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日記10/11~10/17 2021

11日。
歳を重ねるごとに涙もろくなるのはなぜだろうか。友人や知人の子供が産まれたというニュースだけで、目頭が暑くなったりする。やや斜めからの視点で観る映画やTVドラマやアニメでも、気持ちとは裏腹に涙を堪えきれない瞬間が訪れたりする。精神や心といった観念的な部分よりも、この世の生きることの喜びといずれ去りゆくことの悲しみを身体のほうが知っているからかもしれない。

12日。
DAZNの無料体験でサッカー日本代表戦を観る。仕事やら家事やらで飛び飛びで観たのだけれど、画面を点けた3回とも得点(失点)の直前で驚いた。プロスポーツはアマとプロの差が判然としているところが恐ろしい。ピッチにいる人たちはプロのなかでも突出した能力を持った人たちだ。大衆音楽はプロとアマチュアの差がよくわからないところがいい。出鱈目で成功する人もいる。

13日。
友人から頼まれたリミックス作業を楽しくやる。フィルムの写真とデジカメの違いは化学変化を経ることだとイノフェスで落合陽一さんが言っていた。音楽にも同じようなことがある。アナログ機材は音を素材に通して化学変化させることだ。それをシミュレートしたソフトも素晴らしいが、決定的な違いはそこにある。どちらがいいかは、どう使いたいかによる。郷愁に浸らずに耳で決めること。

14日。
今年になって重い腰を上げて、ProToolsを107stでも使えるように機材を揃えた。このスタジオで最初に作ったのは「或る街の群青」だった。最初は20分くらいある組曲のような楽曲だった。テンポもコード進行も変わり続けて、これといった定型のフレーズには帰ってこない。メンバーの意見は割れ、なかなかシビアな空気だった。いろんな時期を経て、現在は楽しく録音中。

15日。
Suchmosの隼太君の訃報が届く。言葉を失う。最後に会ったのは何年か前の埼玉スーパーアリーナだった。楽曲制作の話で何度かメールして、CBSで遊ぼうと話したこともあった。SNSには彼を思う仲間たちの想いが溢れている。養老孟司さんの言葉を借りるならば、自らの死は体験できない。僕たちが彼を失うこと、それこそが彼にとっての死、私たちにとって「死」そのものだ。亡くなった人のことを偲んだり、別れを惜しんだりすること、それをゆっくりと受け入れること、そのすべてが生者にこそ許された「死」という体験なんだと思う。過去を振り返ると、命が数万年前に向けて連綿と繋がり、光り輝いている。私たちはその流れの束のどこかに連なり、そして未来の人が過去に目を向けるとき、私たちは現在へと流れ込む光の流れの束の一部なのだ。そういう文章を読んで少し救われた。祈り。そして。

16日。
神戸の喜楽館で落語家の桂優々さんとコラボ寄席。落語家も一緒になって幕間の音楽や出囃子の打楽器を叩いている。それが終わると、さっと着替えて舞台に付き、落語をはじめる。端々から漂うDIY感に感心した。庶民の演芸というのは、やはりこういう雰囲気であるべきなんだと思う。我々のやっている野良音楽も然り。落語は生で観ると本当に面白い。あらゆる演芸や舞台芸術も同じだと思う。

17日。
先月からスーパーの鮮魚売り場に並ぶ戻り鰹がずっと気になっていた。しかし、柵を一本買って帰っても食べきれない。鰹は足の速い魚なので生のまま保存しておけない。煮るなり焼くなりしないといけないが、俺が食べたいのは鰹の刺身なのだ。決心つかずにグリグリと悩み、はたと食べる気になってスーパーへ出かけると、もはや冷凍のカツオのタタキしか売り場にはなかった。旬を逃したのかも。