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小説「サムエルソンと居酒屋で」第13話

 夏休みに入って三日目。夜八時過ぎに、下宿の電話が鳴った。
「瀬川さーん、瀬川さーん、電話だよーっ!」
 大家の声に、あわてて階段を上って受話器を取り
「はい、瀬川です」
 と応じると
「こんばんは! 私です!」
 元気のいい実花子の声が聞こえてきた。
「ああ、こんばんは。いま秋田から?」
 英也の問いに
「うん、そうなの。でね、今日さっそく両親に瀬川さんのこと話したら、父がそれはいいご縁だって。せっかくの夏休みなんだから、ぜひウチにご招待しなさいって言うの」
 と、実花子の声が弾んだ。
「えーっ。こないだも言ったけど、それはまだ早いよー。だって僕たち、まだ……」
「アレのこと? だいじょうぶ。父の許しが出たら、喜んであなたに乙女の純潔を捧げるつもりよ、私」
「そういうことだけじゃなくて……」
「ほかに、どういうこと?」
「だって、こっちはまだ両親になんの話もしてないし」
「じゃあ、次はいっしょに大分へ行きましょ。飛行機でも新幹線でもブルートレインでも何時間かかったって平気よ、私」
「うーん……」
「どうしたの?」
「僕といっしょだと不幸になるぞ。『ビンボー・シンボー・ビリーバボー』って、ワダ・トシハルが予言した奇妙な言葉が暗示するように」
「なんだー、あんな言葉を気にしてたの。まったく意味不明の予言に惑わされるなんて、瀬川さんらしくないですよっ」
「だって、いきなり暗闇になり、そのあと床に倒れてたんだぞ」
「あれも、インチキ。マスターが調理に電気を使いすぎてブレーカーが落ち、真っ暗に。これは演技のチャンスと、ワダさんは席から床にすばやく移動して、うつ伏せになった。死んだふりをし、それからよろよろ起き上がった。いかにもあの人らしい振舞いだわ」
「まあ、僕もそう思うんだけどねー」
「あのね、瀬川さん。今週の土曜日には、花火大会も開催されるのよ。観光名所もいろいろあるし、ぜひいらっしゃって」
「うーん」
「それに往復の旅費もすべて父が出しますから、どうぞ身ひとつでお越しください。おいしい郷土料理をたくさん用意してお待ち申し上げておりますことよ」
「うん」
「やったー。じゃあ、来る日が決まったら電話してね。ああ、待ち遠しいなー」
 山内家の電話番号を聞いてメモし、通話は終わった。

 翌朝。いつもの喫茶店でモーニングセットを注文し、いつもの書店で単行本を一冊購入した英也は、それを読みながら一日を過ごした。
 次の日は午後から出かけ、高田馬場二丁目にある安売りアパレルショップで夏用のジャケットを買った。それから大学の近くにある床屋で髪を切り、顔をきれいに剃ってもらった。夜になって実花子の実家に電話をかけると、彼女が応対に出たので、明日の夜発車のブルートレインで秋田に向かう旨を伝えた。実花子は大いに喜んだのち、駅に着くのは翌朝の八時前だけど朝食はどうするのかと訊いてきたので、上野駅で弁当を買っていくから要らないと答えた。
 出発当日。英也は午前も午後も寝ころんで読書をして過ごした。五百ページほどもある本のうち、約四百ページを読んだところでようやく起き上がり、バッグに衣類などの荷物を詰め始めた。借りたままになっていたスヌーピーの傘を折りたたんで入れると、こんどは着替えに移った。最後に買ったばかりのジャケットに袖を通し、バッグを持つと、下宿を出て上野駅に向かった。
 駅の窓口でブルートレイン「あけぼの」のB寝台の切符を購入し、構内の食堂で野菜炒めライスを食べた英也は、ホームへ出ると売店で弁当とお茶を買い、列車が入線してドアが開くとさっそく乗りこんだ。それから切符に示された二階の寝台を見つけて上がると、カーテンを閉め、備え付けの浴衣に着替え、脱いだ衣類をたたんでバッグの上に置いてから奥のスペースにしまった。そして寝台にシーツを敷き、枕を置いて頭を載せ、両腕から下を毛布で覆った。
 最後に読みかけの本を手にし、読書灯を点けた。読み始めてまもなく、午後九時十六分に列車が動き始めた。五十ページほどを読み進んだあたりから英也はだんだん眠くなり、やがて灯を消して睡魔の襲うままにした。
 
