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「サムエルソンと居酒屋で」第7話

 合コン当日。午後五時半に渋谷駅に着いた英也は、改札口を出ると公衆電話ボックスに入った。それから職業別電話帳を手に取り、居酒屋ほそぼその電話番号を探した。それが見つかると、受話器を左手に持ち、右手で硬貨投入口に十円玉を数個投入し、ダイヤルを回した。勉強会欠席の件は、大学で留美に直接話せば済んだのだが、そんな勇気はとても彼にはなかった。
 三回目のコールで、相手は出た。
「まいど! ほそぼそでございます!」
 いつもの威勢のいい店主の声。
「あ、瀬川です。こんばんは」
 やや緊張気味に声を出すと
「おっ、瀬川ちゃん、どうしたの? もう留美ちゃんも実花子ちゃんもお見えだよ」
 との言葉が返ってきたので、とうとう彼も覚悟を決めた。
「すいません。留美に代わってもらえますか」
 そして数十秒後
「もしもし、今どこにいるの?」
 という彼女の声が聞こえてきた。
「え、ああ、都内某所。実は急用ができてね。それでさ、悪いけど今日は勉強会を休まざるを得なくなっちゃって。たいへん申し訳ないんだけど、終わったら実花子ちゃんを寮まで送ってあげてくれないかな。阿佐ヶ谷駅からタクシーに乗ればすぐだし、タクシー代は来週返すから」
 英也が要件を述べると、予期せぬ言葉が返ってきた。
「その都内某所というのは渋谷で、急用というのは合コンでしょ」
「えっ。ど、どうしてそれを……?」
「どうしてもこうしてもないわよ。昨日、毛利くんや石原くんや安元くんたちが得意そうに話してたわよ。明日、合コンなんだって。泉心女子大の才媛たちと渋谷でステキな時間を過ごすんだって、ぺちゃくちゃ喋りまくってたわよ」
「えーっ。内密にってことになっているのに」
「内密どころか公然ね。よっぽどうれしくって、ついつい自慢したくなっちゃったんじゃないの。モテない男たちが、千載一遇の好機を目前に舞い上がっちゃった。だいたいそんなところでしょ」
「ううううう……」
「で、どうすんの、瀬川くんは。やっぱり合コンに行くの?」
「そ、それは、もう会費四千円払っちゃったし。欠員が出るとみんなに迷惑がかかっちゃうし……」
「そんなこと気にしないで、今からこっちへ来なさいよ。授業を始めるの、待っててあげるから。せっかく向学心に燃え始めたばかりなのに、勉強をやめちゃうと、またまた前期試験で『お願い』の答案を書くハメになるわよ」
「えええええ……」
 英也の煮え切らない返事に
「どうすんのよ!」
 とうとう留美の怒りが爆発した。
 その怒声に怯え
「ごめん」
 と一言だけ口にし、英也は電話を切った。それからボックスを出ると、合コンの会場へ歩いていった。この日のために買い揃えたシャツとスラックスを身にまとって。

「いきなり切りやがった」
 怒りの治まらぬまま席に戻った留美は、吐き捨てるようにそう言うと、グラスの中のウイスキーを一気に飲みほし
「マスター、お代わり」
と告げた。
「あいよ! ウイスキーのオンザロック、ダブルね!」
 やがて新しいグラスが運ばれてくると、そこからもうひと飲みしたのち、右隣に座った実花子に話しかけた。
「そういうわけで、今夜の授業は二人で行ないます。前回は第七章まで進んだから、次の八章、九章あたりからよね、『討議のための例題』は」
 すると実花子は、本を開きもしないで、こう言った。
「瀬川さんとペースを合わせて学びたいので、授業は次回にしてほしいんです。申し訳ありませんが、それでいいですか?」
 その口調が、どこか哀しみを帯びたもののように感じられて
「いいよ」
 と答えたのち、留美は彼女の顔をじっと見つめた。黒縁の眼鏡をかけているが、その奥の両目はパッチリと大きく、なによりも色白の肌が美人であることを物語っている。オーバーオールを着ているので体形はよく分からないが、おそらく蠱惑的な姿態がそこに隠されているであろうことを、以前から留美は女勝負師ならではの直観力で見抜いていた。
「どうして合コンへ行ったんでしょうね? 瀬川さんは」
 再び、実花子の声。その問いにどう答えたらいいのか、どういう言葉を選べば彼女のためになるのかを考え、しばらくして留美は言った。
「実花子ちゃんの魅力に気づいていないからよ」
「私の魅力?」
「そう、あなたの魅力」
 ウイスキーを啜ったのち、留美は笑顔になって話しかけた。
「実花子ちゃん、あさっての日曜日、空いてる?」
「はい。空いています」
「じゃあ、うちへ遊びに来ない?」
「留美さんのご自宅にですか? 大隈大学政治経済学部長様の住むお屋敷に、私のような者が伺ってもよろしいんでしょうか?」
「ぜんぜん大した家じゃないから、平気平気。うちは井の頭公園の近くにあるの。来たこと、ある?」
「入学したばかりのころ、一度だけ行ったことがあります。でも、道を覚えているかどうか、ちょっとだけ不安です」
「じゃあ、吉祥寺駅の南改札のあたりで待ち合わせしましょ。午後一時くらいに。ついでにランチをして」
「こんどの日曜日の午後一時に、吉祥寺駅の南改札ですね。承知しました」
「では乾杯!」
 グラスを合わせたのち、実花子は日本酒を、留美はウイスキーを飲みほした。それから愉快そうな留美の声が飛びだした。
「あの鈍感男を、目覚めさせてあげなくっちゃね!」


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