次回は『パリ市庁舎前のキス』を引っ提げて更に良いラインナップで開催してもらいたい。私は必ず訪れよう。


以上。