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小説「ころがる彼女」・第31話(最終話)

 弔問客の列のなかに、邦春はいた。
 通夜に出席するつもりなど、なかった。しかし弓子がほんとうに亡くなったのかという疑念が、心のどこかに、依然としてあった。それを晴らさないかぎり、自分はこれからの人生を前に進んでいけないと思った。
 焼香の番がきた。読経が響くなか、立礼し、合掌する邦春の目の前に、色とりどりの花で飾られた弓子の遺影がある。写真は最近のものだろうか、ロングヘアから覗く顔は両目がぱっちりと大きく、子供のようなあどけなさを湛えている。
 初めて会ったときに、二十代か三十代に見えた若々しい弓子は、祭壇に置かれた棺のなかで、いま、どんな顔をして眠っているのだろうか。

「ぜひ顔を見て、お別れをしてあげてください」
 通夜ぶるまいの席で料理に箸をつけていると、喪主である西原が邦春の傍へきて、そう言った。
「よろしいのですか」
「はい。妻もそれを望んでいることでしょう」
 その言葉に促され、西原に伴われて、邦春は部屋を移動し、祭壇へ。棺の前で一礼すると、西原が扉を開いた。
 そこから、弓子の顔が見えた。きれいな顔だった。閉じられた目が、彼女が永遠の眠りに就いたことを強く印象づけていた。愛しい女性が、ほんとうに亡くなったことを、ようやく邦春は理解することができた。
 その顔に浮かんだ笑みは、誰に微笑みかけているのだろう。天国で待っている、親類縁者に対してだろうか。この世に残していく、家族や友人や知人に対してだろうか。それらのなかには、この自分も、含まれているのだろうか。
「不思議なものです」
 傍らの西原が言った。
「結婚以来、二十五年間。そのほとんどの日々を、妻は病気に苦しんで生きてきました。それは同時に、夫である私の苦しみでもありました。近隣や地域の方々に多大なご迷惑をかけ、職場の人たちにもご面倒をかけ続けてきたのです。引っ越しを余儀なくされ、借金の弁済に煩わされ、自分の結婚人生とはいったい何なのだろうと、毎日のように思いつめてきました。いっそのこと、妻なんか居なくなってくれればいいのにと願ったことも一再ではありません。それなのに、あんなに手を焼いた妻だったのに、亡くなってしまった今となっては、ただもう、寂しくて仕方がないのです」
 西原は言葉を継いだ。
「双極性障害という病気は、家族の絆だけでなく、友人知人との人間関係も破壊します。そういうなかにあって、清水さん、あなたは妻に親身になって接してくださいました。妻の回文に興味を持ってくださったり、入院したときにはお見舞いに行ってくださったり。知らない街に越してきたこの八か月の間、妻が心を開くことのできた唯一の友人が、清水さん、あなたでした」
 それを聞き、邦春が口を開いた。
「友人ではありません。奥さまとは、愛人関係でした」
「え……?」
「不倫の仲でした。六月からです」
「…………」
「厳粛な場で、このような話をお聞かせする無礼をどうぞお許しください。私と奥さまは、この街から秘かに出ていこうとしました。行先は、N区にある中古のマンションです。それを買うための資金作りのために、私は自分の家を売り、足りないぶんを奥さまから出していただきました。奥さまが叔父さまから相続された五百万円のうち、四百万円を工面していただいたのです。そうして、私は一昨日に引っ越し、奥さまが越してくる予定の今月二十九日を待つことになっていました。そこへ、このたびの訃報でした」
「…………」
「どうぞ、私を殴ってください。気の済むまで殴り、蹴りつけてください。奥さまに出していただいた四百万円は、今のマンションを売って、必ずお返しいたします。私は、もう住む場所など要りません。どこかに住んで雨露をしのぐ資格など、まったくないのです、私という卑劣極まる人間には」
 邦春の話を、西原は黙って聞いていた。その表情には驚きや戸惑いが浮かんでいたが、なぜか怒りや憤りの現れは見られなかった。
 しばらく経ってから、彼は口を開いた。
「それは、清水さんのせいではありませんよ」
「え……」
「そして、妻のせいでもありません」
「…………」
「病気のせいです。躁うつ病のせいです。本人からも他人からも、まともな判断力を奪ってしまう、双極性障害という病気のせいなのです。清水さん。お金の返済は、ご無用です。新しいお家で、妻の思い出とともに暮らしていただけるのであれば、私としても、こんなに嬉しいことはありません」
 西原の言葉が、邦春の心に深く染みた。確かに、人妻と駆け落ちしようなどと考えた自分は、まともな判断力を失っていたとしか思えない。弓子が亡くなった今だからこそ、それがはっきりと自覚できるのだ。
「ありがとうございます。それではご厚意に甘えさせていただきます。奥さまのご冥福を、心よりお祈り申し上げます」
 そう言うと、邦春は弓子の眠る棺に向かって再び一礼し、葬儀場を後にした。
 
