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小説「サムエルソンと居酒屋で」第21話

「十年でも二十年でも三十年でも四十年でも……か。その四十年も、ついに過ぎてしまったな……」
 令和の瀬川英也は、昭和の自分が聞いたあの実花子の話を思い起こし、ひとりごちた。そして、いつものように山手線の前から五両目の後部座席で、サムエルソン経済学の上巻をめくり始めた。
 それにしても不思議なものだ。この本を読み進むたび、あの青春時代の記憶が鮮やかによみがえってくるのだから。五月の二十五日に読むのを始め、きょうが七月の二十五日。ちょうど二か月が経った。毎日少しずつの勉強の末に、残りはわずか三十二ページになってしまった。もしも下巻があれば、さらに二か月にわたって経済学を学べるのに。ならば図書館に行って下巻を探し、勉強を続けようか。
 そう思いながら第二十二章の『需要および効用の理論』のページに目をやると、なぜか全体的な印象が変わっていることに英也は気づいた。それまでのページには、黄色いマーカーや赤いペンの書きこみが随所に見られたのに、七〇八ページからはそれがなくなり、代わりに本文のひらがな文字が、飛び飛びに、一文字ずつ、青いペンで囲まれているのだ。七一七ページまで続くそれらの文字を、英也は目で追い、声に出していった。

「ひ」
「で」
「や」
「さ」
「ま」
「・」
「こ」
「こ」
「ろ」
「の」
「き」
「ず」
「は」
「も」
「う」
「い」
「え」
「ま」
「し」
「た」
「か」
「・」
「み」
「か」
「こ」
 
 読み終えて、驚いた。青いペンで丸く囲まれた文字をつなぎ合わせると
「英也様・心の傷はもう癒えましたか・実花子」
 というメッセージになっていたからだ。つまりその言葉は、あの実花子本人から自分に向けられたものであり、それが書きこまれたこのサムエルソンの本が、居酒屋ほそぼそでの勉強会で彼女が使っていたもの、すなわち初めて神田神保町で会ったときに、喫茶店の中で自分が彼女に安く譲ったものであることも判明したからだ。
 それが分かると、英也はこの本が、ほそぼそのあった高田馬場駅を電車が通り過ぎたあとに座席の右隣で見つかったこと。上下巻そろってではなく上巻のみ置かれていたこと。それが自分の誕生日の出来事であったことについても説明がつくような気が、だんだんとしてきた。やがて、それは確信に変わっていった。
 彼女は東京にいる。それも、高田馬場の辺りに。彼女は、この私を試している。自分の誕生日を私が覚えているかどうか。そしてその誕生日が七月二十八日であることを、私は思い出した。あれは秋田に行った日であり、そのとき誕生日プレゼントを忘れて持っていかなかった私に、そんなことは平気、来てくれたあなたがいちばんのプレゼントだからと彼女が言ってくれたからだ。
 いまや英也は、自分の取るべき行動を、はっきりと認識した。

 七月二十八日。いつもと同じ時刻に目覚め、いつもと同じように雑誌拾いの仕事を終えた英也は、上野駅からいつもと同じように外回りの山手線の五両目の車両のいちばん後方の座席に腰を下ろした。そしてキャリーカートからサムエルソン経済学の上巻を取りだすと、残りわずかになったページをめくり始めた。
 空調の効いた、快適な車内での読書。時間はたっぷりとある。居眠りをしても良いが、寝過ごさない程度のものでなければならないことを肝に銘じながら。
 電車が高田馬場駅に停まり、また動きだした。何事も起こらない。
電車が二周目に入り、また高田馬場駅に停まり、また動きだした。何事も起こらない。
 電車が三周目に入り、また高田馬場駅に停まった。ここで英也は本を閉じ、目をつぶった。座席の右隣に、人の気配がするのが感じとれた。
 電車が動きだすと、英也は目を開けて、右横を見た。そこには分厚い本が一冊、三十センチほどの距離を置いて置かれている。右手を伸ばしてつかむと、彼はそれを引き寄せ、両手で持ち直し、顔に近づけて観察した。予想した通りだ。赤茶色の本体が薄茶色の箱に収まっている。箱の表面を見ると、赤い題字が印刷されている。
「サムエルソン 経済学 下 原書第九版」
 表紙を開くと、厚い見返しの紙に、手書きの文字が黒いサインペンで書かれてあった。

「居酒屋『ニューほそぼそ』
 営業時間 午後五時~十一時三十分(年中無休)
 住所 〒一六九‐〇〇七五 東京都新宿区高田馬場三‐△△‐△ 
 TEL 〇三‐三三□□‐□□□□
 店主 山内実花子
 英也様。誕生日を覚えていてくれて、ありがとう。私のお店へ、ぜひお越しください。二人きりでお話ししたいこともいろいろあるので、ご来店時には前もってお電話いただけるとうれしいです。そのときは午後二時ごろにお店を開けますね」

 実花子の丸文字が、見返しいっぱいに踊っている。それらをじっと眺めているうちに、電車が上野を通り越して御徒町駅を出発したことに英也は気づいた。だが、次の秋葉原駅で降りて内回りの電車に乗り換えようという気持ちは、彼にはなかった。実花子が自筆で書いてくれたサムエルソンの下巻付きの招待状。それがくれる幸福感にいつまでも浸っていたかったのだ。


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