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評価とは、ものが有している力に対して与えられる力の贈り物である

一人ひとりの、周囲の物と人びとにたいするこの価値語の使い方を見れば、評価することは、ランク付けすること、そして等級を定めることのように見える。価値の体系は二項からなる体系のように見える。一つの価値語には必ずその反対の語があるからだ。善-悪、公正-不公正、有徳-不徳、美しい-醜い、有益-無益、などのように。こうした語は、究極の対立である肯定と否定という対立を特殊化したものとして作られているように見える。
(中略)
しかし、価値語は、単に差別し分類するだけではない。その固有の機能は、境界線を引いて位置を定めること(否定作用によって表象を鼎立すること、他の表象に対置させることによって定義すること)によって情報を提供することではない。価値語は力なのである。それも、境界線に反応する力ではなく、力に作用する力である。肯定的な評価は確認である。私たちが誰かに「なんて君は美しいのだ!」と言うとき、この発言は、そう言われる人に対して、その人がすでにそうである単なる認識、その人が既に承知していることの再認識として働くのではない。それは人の力を呼び覚まし、駆り立てるのである。評価とは、ものが有している力に対して与えられる力の贈り物である。

『何も共有していない者たちの共同体』
アルフォンソ・リンギス 著
野谷啓二 訳

人のことを評価する自分のことを「なんだか汚らしいな」と悩んでいたところ、不意に出会った言葉。ああそうか、これは力のパスだ、そう思えるならば、これからは胸を張って「あなたは素晴らしい」と言える。でも、そこにこめられた力は、自分がその作品や人物を、どのように評価したのかがそのまま力になるはずだから、少しの逡巡も片手に、ちゃんと様々な事物に接したいとも思う。無謬(間違いのないこと)を担保する言葉としてではなく。