 電車がマンションの最寄り駅に着いたときには、辺りはすっかり暗くなっていた。改札口を出ると、市街地を抜けて、邦春は夜道を歩いていった。
 自然環境に恵まれているぶん、駅からは遠い。やがて、エジンバラ城の明かりが、暗闇のなかに見えてきた。その高台へ向かって、邦春は坂道を上っていく。新しい一万歩ウォーキングのコースを、探さなければならないな、と思いながら。
 マンションのエントランスにたどり着いた邦春が、ドアを開けようとしたそのとき、植込みのなかから小さな声がした。
「みゃあーう。みゃあーう」
 かがみ込んで、見ると、子猫が一匹、そこにいた。
「みゃあーう。みゃあーう」
 捨て猫だろうか、野良猫だろうか。立ち上がって、辺りを見回したが、親猫などの姿はない。
「みゃあーう。みゃあーう」
 可哀想に。お腹が空いているのだろう。それに、この寒さだ。ほうっておくわけにはいかない。
 邦春は、もういちどかがみ込むと、
「おいで。おいで。怖くなんかないよ」
 そう言いながら、植込みのなかに両手を差し入れて、子猫を抱き取った。茶色と白い毛をした、可愛い子猫だった。
「みゃあーう。みゃあーう」
「おお、よしよし。暖かい部屋へ連れていってあげるからね」
 子猫を上着にくるむと、邦春はドアを開けてマンションのなかに入り、エレベーターホールへ向かった。

 暖房の効いたリビングで、子猫は牛乳を飲んでいた。よほど空腹だったのだろう。あっという間に飲みほしたので、もう一度、邦春は皿に注いでやった。
「ほんとうは子猫用のミルクがいいんだろうけど、あいにくウチにはないんだ。明日、動物病院に連れていってあげるから、先生にいろいろ診てもらおうね」
 しゃがんで声をかける邦春の隣には、いつの間にか老犬がベッド
から起き出してきて、じっと子猫の様子を見つめている。
「おっと。ベスのごはんは、まだだったな。ごめん、ごめん。すぐに作るから待ってろよ」
 そう言って、立ち上がると、邦春はキッチンへ向かった。

 食事を終えたベスは、再び子猫の傍へくると、鼻を近づけ、クンクン匂いをかいだ。
 子猫は怯えた風も見せず、されるがままになっていたが、やがてウトウトしはじめた。
 それを見た邦春は、玄関から段ボールを持ってきて、組み立て、
バスタオルをたたんで敷いて、ベッドを作ってやった。
 子猫を抱えてそのなかに入れる際に、オスなのかメスなのかを見極めようとしたが、産まれて間もないらしく、性別がよく分からなかった。それも明日、獣医師に訊いてみよう。

「どうだい、ベス。仲良くなれそうかな」
 邦春が問うと、
「フン」
 と、愛犬が返事をした。
「二人と一匹で生活するはずだった、この三LDKのマンション。一人いなくなっちゃって、広すぎると思ってたんだけど」
「フン、フン」
「そこへ今夜、タイミング良く、この子が現れた。これも何かの縁かもしれないな」
「フン、フン、フン」
「ペットの飼えるマンションで、良かったよ。ここへ越してきたのが、もう無意味になってしまって、がっかりしてたんだけど、そうでもなかったか。新しい生活っていうのは、自然に始まっていくものなんだなあ」
「フン、フン、フン、フン」
「で、さ。この子の名前なんだけど。ユミコっていうのはどうだろう。女の子だったらもちろん、男の子でも、かまわずユミコ。どうだい、ステキな名前だと思わないか」
 それを聞き、老犬が
「ハハハハハッ」
 と笑った。


(了)


※作中の回文は、「たけやぶやけた」を除き、すべて筆者のオリジナル作品です。(回文集「くるくる・えぶりでい」より)。


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