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非暴力直接行動とは、より大衆の力を強化するために、暴力を控えること

次の引用は、キングのなかでもっとも重要なテキストからのものです。

「なぜ直接行動を、なぜ坐り込みやデモ行進などを。交渉というもっと良い手段があるではないか」と、あなたがたが問われるのはもっともです。話し合いを要求されるという点では、あなたがたはまったく正しいのです。実に、話し合いこそが直接行動の目的とするところなのです。非暴力直接行動のねらいは、話し合いを絶えず拒んできた地域社会に、どうでも争点と対決せざるをえないような危機感と緊張をつくりだそうとするものです。それは、もはや無視できないように、争点を劇的に盛り上げようというものです。緊張をつくりだすのが非暴力的抵抗者の仕事の一部だといいましたが、これは、かなりショッキングに伝わるかもしれません。しかし、なにを隠しましょう、わたしは、この「緊張(tension)」ということばを怖れるものではないのです。わたしは、これまで暴力的緊張には真剣に反対してきました。しかし、ある種の建設的な非暴力的緊張は、事態の進展に必要とされています。

酒井隆史 著
『暴力の哲学』 


敵対性と暴力を区別しなければ、結局、暴力に直面しても聖人のようにふるまえ、というたんなるモラル論、あるいは宗教論に帰着してしまうおそれがある。非暴力直接行動とは、より大衆の力を強化するために、要するに、よりラディカルにやりたいために暴力を控えることなのです。これはいわば、相手の巨大な力、あるいは暴力という物理的力に積算された力を分解させ拡散させつつ、うまくみずからの力を最大限にまで発揮させて対抗する柔術のようなものです。だからこそ、そこから多様で創造的な戦術の展開が可能になってくるわけです。

酒井隆史 著
『暴力の哲学』

「暴力反対」という言葉が、かえって暴力を隠蔽してしまうことがあるのだというのが、この本の論旨のひとつなので誤解のないようにしたい。例えば、違法な薬物は、違法とすることで地下化する。自分の場所から見えなくなっただけで、廃絶されたわけではない。暴力も同じ構造に陥る。

誰しもが、ある種の暴力性を持っている。それは恐怖によって発動するのではないかと、この本は問いかける。「反暴力」とは、暴力をアウトソーシングして、自分から見えないところに隠蔽することではない。それは暴力の許容でもある。

絶えず、自分の暴力性と向き合うこと。そして、大きな暴力に立ち向かうこと。「反暴力」について考えたい。