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小説「サムエルソンと居酒屋で」第20話

 朱夏の予想した通り、ヤクルトスワローズのリーグ優勝は十月四日に叶えられた。中日を相手に九対〇の圧勝で、球団創設二十九年目の快挙を成し遂げたのだ。
 この余勢を駆って、十月十四日から行なわれた阪急ブレーブスとの日本シリーズでも、三連覇中の阪急圧倒的有利の下馬評を、ヤクルトはくつがえした。大学野球との関係で、ホームゲームは後楽園球場での開催。第一戦、六対五で阪急の勝ち。第二戦、十対六でヤクルトの勝ち。第三戦、五対〇で阪急の勝ち。第四戦、六対五でヤクルトの勝ち。第五戦、七対三でヤクルトの勝ち。第六戦、十二対三で阪急の勝ち。そして運命の十月二十二日。第七戦の結果は、四対〇でヤクルトの勝ち。ホームで試合が行なわれるたびに東京音頭の大合唱に加わって応援を続けてきた英也と朱夏だが、ついに日本一の座に輝き、多数のスワローズファンがグラウンドに乱入する中、外野席で抱き合いながら二人は感激の涙を流した。そしてこの優勝をきっかけに、英也と朱夏の仲は大きく進展していったのである。

 翌日の夜、英也は久しぶりに実家の兄に電話をかけた。ヤクルト日本一の興奮覚めやらぬ中、自分と同じくスワローズファンである良之に世紀の瞬間を目の当たりにした喜びを伝えたかったのと、それに下宿を変わったことをまだ知らせていないことに気づき、新しい住所と電話番号を教えようと思ったのだ。
 下宿のピンク電話に、十円玉をたくさん入れてダイヤルを回すと
「はい、瀬川です」
 と、女性が応対に出た。その声を、英也はよく知っていた。童貞と処女を捧げ合った、小原まゆみの声に違いなかったのだ。英也はあえて「元気か」などと話したりはせず
「私、瀬川良之の弟の英也と申しますが、兄はおりますでしょうか」
 と儀礼的な言い方をした。すると
「ヨッちゃーん、英也っちいう人から電話―っ。弟ですとか言いよるけど」
 まゆみはそう伝え、しばらくして兄が出た。
「ああ、俺じゃあ。いま電話に出たんは、親父とお袋が亡くなったときお悔やみを言いにきてくれたまゆみさんでな。おまえも知っちょろう、本町の中華料理店・海山軒の娘さんなんじゃ。実はな、おまえたちが東京に帰ったころから、俺たち二人はいっしょに暮らし始めたんじゃ」
 まゆみのやつめ、ウブな兄貴をたらしこみやがって、と苦々しげに英也が聞いていると
「それとのう、俺、就職が内定したんじゃ。大分県を代表する企業、ぶんご屋百貨店にのう。これで晴れてまゆみと所帯が持てるわい。なんせ、いま妊娠二か月でのう。つわりが酷うて短大も中退したんじゃけど、そのうちラクになるっち医者が言うたけえ安心じゃ。これから、いっぱい子どもを作るでえ」
「そ、それはおめでとう……」
「おまえも、あの実花子さんと近いうちに結婚するんじゃろ。体に気をつけて頑張れや」
「ど、どうもありがとう。じゃあ……」
 ヤクルト日本一どころか、下宿のことも伝えぬまま、英也は電話を切った。自分が帰ることのできる大切な実家が失われたのを知り、言いようのない哀しみにつつまれて。

