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アゲハのアオちゃんの話

ダイニングテーブルのあたりでふとアゲハのアオちゃんの匂いがする。甘い花のようないい香りだ。ほんの短期間しかウチにいなかったのに、こうして今もいるような錯覚に陥る。

犬の散歩の途中、コンビニの壁にさなぎがいたと家族の話題にのぼったのは2月12日。寒い盛りである。アゲハ蝶に関する知識はまるでなかったからGOOGLEしてみたら、羽化するときに掴まるものがないとうまく羽化できず死んでしまうと知った。さなぎが張り付いているところは地面から30−40cm、金属製の柱だから掴まれるところなどない。まして、そんな低い位置だから、うっかり蹴飛ばされてしまうかもしれない。そうなると、そのままにしてはおけないねと緊急家族会議の結果、引き取ってウチで羽化させようという話になった。

とにかく連れてこよう、ということで、そのコンビニに向かった。いたいた、小さな明るい緑色のさなぎ。糸でしっかり柱にくっついているので、そっとさなぎを傷つけないように、慎重に糸を切り、柱から引き剥がし、捕獲した。なんでこんなところにくっついているのかとか、現場周囲を見回していくら考えを巡らせてもわからないが、とにかくこれでいい。

しかし、連れて帰ったはいいが、どうする?またまたGOOGLEだ。剥がしてしまったので、糸の代わりに紙を漏斗のように丸めたポケットを作って、そこに下半身を入れて木の枝かなんかにくっつけておくのがいいらしい。YouTubeの動画を観ながらやってみたが、あまり深くポケットに入れてしまうと羽化する際に出られなくなるとか、張り付いているときは30度くらいの角度があったからそれを再現しようとか試行錯誤の結果、パンを買うとついてくる短いワイヤで渦巻きを作り、そこに差し込んでおくのが良さそうだとなった。で、どこに置く?外は大寒の寒さだが大丈夫なのか?とか心配したが、自然と同じ環境がよく、下手に室内に置くと暖かいから羽化してしまうかもしれず、それはまずいだろうということになり、段ボールに入れて、不織布を掛けて、ガレージに置くことにした。

その日から、家族それぞれが気にして段ボールを覗き、色は綺麗なままか、とか、位置は動いてないか、とか観察していた。小さなさなぎは周りの大騒ぎなど知る由もなく、じっと寒い中、ガレージに鎮座ましましていた。

3月になり、何の変化も起きないまま、4月。寒い日の間にちょっと暖かい日が続いたとき、箱を覗いた妻が、「羽化してる!どうしよう!?」と騒いだ。えー、生まれたんだ、と、まぁ、さなぎは羽化するものだが、無事に羽化して、それはとても嬉しかった。とにかく、何らかのケースに移そうということになり、早速百均で透明なケースを買ってきて、中にさなぎ時代を過ごした枝とともに入れた。枝には茶色がかった透明な抜け殻が残ったままだ。

さなぎは綺麗なアオスジアゲハだった。身近で見るその蝶は目が大きくて、身体には短い毛が生えている。触角がアンテナのように伸びている。羽化したから外に放ってあげようと考えていたが、あいにくの悪天候で、気温も下がって、とにかくその日はプラスチックのケースに入れておこうということになった。ケースを別のプラスチック板で覆ってドアのようにしたが、夕飯の買い出しに行こうと思って、ふと見たら、覆ってあるプラスチック板が剥がれていたので、スコッチテープを貼り直し、僕は外出した。思えばそれがとんでもないことになってしまうのだが・・・。

翌朝、アゲハがケースの床の隅に降りていた。その少し前、長い間飼っていたインコのぴぃちゃんが老体の上、寒さで具合悪くなり、床に降りていたことがフラッシュバックし、羽根あるものが床にいるというのは絶対によくないことの証だから、僕はドキッとしてアゲハを見たら、羽根が一枚折れてしまっているではないか。どうやらケースを覆っていた板とケースの間に挟まり、抜け出そうとして羽根を痛めてしまったとわかった。元気に生まれたのに、僕はなんということをしてしまったのだ。悔やんでも折れた羽根が元に戻るわけではないのに、胸が張り裂けるとはこのことで、とても落ち込んだ。

こうなったらウチで飼って、一生を全うさせてあげるしかない。その瞬間から育児ならぬ育蝶が始まったわけだが、餌やりからしてわからない。またまたYouTubeを観てやり方を学ぶ。捕まえて、いつもは丸まっているストローのような口を爪楊枝かなんかで引き出し、砂糖水もしくはスポーツドリンクに接してやり、食事をさせるとわかったものの、捕まえようとするとバタバタ暴れ、却ってストレスを与えてしまうし、身体が脆いから他の部位も傷つけてしまいかねないと焦る。

何か良い方法はないかとネットを探すと、花に似せた小さな容器を作り、そこにスポーツドリンクを仕込むと良いというアイデアがあり、妻が早速作った。しかし、蝶がそれらを見つけるには、ある程度の紫外線がないとダメなようで、亀に使っていた紫外線灯を照らして見るが、如何せん光量不足。食べないとダメだ、と思っていても、全然うまくいかない。そのうち、ストローが少し伸びてきていたので、今がチャンスとばかり、誘導してあげたら飲む飲む!同時にブッと音がして、排泄した。排泄物なのに花のようなフェロモンの香りがする。不思議な匂いだ。

そのあとは嫌がらない程度に餌をやり、何日か過ぎたが、とにかく気温が下がり、パネルヒーターで囲って温めたりした。ちょこちょこ動き回る時もあればじっとしたまま何時間もいることもあった。蝶は気温が低いと動けないらしい。おまけに悪天候な日が続き、もし、羽根に障害がなく飛べたとしても、この気温じゃ生き延びられるか疑わしいよな、と自らのオペレーションミスを正当化してみたが・・・。

妻がまたまた百均でランドリー用の網かごを2つ買ってきて連結し、二階建ての家を作ってあげた。これはとても良いアイデアで、蝶を飼育している人に広く教えてあげたい気分だった。

何日かして、気温はあまり上がらないものの天気よく晴れた日があって、妻がアゲハを玄関先の花壇で遊ばせた。自分では飛べないが、花に接したり動き回ったりしてた。その日、僕は出社日で、祈るような気持ちで送られてくる動画を観ていた。

帰宅すると、アゲハは自分の家に中でじっとしていた。少し傾いていた気がしたが、じっと動かないのはいつものことなので、そのまま夜になり、黒い布を被せて寝かせた。

そして翌朝、羽化した次の週の金曜日、布を取ったら、死んでしまっていた。昨日、少し傾いた姿勢だったな、と思ったが、そのままの姿勢で。後悔ばかりが甦って、またまた落ち込んだ。前日、日向の花壇に出て自然を楽しんだのだろうと思えたのがせめてもの救い・・・と思うことにした。

蝶の一生はどのくらいなのだろう。羽化してからは短かったが、さなぎ時代、そしてその前の幼虫時代、このアゲハは何を見て、何を聞いて、どんな記憶を持っていたのだろう。いや、そもそも記憶はあるのだろうか。消えてしまった小さな灯りのように横たわる蝶。知らなかったことばかりでそれを体験させてくれて、ありがとう。巡り合わせとは奇妙なもので、むすめがコンビニの外壁に張り付いたさなぎに目を止めなかったら、こうはならなかったのだから。今もふっと、いや確かに匂いは残って、一緒にいた短い時間を思い出させてくれるのだ。





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