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小説「ノーベル賞を取りなさい」第3話

あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。




 新宿三丁目にある居酒屋「やきぐるめ」では、四人の教授たちがテーブル席に着き、ハツ、レバー、スナギモ、カシラ、ナンコツ、トリカワなどの焼鳥をかじっては、それをビールや焼酎で胃の中に流しこんでいた。
「まーったく頭にくるよな、あのクソババア総長め」
 と毒づいたのは、行動経済学が専門の中川。
「会議室に教授たちを全員呼びつけて、いきなりノーベル賞をとって燦然と輝け、だもんな。そんなことが簡単にできたら日本中が、いや世界中がノーベル賞の受賞者だらけになっちまうよ。それすら分からないのかな、あのバカ女は」
 と非難したのは、空間経済学が専門の西村。
「大隈大創設以来、初の女性総長。就任一年目の気負い丸出しだ。父親が政経学部長を長年務めていたこともあり、留学先のMITから帰国してからは、とんとん拍子に出世。六十四歳でついに頂点にまで昇りつめた。泣く子と親の七光りには勝てねえよ」
 と嘆いたのは、開発経済学が専門の岩原。
「なんせ、帝都の文一を滑りどめにした女ですからねえ。われわれ帝都の落っこち組には、あの気品に満ちたご尊顔はまぶしすぎて、とてもまともには拝めませんよ。まあ、確かに大隈の政経はかつて私学の最高峰でした。とくに共通一次試験なるものが導入され国立大の受験が一本化されてからはその偏差値が跳ね上がり、帝都大の文二や洛中大の法学部などをも凌駕したのですからねえ。けれどもそれは、昔むかしのお話。その後は諸行無常の響きありで、私学の世はいまや福沢大の天下ですが、別にいいじゃありませんかと私は言いたい。去年の大福戦では野球もラグビーも大隈大が勝ったし、文武両道こそ大学のあるべき理想的な姿だと思うんですけどねえ」
 と主張したのは、ゲーム理論が専門で主任教授でもある清井。
「それにしても」
 と、中川がビールのジョッキを空にしてから言った。
「なんなんだよ、あのアライグマ男。ババアが勝手に連れてきて、ノーベル経済学賞を狙わせるだなんて。俺たちはよそ者以下だってことかい。おーい、生ビールお代わり!」
 それに続き、ネギマを頬張りながら西村が言った。
「あの柏田ってやつ、サウス・コーネルとかいう大学で教えていたそうだけど、聞いたことのない大学だよな。コーネル大学なら全米屈指の名門校として知られているけど」
「いんちき教授じゃないの。そもそも四月なのに、どうして毛皮の帽子をかぶる必要がある? 怪しい。絶対に怪しい」
 そう決めつけた岩原は、グラスに焼酎を足し、ぐいっと呷った。
「ところがあの人、ジョン・ベイツ・クラーク賞の候補に挙げられたことがあるそうなんですよ。先日、牛坂学部長から伺ったんですけどねえ」
 焼きシイタケを食べながらの清井の話は、他の三人の興味を強く引いた。
「本当ですか? アメリカ経済学会が授与する賞で、一説によるとノーベル経済学賞よりも受賞が難しいと言われるあの賞の候補に、アライグマ男が?」
 と、中川。
「ポール・サムエルソンやミルトン・フリードマンなど、超一流の経済学者たちが過去に受賞したその候補に、サウス・コーネルとかいう二流か三流か四流の大学の教授だった柏田が?」
 と、西村。
「その話も、いんちきだ。いんちきに決まってる。きっとサウス・アメリカ経済学会が与えるジョン・ベイツ・ブラフ賞かなんかだ」
 と、岩原。
 続いて清井が
「真偽はさておき、こんど柏田さんの講義を傍聴してみたいものですねえ。三月で定年退職した藤江さんの後任として、今週から柏田さんが経済学史の講義を行なっていますから。聴講した学生に訊いてみたところ、アダム・スミスもカール・マルクスもすっ飛ばし、いきなりソースタイン・ヴェブレンから始めたとか」
 と、語ると
「むちゃくちゃだ」
 三人が口を揃えた。
「教科書は『有閑階級の理論』。千円ちょっとで買える手軽な文庫本なのも学生たちにウケて、教室は満員御礼だったそうな。あ、噂をすれば影がさす。当人のご来場ですよ」
 清井の言葉に三人が店の入り口に目をやると、柏田が若い女性といっしょに歩いてきて、二人用の席に着いた。
「あっ。あの娘、俺のゼミ生で、去年のミス大隈に輝いた花崎由香ちゃんだ。担任の俺でさえ食事をともにしたことがないのに、あのアライグマ野郎、さっそく誘いだしやがった。うぬぬぬぬーっ」
 両目をむいて悔しがる中川に
「アメリカでは女性にモテまくったという噂がありますが、日本でもその勢いはとどまることがなさそうですねえ。独身貴族ですし」
 焼きレンコンを食べながら清井が言った。
「カンパーイ!」
 向こうの席で、柏田と由香の声が楽しそうに弾けた。

        

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