 目覚めると、腕時計の針は午前六時過ぎを指していた。着替えをし、備え付けのスリッパをはいて階段を下り、通路側に設置された簡易椅子を開いて腰かけ、窓外の景色を英也が眺めていると
「おはようございます。次の停車駅は秋田、秋田。六時三十八分の到着です」
 という車内放送が聞こえてきた。県庁所在地に近づいているわけだが、実花子の故郷の駅はそこからさらに三つ目で七時四十八分の到着予定だ。まだ充分に時間があるなと思った彼は再び二階の寝台に上がり、読みかけの本と弁当とお茶、それに洗面用具を持って下りてきた。そして残りの五十ページを読み始め、ようやくそれが終わると、弁当を開いて食べ始めた。
 食べている最中、大事なことを思いだした。きょう七月二十八日は、実花子の十九歳の誕生日なのだった。なのに、プレゼントを買ってくるのを忘れた。初めて会った日、神田神保町の喫茶店で、彼女は誕生日のプレゼントだと言ってアイスコーヒーをごちそうしてくれた。お茶なら上野駅で買ったのがここにもあるが、とてもプレゼントにはならない。仕方がない、うっかり忘れてゴメンと詫びるしかないな。
 そうするうちにも列車は走り続け、目的地の駅のホームに滑りこんだ。
改札口を出ると、水色のワンピースを着た実花子が立っており、英也の姿を見つけるとさっそく駆け寄ってきた。
「いらっしゃい! 長旅で疲れたでしょう?」
 彼女が訊くと
「ううん。列車に乗ってすぐに寝たら着いちゃった」
 英也が返事をした。そして
「それより、謝らなくちゃいけないことがあるんだ。きょうが実花子ちゃんの誕生日だってこと忘れちゃってて、プレゼントを……」
 と、口ごもると
「そんなの平気!」
 と実花子が明るい声を出し
「来てくれた瀬川さんがいちばんのプレゼントだもん!」
 そう言って英也に抱きついた。
 
 駅舎を出ると、黒いクラウンが止まっており、二人が近づくと運転席から眼鏡をかけた四十くらいの男が降りてきて、英也に向かって礼をした。
「父の秘書をしている藤吉さんよ。きょうは父が仕事なので、代わりに名所めぐりをしてくれることになっているの」
 実花子がそう言い
「瀬川です。どうぞよろしくお願いいたします」
 英也が礼を返して、二人は後部座席に乗りこんだ。
「お嬢様、最初はどこから参りましょう?」
 藤吉の問いに
「恋為神社からお願いします」
 と実花子は答え
「参拝すると夫婦になれるのよ」
 英也にそう言った。

