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僕のエレキギターはフェルナンデス・その1

フェルナンデスが破産したと知った。記事を読んでみると、1999年には年間売上高40億円台に達していたこともあったが、2022年1月期にはそれが1億6千億円台となり、赤字を計上したという。そして突然の破産報道。

僕はエレキギターを6本持っているが、そのうちの3本はフェルナンデスだ。買った順にいうと最初の3本がそれらに当たる。ギブソンが倒産した時は「ギブソン父さん」という歌を書いて捧げたが、今回は僕のフェルナンデスとの付き合いをnoteに書いてみることにした。

はじめてのエレキギターを買ったのは1976年だった。21歳の時だ。その前年、埼玉会館で開催されたビートルズ・フィルム・コンサートで知り合った同学年の連中と初めてのバンドを組み、練習はお互いの家にアコギ持参でやっていた。勿論、憧れていたのはビートルズだったので、オリジナル曲だけは順調にできていった。しかし、楽器は相変わらずアコギ。ドラマーはいなかったから座布団を叩いたりしてた、というなんとも微笑ましい状況が続いた。

そんな時、近所のNHKから連絡があり、視聴者の皆さんの意見を聴かせてもらう特番に出ませんか、と言う。渋谷にあるNHKに年代別に何人か集まっていて、僕は若者代表だった。その番組のギャラとしていくらか貰った。学生だった僕にはありがたい臨時収入だった。よし、これを元手にエレキを買おう。

バンドのベーシストともう1人のギタリストと一緒に新宿、池袋の楽器屋に繰り出した。もう1人のギタリストはジョニー大倉同様のテレキャスター・シンラインを早々と購入した。グレコのコピーモデルだ。

ベーシストと僕はなかなか決まらず、池袋のイケベで物色した。ベーシストは当然、バイオリン・ベースを買うものと思っていたら、意外にもプレシジョンを選択した。手堅いチョイス、グレコのコピーモデルである。

さて、僕はミュージックライフに載ってたメロディーメーカーが欲しかった。あるいはジュニア。それらの復刻モデルが発売になっていたのだ。店員にないかと尋ねたら「初めて買うんだったらそう言うのじゃなくてちゃんとしたのをかった方がいいよ」と諭され、初心者ゆえに、目についたレス・ポール・スタンダードを手にしていた。フェルナンデスのコピーモデルである。初心貫徹とはいかなかったが、キースもレス・ポールを弾いてるし、いいか!と自分を納得させていた。

バンドの練習の時がやってきた。初めてのスタジオ。エレキギターでぶっ飛ばすつもりだった。しかし、初心者ゆえ、アンプの扱い方すらよくわからない。今では考えられないほど、楽器に対するリテラシーが低かった。しかも致命的だったのはスタジオに入ったのにメンバーにドラマーがいないのである。ギタリスト3人でスタジオに入ったのだ。

かわるがわるドラムを叩いたが、うまくできるはずなどない。さらにベーシストはベースは重たいと言って、これもなかなかうまくいかない。OK、わかった、僕がベースをやるよ、と言って、ギターとベースを交換した。これはなかなかうまくいった。ベースのあのロックンロールのフレーズならうまく弾けた。その結果、正式メンバーにドラマーを迎えた後も、僕がプレシジョン、ベーシストがレス・ポールを弾いていた。人生最初のバンドで人前で演奏した時も、そのフォーメーションだった。

大学生活もあと少しと言う時に、ベーシストの学友でギターの上手いやつがいるというので、誘った。それをきっかけに僕はギターに復帰し、ベースはもう1人のギタリストが受け持った。その体制で卒業コンサートをやった。この写真はその時のものである。

バックストリート・ネオングロウズと名乗った。

僕の最初のエレキギターはフェルナンデスのレス・ポール・スタンダートだ。コピーモデルだけど十分重い。就職してしばらくバンドもお休みしていたが、オーディオ業界だったので、社内に楽器をやってるヤツがたくさんいた。僕は本社勤務だったが、同期で楽器をやるヤツとその同僚とかで集まって、会社の納涼祭などで演奏するバンドを組んだ。このバンドはヴォーカリストが2人いた。時はパンクロック第一期の真っ最中。ひとりはセックス・ピストルズをはじめとしたパンク系、もうひとりはエルヴィスをはじめとしたオールディーズ系で、メンバー各自がやりたい曲を持ち寄ってカバーすると言うスタイルだった。このバンドではレス・ポールを弾いていたが、その重さに耐えきれず、僕はもう一本、軽めのを買うことにした。フェンダー・エスクワイヤー。フェルナンデスのコピーモデルだった。
(続く)

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