見出し画像

将棋小説「三と三」・第19話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 その夜、幸三は得意の絶頂にあった。
 木村に勝利した勢いそのままに、対局後に設けられた料理店での祝勝会の席で、怪気炎を上げていた。
「升田君、おめでとう! 観にきてくれはった皆はん、拍手喝采して喜んでたし、関西社交クラブ将棋連合会主催の席上手合いとしても、大入り超満員の大成功や。さ、乾杯!」
 自分を今回の対局者に推薦してくれた幹事から祝福の言葉を受けると、
「どうもありがとうございます。関西代表棋士の重責を果たすことができて、ホッとしています。皆さま方のご声援に、心から感謝を申し上げます」
 と応じ、
「それにしても、3六歩から5五角、3七角の新構想は、実に見事やったね。あれで一気に優位に立ったんやから。さ、もう一杯!」
 将棋大成会大阪支部の先輩棋士からの賛辞には、
「どうもありがとうございます。相手に3四銀の構えを許すことなく戦えたことが、結果的に良かったです。終盤は危ないところもありましたが、8五桂を発見できたのは幸いでした」
 と答え、
「将棋の内容だけやない。終局後の名人との睨み合いは、迫力満点やった。おかげさまで、いい写真が撮れたよ。ささ、もう一杯!」
 新聞社の記者から杯を貰い、
「いやあ、恐縮です。天下無敵、常勝将軍の木村名人に対し、私ごとき、ただの六段風情が無礼極まりない愚行に走り、汗顔の至り、反省しきりです」
 などと、最初のうちは、しおらしく応対していたのだが、そんな礼儀正しさも束の間のことだった。酒を注がれては飲みほし、勝利を称賛されては謝辞を返していくうちに、幸三の気はどんどん大きくなっていった。
 そして、
「木村なんか弱い! 平手でも勝ってみせる!」
「木村と百番指したら、百番ぜんぶ勝ってみせる! 何が常勝将軍や、こっちが楽勝将軍や!」
「すぐにでも名人位を木村から奪取して、大阪を将棋の中心地にしたる! 関西の棋士たちの給料を、今の十倍にしたる!」
 もはや、大言壮語の仕放題だ。
 これを喜んで、周囲の棋士たちも、ますます酒を飲み、いよいよ活気づいた。
「木村名人なんて、大したことあれへん。偉ぶってるだけや。ほんまは自信がないくせに、自信ありげに指してるだけや」
「じっと自陣を固めて待って、相手が近づいたとたん、パクリとやる。まるでガマみたいな将棋やで」
「とても名人と尊敬でけるような棋品やない。将棋も財布も、ほんまにケチ臭いやっちゃ。関東の棋士ばかり贔屓にして、わてら関西勢をさんざん見下して」
「おいおい、みんな。噂をすれば影やで。いま用足しに行ってきたら、あっちのテーブルの席で、何と木村名人が鍋を突っついているのや。それも一人やない。ものすごいベッピンさんといっしょに、仲良う話しながら、楽しそうに鍋を突っついているのや」
「なにい、ほんまか。よっしゃ、わても用足しのついでに見てくるでえ」
 と、座敷から出ていった男が帰ってくるなり、
「ほ、ほんまや。年のころ二十の半ばくらいの色白の美人と、木村名人、仲良う酒飲みながら楽しそうにやっとるで」
「ああ見えて、木村名人、なかなかの艶福家らしい。妻も子もある身いうのに、女子がほいほい寄ってくるし、女子に手をつけるんも早いいう噂やで」
「名人の地位を利用して、女子を上手に口説くんやろな。俺は天下の木村義雄や。将棋も強いが、あっちも強いで。どや、抱かれてみたいやろ、天下無敵の名人に。なんて言うてな」
「俺のあそこは、3四銀の型してまんねん。いっぺん試してみいへんか。とか言うて口説くんちゃうか」
 その発言に、一同どっと沸いたが、幸三だけは笑わない。とても笑う気になれなかった。
 棋界の頂点に立つ名人たるもの、さらなる高みに向けて日々精進に励むべきではないのか。それでこそ棋界全体の発展もあり、棋士たちの社会的地位も向上するというものだろう。それなのに木村の奴め、最高位にあることを鼻にかけ、女性の気を引くとは何事だ。しかも妻子ある立場の者が。
 それに引き替えこの自分は、棋道一筋と心に決めてからは、もう三年近くも若子の顔を見ておらず、手紙を書き送ることさえやめている。それは晴れて名人になり、若子にふさわしい男になってこそ初めて彼女と恋仲になる資格を得ることができるのだと、固く信じているからだ。それなのに木村の奴め……。
 胸の奥に封印してきた愛しい人への想いが、酔いとともに溢れ出し、色事名人への怒りと相まって、幸三の感情を爆発させた。
「おのれ、許さん! ワシが木村を店から叩き出してやる! 女もいっしょに放り出してやる! 鍋もついでにおっ放り出してやる!」
 大声を発しながら立ち上がると、幸三は手荒く襖を開け、座敷を出ていった。
「い、いかん! 升田君、本気で怒ってる! 対局後の行きがかりもあるし、熱うなっとるで! みんな、早う止めるんや!」
 社交クラブの幹事の言葉とともに、数人が後を追いかけた。
「木村―っ! および、その情婦―っ! 直ちにこの店から出て行けーっ! 神聖なる将棋名人の品位を穢すやつばらは、この升田幸三が許さーん!」
 声を張り上げてテーブル席へ進んでいくと、まず木村がこちらへ振り向いた。その憎たらしい顔を見て、幸三の怒りは増大した。
 続いて、女がこっちを見た。その色白の瓜実顔に……幸三は仰天した。驚いた表情で自分を見つめている、目の前の女性は、愛しの若子に他ならなかったからだ。
 呆然とする幸三。その顔を、金縁眼鏡の奥から睨みつけ、木村が言った。
「いったい君という男は、どこまで無礼を働けば気が済むのかね。情婦とは何のことだ。いっしょに大阪見物にきた実の妹と、食事をして何が悪い」
「い、妹……?」
 かすれ声を幸三が出すと、やがて若子が小さく頷いた。それから目を伏せた。藍色のワンピースの膝の上に、両手を組んで。
 そのとき、追いかけてきた男たちの中から、社交クラブの幹事が歩み出て、深々と礼をしながら詫びた。
「木村名人、失礼の段、どうぞお許しください。ご兄妹での関西旅行、その貴重なお時間を特別に割いて本日の席上手合いに当ててくださったというのに、とんだご不興を……」
「ほんとうにそうですよ。昨日までは京都で紅葉を楽しみ、今日は対局がてら大阪の河豚料理をってときに、こんな大馬鹿者に乱入されたんじゃ、たまったもんじゃない。やはり大阪でなく、予定通り城崎温泉へ向かうんだったと後悔しきりです」
 木村の言葉に、
「も、申し訳ございません! さ、升田君、君からも名人にお詫びをして。そして妹君にも」
 幹事がそう言うと、幸三は
「わああああーっ!」
 と叫びながら、その場から走り去った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?