 神社に始まり、お寺や教会、川や海や港、自然公園や展望台や城跡、美術館や歴史資料館や造り酒屋、松原や杉の保護林、それに実花子の通った高校や中学校や小学校や幼稚園などを昼食を挟んで巡っていると、いつの間にか夕方近くになり、英也はいささか疲れてしまった。次はいったいどこへ連れていかれるのだろう、もしや「私の生まれた病院」などと言い出さないだろうかと危惧していると、車はある家の前で止まった。
 車を降り、実花子のあとについて進んでいくと、それがまさに豪邸と呼ぶにふさわしい家であることが分かった。生垣で囲まれた広い敷地には手入れの行きとどいた日本庭園が広がり、池には大きな錦鯉が泳いでいる。黒い瓦で葺いた屋根は高く、荘厳な趣を湛えている。
「ここが私の家。入りましょ」
 ドアを開けた実花子に促され、玄関に足を踏み入れると
「来だーっ」
という黄色い声とともに、右手の部屋から三人の娘たちが現れた。そして
「あいーっ、えい男なごどなー」
「ねっちゃ、けなりー」
「おしょしなごどねえべー」
 と、立て続けに秋田弁を発した。
 これを受けて、実花子が言った。
「瀬川さん、妹たちを紹介しますね。向かって左から次女の志真子、三女の理沙子、四女の日菜子です。ついでにさっきのを翻訳すると『うわーっ、いい男だなー』、『お姉ちゃん、うらやましい』、『恥ずかしがることないじゃない』となります」
 それから靴を脱いで床に上がると、こんどは左手の部屋から二人の老人が現れて、口を開いた。
「おやあ、めんけごど」
 と、老婆。
「えいもごだやな」
 と、老爺。
 またこれを受けて、実花子が説明した。
「祖父で会社の創業者である山内玄一郎と、祖母のフサノです。祖母が話したのは『おやまあ、可愛いこと』、祖父が話したのは『いいお婿さんだねえ』という意味の秋田弁です」
 さらに廊下を進んで応接間にたどり着き、中へ通されると、こんどは四十過ぎの女性が飲み物を持って現れたので、またしても秋田弁かと身構えると
「母です。山内杉枝といいます」
 と実花子が紹介したので、英也はあわててお辞儀をし
「瀬川英也と申します。このたびはお招きに預かり、まことにありがとうございます」
 と礼を述べると
「こちらこそ実花子がお世話になって。今後ともよろしくお願いいたします」
 と標準語で返事をしたので、彼はようやくホッとした。
 実花子と並んでソファーにくつろぎながらジュースを飲んでいると、再び母親がドアを開けて現れ
「お待たせしました。主人がいま帰って参りました」
 と言うと、その背後から大柄な男性がスーツ姿のまま部屋に入ってきた。そして立ち上がった英也に名刺を渡しながら
「実花子の父です。このたびはようこそお越しくださいました。杉の木のほかにはなにもない辺鄙なところですが、どうぞごゆっくりなさってください」
 と挨拶した。
「素晴らしいお嬢様のお父君に拝謁する機会を賜わり、光栄の至りです。いまだ青二才の私ですが、今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます」
 そう挨拶を返しながら受けとった名刺を見ると、そこには
「みちのく木材株式会社 代表取締役社長 山内多木男」
 と記されてあった。

