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小説「ころがる彼女」・第17話

 八月一日。
 居間の壁に、ネットショッピングで買ったホワイトボードを設置すると、邦春は黒いマーカーを手にし、「資金計画」と書いた。
 それを見つめているのは、ソファーに座った弓子。彼女は、昨日退院したばかりだ。
 長い梅雨がようやく三日前に明けたと思ったら、こんどは連日の猛暑。三十五度、三十六度、三十七度と、埼玉の真夏は容赦ない。
 そこで邦春は、エアコンをフルに動かし、扇風機も併用して、部屋の隅のベッドで寝ているベスに、ちゃんと涼気が行きわたるようにしている。老犬にとって、猛暑は命にかかわる脅威なのだ。
「資金計画」の四文字の下に、邦春は「この家を売って脱出計画の資金に充てる」と書いた。
「ネットでいろいろ調べてみたんだけど、約四十坪のこの土地の価格は、一千万円くらいらしい。建物は、一度リフォームしたとはいえ、築四十五年も経っているので、資産価値はゼロ。それどころか家を売る際は解体と撤去をしなければならないから、それに掛かる費用が約百五十万円。つまり、私が出せるお金は、差し引きすると約八百五十万円というところだな」
 そう言うと、彼はマーカーを弓子へ差し出した。ソファーから立ち上がり、マーカーを受け取った彼女は、ホワイトボードにこう書いた。「不動産や有価証券などの資産はゼロ。預貯金は、三千」
 それを見て
「おお、三千万円も!」
 邦春が声を上げると、
「いえ、三千円です」
 と、弓子。
 あんぐりと口を開けた邦春に、
「お金は、すべて主人が管理しているの。これまで躁状態のたびにお金遣いが荒くなって、借金をこさえたりして、迷惑をかけちゃったから。それでクレジットカードもキャッシュカードも、ぜんぶ主人に取り上げられてしまったの。今は、使いみちをちゃんと言ってから、わずかなお小遣いをもらっているだけ。三千円というのは、邦春さん、あなたからいただいたお月謝です。でも、回文教室、途中でやめちゃったから、お返ししないといけませんね」
 と弓子は話し、申し訳なさそうな顔をした。
「い、いや。いいんだ。それも脱出作戦に活用しよう」
 そう言うと、彼女から受け取ったマーカーで、ホワイトボードに「合計八百五十万三千円」と書きながら、邦春は双極性障害の本に載っていた「買い物などの快楽的活動に熱中」という症状を思い出していた。
 さらに、脱出後は自分とベスに弓子が加わり、二人と一匹の生活を毎月二十万円の年金で賄っていかなくてはならないが、果たして大丈夫だろうかとの不安が脳裏をよぎった。グレンファークラスではなく、安物のウイスキーを飲んでいる自分の姿さえ目に浮かんだが、なあに何とかなるさと、気を取り直した。
 それからスマホを取り出し、電卓アプリを操作したのち、
「登記費用や不動産業者への仲介手数料のほか、火災保険料なども含めると、住宅取得にかかる諸費用は、本体価格の約十パーセントというのが目安。引っ越しの費用なども考え合わせると、買うことのできる家の価格は……」
 と説明しながら邦春は「七百五十万円以内」とホワイトボードに書き、赤いマーカーでアンダーラインを引いた。
 そして、弓子に言い渡した。
「あなたには、新しい住まいを見つけてほしいんだ。中古の戸建てかマンションになると思うけど、七百五十万円以内で買える物件を探してくれないか。引っ越しが三十万円以内で行なえる距離であることと、マンションの場合は『ペット可』であることを前提条件に探してほしい。いい物件が見つかったら、私は直ちにこの家を売りに出すから」
 すると彼女は
「了解しましたっ」
 と返事をし、
「パソコンを使って、しっかり検索します。やっと脱出作戦に貢献できるのね、私」
 そう言って、嬉しそうに笑った。
 まだお互いの電話番号とメールアドレスを交換していないことに気づいた二人は、それを行なった。住まいが向かい同士と、あまりにも身近なため、これまではその必要がなかったのだ。しかし、これからは違う。脱出計画は、弓子の夫は言うまでもなく、近所の誰にも気づかれてはならない。
「主人が家にいないのは、車がガレージにないとき。平日の朝八時から、夜の七時ごろまでなの。だから、それ以外のときの連絡は、メールをやり取りして行ないましょうね」
 と、弓子。
「了解です。でもなあ、もっと若いカップルだったら、賃貸物件にだって引っ越せるんだろうけどなあ。ところが現実は、八十四歳の男と五十三歳の女。しかも犬といっしょ。どこを当たっても、断られるに決まっている」
 邦春がそう話すと、
「五十四歳です」                          
 と、弓子が返した。
「入院中に誕生日を迎えました。七月二十五日生まれなの、私」
「そうだったのか。遅まきながら、お誕生日おめでとう!」
 邦春はそう言い、
「お祝いに、おまじないの回文をプレゼントしよう」
 と言葉を継いだ。
「おまじないの回文?」
 不思議そうな顔をして訊く彼女に、
「ああ。もしも今後、あなたが化物蜘蛛の悪夢を見ても平気でいられるように、回文初級者の私が一生懸命に考えたんだ。叔父さんの蜘蛛が夢のなかに現れ、顔を近づけてきても、心のなかでこのおまじないを何度も繰り返し唱えて、夜が明けるのを待ってくれ。自然に目覚めるまで耐えてくれ」
 そう話すと、邦春はホワイトボードに並んだ文字をイレーザーですべて消した。そして新たな言葉を、大きく書いていった。

 私(わたし)、無視(むし)だわ。

「ほら、回文になっているだろ。これを繰り返し、繰り返し、唱えるんだ。わたし無視だわ。わたし無視だわ。わたし無視だわ。って、完全に化物を無視し続けるんだ。そしたら、きっと、化物もあきらめる。悪夢の夜は明けて、平和な朝がやってくるさ」
 その説明を聞き、
「最高のプレゼント、ありがとう!」
 弓子は邦春に抱きついた。
「でも」
 と、彼女は言った。
「もしも相手も『わたし虫だわ』って、回文を使って対抗してきたら、どうすればいい?」
 その問いに、
「ならば、根くらべさ。『わたし無視だわ』『ワタシ虫ダワ』『わたし無視だわ』『ワタシ虫ダワ』『わたし無視だわ』『ソウデスカ。ワカリマシタ。ソレナラ退散イタシマス』ってね」
 弓子を抱きしめ、邦春はそう答えた。
 


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