 十一月。学園祭などの催しが開かれ、学生生活がいちだんと活気づく季節が訪れた。そんなある日の午後、英也は十五号館の中の教室で「理論経済学Ⅰ」の講義を受けていた。略称「論経Ⅰ」は、来年受講の「論経Ⅱ」と合わせて必修科目であり、政治経済学部長・上条邦広教授の講義ということもあって、英也や毛利や石原などのサボリの常連も、ほとんど欠かすことなく出席を続けている。
 数百人を収容できる大教室はいつも満員で、教壇に立ち、マイクと指示棒で授業を進める上条教授の朗々とした声が教室内に響き渡っている。
「……このように、他の個人の効用を減少させないで他のどの人の効用も増大させることができないような状態を、案出者であるイタリアの経済学者ヴィルフレド・パレートの名にちなんで『パレート最適』と呼ぶのであります。この図を用いて説明すると、AとBの二人だけから成る社会を考え、図の両軸に『個人A』と『個人B』の効用を取る。効用は基数性を有していなくてもよろしい。ただし、順序付けが可能で原点から離れるほど効用の水準が高いという関係が成立しております……」
 教授の話を聞きながら、英也は思うのだった。入学して一年と八か月、まともに授業に出たのは語学とこの論経くらいだったな。あとは、居酒屋ほそぼそでのサムエルソンだ。家政学部の実花子に負けまいと、自宅や電車の中で読みふけった。実花子はまだ経済学を留美に教わっているのだろうか。サムエルソンの本にも、このパレート最適が出てくるのだろうか。もうすっかり過去の女になった実花子だが、せめて元気でいてほしい。
「……最後に、パレート最適については、次の三点が重要であります。その一、各個人の効用に正のウェイトが付与されているときに、資源配分の状態がパレート最適であれば、最適でない状態よりは望ましい。その二、競争的市場機構を通じて行なわれる資源配分の状態はパレート最適である。その三、パレート最適の概念は資源配分の効率に関するものであり、所得分配について特定の価値判断なしには無数に存在するパレート最適な状態のうち、どれが最も望ましいかは決定されない」
 ここで一息ついたのち、教授は言った。
「本日の講義はここまでですが、なにか質問はありますか?」
 学生たちからの声がないことを確認したのち
「残り時間が十五分ほどありますね。では私に代わって最前列のあなた、伝えたいことを話してごらんなさい」
 教授がそう告げると女子学生が一人、教壇に上がり、マイクを受けとって語り始めた。
「私の愛するH・Sさん、ほんとうはあなたに直接会ってこの話をしたかったけど、私はあなたの顔を見たり声を聞いたりするすべを失ってしまいました。ですので大隈大学政治経済学部の皆さんにはたいへん申し訳ないのですが、上条邦広先生とお嬢様の留美さんのご協力をいただき、こうして話をさせていただくことになりました」
 突然の出来事に、学生たちの間からざわめきが起こり始めた。
「なんだ、あの娘」
「可愛いじゃん」
「H・Sって、誰よ」
「痴情のもつれかな」
 しかし怯むことなく、実花子は話し続けた。
「大好きなH・Sさん、このたびは、ほんとうにごめんなさい。あなたが負った心の傷の大きさは、私の想像をはるかに超えるものなのでしょう。でも、これだけは伝えておきたいのです。私は今でもあなたのことを心から愛しています。そしてこれからもずっと愛し続けていくことでしょう。初めて会ったとき、サムエルソンの本を安く譲ってくれてありがとう。その勉強会のあと、いつも寮まで送ってくれてありがとう。スター・ウォーズを観に連れていってくれてありがとう。秋田まで遊びに来てくれてありがとう。出会いから四か月足らずのお付き合いだったけど、その日々はとてもあなたの愛情にあふれていて、私はすごく幸せでした」
 大教室の中が、静まり返っていった。実花子の声には、事情を知らなくても聞く者たちの心を打つなにかがあった。
 彼女は話し続けた。
「私の大切なH・Sさん、あなたにお伝えしなければならないことがあります。十日前、私の父が自殺しました。車に乗ったまま、岸壁から海に突っこんだのです。遺書が見つかり、そこには私の幸せを奪ってしまい済まなかったという一文がありました。ところが、あなたへの謝罪については一言もなかった。私にはそれが許せません。あなたをそんなに苦しめることをして、お詫びの言葉もないなんて。しょせん、父はそれだけの人間でした。家と、家族と、会社。そして色事。それ以外のことにはなんの価値も見いだせない心の狭い人間だったのです」
 制限時間の十五分が過ぎても、席を立つ学生は一人もいなかった。それほど、実花子の話には説得力があった。
 彼女は話し続けた。
「愛しくて愛しくてたまらないH・Sさん、私は大学を中途退学して秋田に帰ることになりました。父の跡を継いで会社を経営していくためです。まだ十九歳の自分に、はたしてそんな重責が務まるだろうか。百人近い社員とその家族を、これまで通りに養っていけるだろうか。心配で心配でなりません。でも、私はやるしかない。留美さんに教わった経済学の基礎知識をベースにして、まいにちまいにち勉強しながら、一生懸命、頑張っていきたいと思います」
 そこまで話すと、実花子は教授の顔を見て
「あと一分だけ、いいですか?」
 と訊いた。教授が頷くと、彼女はマイクを持つ手に力をこめ、声を張り上げた。
「心から愛するH・Sさん、私はあなたの心の傷が癒えるまで、ずーっと待ち続けます!十年でも二十年でも三十年でも四十年でも、いつまでも待ち続けます! あなたへの私の愛を、どうぞどうぞ信じてください!」
 話が終わり、実花子が教授にマイクを返したとき、教室内に万雷の拍手が鳴り響いた。だが、最後部の席に着いていた英也は、ドアを開けて大教室を抜けだし、北門からキャンパスを出た。そして大声で泣き始めた。
 かつて自分があれほど愛し、いまも心のどこかで愛していることに気づかされた女性が、自分の人生から遠ざかっていく。その非情な運命があまりにも悲しすぎて、それまで必死にこらえていた涙がとめどもなく流れだしてきたのである。


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