 宴が始まった。山内家の広い茶の間に、英也、実花子、父、母、祖父、祖母、そして三人の妹たちが集まり、大きなテーブルに座椅子を並べて九人が座った。北国の夏の海山の幸、新鮮な佳肴が並んだ卓上で、英也のグラスにビールを注ぎながら、父親の多木男氏が言った。
「日本の林業もこれからが勝負でしてな。昭和三十九年に木材の輸入が本格的に始まり、変動相場制への移行と、それに続く円高の進行が、輸入材の普及に拍車をかけたのです。このままでは国産材の価格低下が危ぶまれます、ここ秋田の杉も」
 多木男氏のグラスにビールを注ぎ返しながら、英也が応じた。
「なるほど。林業の抱える問題は、まさに経済問題そのものなのですね。需給関係だけに目をやるミクロの考え方だけではなく、これからは世界的な視点に立って国産材の価値を高めていくマクロの経営方針が肝要になっていくのでしょうね」
「ほう」
 英也の言葉に感心をした様子で、多木男氏が口を開き
「さすがは大隈大学の政経学部にご在籍されているだけあって、着眼が鋭い。ところで、いま話題のベストセラー経済書、ガルブレイスの『不確実性の時代』はもうお読みになりましたかな?」
 と訊くと
(おいでなすったな)
 と、英也の胸は躍った。下宿でも列車の中でもずっと同書を読み続けていたのは、この質問をきっと受けるだろうと予想していたからだった。彼はおもむろに答えた。
「はい、もちろん。『アメリカの資本主義』に始まり『ゆたかな社会』、『新しい産業国家』、『経済学と公共目的』の三部作など、彼の著作はほとんど読破してきた私ですが、今回の『不確実性の時代』には新たなる発見がありました。この本はイギリスで放送されたテレビの連続番組に彼自身が新たな修正を加えて書籍化したものですが、単行本で五百ページ近いその内容が、実に興味深く分かりやすい経済学史の教科書として見事に成立していることに感銘を受けたのです。とくに第一章の『予言者たち、および古典的資本主義の約束』では、経済学の始祖アダム・スミスが自分の先祖と同じスコットランド人であることにふれ、我こそは正統の系譜を継ぐ者なりという誇り高き主張をしているかのように私には感じられました。彼の代表作として名高い『ゆたかな社会』には、こんな一節があります。
『閉まりのゆるいドアに寄りかかって家に入る者は不法侵入の汚名を受けることになるが、ゆるいドアにもある程度は罪があるのだ』。これはサムエルソンを中心とした現在の主流派経済学、いわゆる『新古典派総合』に対する遠回しの皮肉だと私には思えてなりません」
 ワダ・トシハルがほそぼそで述べた、ガルブレイスの受け売りの、そのまた受け売りの文句を使って英也は発言を締めくくった。
 英也の熱弁に
「おお……なんという学識の深さ、頭脳の明晰さ。瀬川さんは実によく勉強をしておられる……」
 と、多木男氏。
「学問を修めることこそ、学生の本分です。昨今は私の通う大学でも勉学を怠る者たちが散見されますが、まったく嘆かわしいの一言です」
 と、英也。
 多木男氏は実花子の顔を見つめ、再び英也のほうへ向き直ると、また口を開いた。
「この子が東京に行きたいと言いだしたときには、私は弱りました。初孫で、しかも長女ですので、家を継いでくれないと困りますからな。その代わりに、小さいころから愛情をたくさん注いで、大事に大事に育てました。ときには心を鬼にして、男鹿からなまはげの一団を招き、『悪い子はいねがー、親の決めだ相手ど結婚しねえ悪い子はいねがー』などと伝統的な教育を施したり。しかし、私の心配は杞憂に終わったようです。なぜなら、こんなに素晴らしいお相手を、この子は見つけてきたのですからな。わっはっはっ」
「身に余るお褒めの言葉、痛み入ります」
「天下の大隈大、その政経学部生。しかも、ご次男という好男子!」
「次男坊の機動力には自信があります」
「それに、まだ娘とは清い関係というのも気に入りました。東京は悪い虫だらけの場所だと思っておりましたからな」
「お嬢様とは、いまだ手も握っておりません。ただただ、その心の美しさに惹かれ、ここ秋田の地に導かれてきたのです」

 宴が終わり、英也は浴室へ案内された。衣服を脱いでドアを開けると、そこには大きな木製の浴槽があった。蓋を外し、手を差し入れると、ちょうど良い湯加減だ。さっそく入浴し、たっぷりの湯の中で両手両足を伸ばすと、温泉宿にでも来たような気がしてきた。家の外側も内側もすべて秋田の杉でできていると酒を飲みながら自慢をしていた多木男氏だが、この浴槽もそうなのだろうか。そのとき、浴室の向こうから
「客間にお布団を敷きましたので、お風呂から上がったら、ごゆっくりお休みください。浴衣はここに置いておきますので」
 という、母親のありがたい言葉。
 浴衣に着替え、客間へ案内され、夏掛け布団をめくって入ると、英也はふかふかとした気持ちの良さにつつまれた。それから、ふと気がつくと、枕が二つ並んでいた。
 しばらくすると部屋の襖がするすると開き、浴衣姿の実花子が入ってきた。そして布団に近づくと、彼女は小さな声を出した。
「父の言いつけで来たの。あれほどの好青年だ、引く手あまただろう。心変わりされないよう、体でつなぎとめておきなさいって。もちろん、私にとってはうれしい言いつけよ」
「えええっ!」
 驚く英也に
「それと、これを使って……」
 と、実花子。見ると、彼女が手にしているのは避妊具だった。
「父から渡されたの。子どもを作るのは、卒業して秋田に帰って祝言を挙げてから。それまではこれを使いなさいって……」
 恥じらいながらそう言うと、実花子は部屋の明かりを消し、布団をめくって英也の隣に身を横たえた。
「優しくしてね……」
 と、震える声で呟いて。


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