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将棋小説「三と三」・第16話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 それから一年後。昭和十三年の四月。
 二十歳になった幸三は、六段に昇った。
 前年に病死の危機を切り抜けたのちは、故郷の広島に帰り、療養生活に入った。十三の冬に家出をし、棋士になってからは、時おり母親に手紙を書いて近況報告などしていたが、帰郷するのは初めてだった。  
 六年ぶりの再会だ。六尺の背丈に育った息子の姿に、母は驚き、喜びもしたが、
「ゆっくり養生しんさい。体が元通りになるまで、将棋を指したらいけん」
 と、愛息の病後を気づかった。
 肺炎で死線をさまよった際は、夢の中に、この母が現れたのだ。そして自分の手を強く握りしめてくれたのだが、その手が実は若子のものであったことを、のちに谷ヶ崎から聞いたときは、我ながらびっくりした。
 しかも彼女はベッドに付きっきりで、寝ずの看病をしてくれたと言う。好いた女性にそこまで世話をしてもらい、幸三は嬉しく思ったが、逆に多大な迷惑をかけてしまい申し訳なかったという気持ちのほうが強かった。
 すべては自分の不摂生が招いたこと。それが無関係な若子を巻きこんでしまったのだ。彼女に詫びの手紙を書こうとしたが、しかし幸三はそれを思いとどまった。
 そこには、大きな反省があった。棋界に入ってからは、さんきい先生の薫陶を受けながら将棋一筋に歩んできた。それは、日本一の将棋指しになるためだ。なのに、いまだ道半ばの身でありながら、その歩みが恋という名の脇道にそれてしまった。恋の力を借りて、進んでいこうと思ってしまった。横着で楽な道を選んでしまい、その結果がこのザマだ。
 自分は、もういちど、棋道の本筋に戻らなければならない。名人を目指して、どこまでも真っ直ぐに歩んでいかなくてはならない。恋は、それからだ。若子に交際や結婚を申し込むのは、名人・升田幸三になってからだ。自分がそれほどの者にならなくては、あれほどの女性に対して、失礼ではないか。
 六年前の家出の際に、書き置きをした竹の物差しを、幸三は手に取った。その裏側に、たどたどしい字で墨書した文言が、目に染みた。「この幸三、日本一の将棋指しになってみせる」。
 よし、心は決まった。体も治った。半年を実家で過ごしたのち、幸三は大阪に戻ってきた。そして、棋戦に復帰し、再び連勝の波に乗り、六段への昇段規定を満たしたのだった。

「マスやん、六段になったいうたかて、名人の木村とはまだ三段の差がある。早う八段に上がって、名人挑戦者決定リーグに参加して勝ち抜いて、木村を倒さなあかん。それでようやく、あんさんは、日本一の棋士になれるんだっせ」
 お乳の家の縁側で、茶を啜りながら、阪田が言った。
「はい。一日も早く八段になり、リーグ戦を制して挑戦権を得て、木村から名人位を奪取してみせます。それを目標に、日々、怠らずに精進していきます」
 隣に座った幸三が、きっぱりと応じた。
二人の会話の示す通り、第一期実力制将棋名人決定大棋戦は、首位を走っていた木村が、昨年の十二月に行なわれた二位・花田との直接対決を制し、ついに名人位を手にした。この二月には新名人就位式が盛大に行なわれ、さらに師匠である関根に代わって将棋大成会の会長職にも就き、名実ともに棋界の第一人者となっていた。
「そうや、精進また精進や。ぼやぼやしてたら、わてに先を越されてしまいまっせ」
 幸三の返事に、そう言って阪田は悪戯っぽく笑った。
 南禅寺で木村に負け、続く天龍寺での対局でも花田に敗れたこの老雄は、意気消沈するどころか、ますます軒昂になり、何と第二期名人挑戦者決定リーグに参加を表明して世間を驚かせたのだった。初戦に敗れ、二戦目に勝ち、ただいま一勝一敗。再来年の五月まで二年にわたって行なわれるこの大棋戦を、六十九歳になった阪田が戦い抜こうというのだから、幸三も自分の対局に闘志を燃やさざるを得ない。おかげで六段になってから、三連勝中だ。
 そのとき、がらがらっと玄関の戸が開いて、靴を脱ぐ音とともに野太い声が聞こえてきた。
「いやあ、あきまへん、あきまへん」
 振り向いて、見ると、左手に大きな鞄、右手には帽子を持って、谷ヶ崎が畳の上を歩いてくる。
「何があきまへんのや?」
縁側に並んで座った彼に阪田が訊くと、
「また断られてしもうたんだす、広告への出演を」
 そう答えながら、上着を脱ぐと、谷ヶ崎はネクタイの結び目を緩め、シャツのボタンをひとつ外し、帽子で扇いで胸元へ風を送りこんだ。
 幸三が肺炎で東京・築地の病院に運びこまれた際に、看病に当っていた婦人。若子という名の人の、余りの美しさに、谷ヶ崎は目を見張った。そして広告取次業者の本能が、むずむずし始めたのだ。酒か、洋服か、化粧品か。新聞広告か、雑誌広告か、ポスターか。これほどの容姿端麗のモデルを、自社の商品広告に起用したがらない顧客企業など、いるはずがない。
 そこで、彼女が看病疲れから回復した頃合いを見計らって、まずは礼を兼ねた書状を、あの「腰かけ銀」という喫茶店宛てに送り、広告への出演を依頼してみた。それが一年前のことだ。返書にて、やんわりと断られはしたが。
 それからは、直談判だ。上京し、松屋呉服店の裏通りにある洒落た店で、マホガニー製の椅子とテーブルに着き、美味いコーヒーを飲みながら交渉してみた。破格の出演料を提示してもみたが、自分はそのような柄ではありませんからと、拒まれた。
 これしきのことで諦めていては広告取次業者の名がすたるので、それ以降は別件で東京へ出張する際の、ついでに銀座の店へ寄ってきた。しかし、それでも彼女の態度は変わらず、モデルにはもっとふさわしい方がいらっしゃいますでしょうからと、不承諾。
 こういうやり取りを数回繰り返したのち、よし今度こそと臨んだ昨日の東京出張交渉も不発に終わってしまったのだ。この一年間の努力が、まさに、のれんに腕押し、ぬかに釘、豆腐にかすがい、沼に杭のていたらくなのだった。
「いやあ、さすがは升田君の意中の女子はんや。広告業界百戦錬磨の谷ヶ崎芳太郎、手も足も出えへんよってに」
「意中の女子はん? マスやん、そないな浮かれたことしてたら、八段どころか七段にも上がれまへんで」
 阪田が言うと、
「私は棋道一筋です。名人になるまでは、恋愛などしません」
 幸三はそう答えた。
「ほんまか。あないな美女に寝ずの看病させといて、恋愛しませんもないやろう。お店に君の写真も飾ってたし、ええ升田君、いったいあの若子さんと、どないな仲なのや。もう接吻とかしたんか」
 谷ヶ崎のその言葉を聞くと、幸三はおもむろに立ち上がり、縁側を移動して、彼と向かい合いに座り直した。そうして、
「親しき仲にも礼儀ありですよ。ごめん!」
 その声とともに、相手の額に自分の額を打ち当てた。
「あいたーっ」
 大声を発して、谷ヶ崎は後ろにひっくり返った。
「こらこら」
 それを見ていた阪田が言った。
「ここは、お乳の家だっせ。頭突きの家やおまへんで」


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