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小説「ノーベル賞を取りなさい」第17話

あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。




 七月も下旬に入り、ノーベル経済学賞獲得チームの面々の動きも慌ただしくなっていた。柏田は論文執筆作業の山場を迎え、由香は夏休みを返上して研究室の雑務をこなしていた。留美と学部長の牛坂は、論文の出版計画の具体化作業に余念がなかったし、その補佐の役目を亜理紗は懸命に果たしていた。
 そんなある日、帰宅した亜理紗を待っていたのは、メールボックスの中の一通の手紙だった。差出人は清井。嫌な予感がし、部屋に入って開封すると、出てきたのは便箋が一枚だけ。文章も短いものだったが、その内容が亜理紗を驚かせた。
「貴女が抱えておられる借金についての情報を入手しました。大変御困りのようですが、私がすべて解決して差し上げます。明日七月二十二日午後七時、新宿駅東口の和食料理店『うすき』に個室席の予約を入れてあります。詳しくはその時に」
 ソファーに座ったまま、亜理紗は考えこんだ。確かに私は借金をしている。そのことは誰にも内緒にしてきたのに、どうして清井の知るところとなったのだろう。卒論のテーマやここの住所といった情報を彼が大学で入手できたのは、主任教授という立場に物を言わせたからだろう。だが、借金の件は大学とは無関係なのだ。
 ストックホルムで旅行会社を経営する、父。その会社がコロナのせいで大打撃を受けた。幸い倒産は免れたが、コロナ渦が終息したいまもなお苦しい資金繰りに追われている。そこで私は少しでも役に立ててもらおうと、毎月の給料から五万円、ボーナス月にはさらに三十万円を加えて父に送金してきた。高校と大学の七年間も留学費用を払ってくれた父に恩返しするのは当然のことだと思った。
 だけど、現実は甘くなかった。毎月の生活費は切り詰めなくてはならないけど、空手の稽古代などお金が掛かるものは掛かるのだ。そこで私は、カードローンを利用するようになった。努めて使わないよう心がけていたけど、欲しいものがすぐに買えるというカードの力に、知らず知らず経済観念を奪われていった。このゴールデンウィークも、カードを使ってタイに遊びに行ってしまったが、その旅費をどうして父に送金しなかったのか、すごく後悔した。
 いま現在の借入残高は、約三百万円。返済が滞り、督促の電話が掛かってくるようになった。平日休日を問わず、夜遅くのときも。
 ああ、私はいったいどうすれば良いのだろう。とても怪しい文面だけど、清井の話を聞いてみようか……。そう考えた亜理紗は、壁に掛かった額縁の中の木版画に目をやった。
 
 翌日午後七時、指定された和食店に行くと、清井はすでに個室で待っていると店員に告げられた。案内されて部屋に入ると
「やあ、よく来てくださいました。さ、どうぞどうぞ」
 と、清井が笑みを浮かべて言った。二人きりの座敷で向かいあいに座ると、やがて襖が開き、店員がおしぼりを持ってきて
「お飲み物は?」
 と訊いたので
「生ビールを」
 と亜理紗は答えた。やがてそれが運ばれてくると、ひとくちだけ飲んで、彼女は清井に言った。
「どうして私の借金のことをご存じなのですか?」
 すると相手は、猪口の日本酒をくいっと飲んでから話を始めた。
「以前にお送りした源氏物語の木版画ですが、お部屋のどこに飾っておられますか?」
「リビングの壁ですけど」
「なるほど。それで貴女の電話の声がよく聞こえたわけだ」
「え……?」
「オルソンさん。実はあの額縁の中には直径二センチほどの盗聴器がはめこまれておりましてね。外から放射された電波を受けると、自動的に音声を発信してくる仕組みになっているんですよ」
「と、盗聴器を……」
「よーく聞こえましたよ、督促の電話に受け答えをするあなたの声が。借金は三百万円だそうですねえ」
「ひ、卑劣なっ。私をこういう状況に引きこむために、あのモンブランのペンケースをわざと置いたのね、総長室の手前の床に」
「ご明察。手段は確かに卑劣だったかもしれません。しかし、そのおかげで貴女は借金を返済して余りある大金を手に入れるチャンスを獲得できたのですよ」
「大金?」
 清井は猪口に酒を注ぐと、飲みほしてから言った。
「三千万円。それを貴女に差し上げましょう。こちらの提示する条件を呑んでいただけるのであれば」
 亜理紗もまたビールをひとくち飲み、質問した。
「その三千万円というのは、清井先生から支払われるお金なのですか? それとも他の誰かから?」
「名前はお答えできません。ある組織から、とだけ申し上げておきましょう」
 その返事に、亜理紗はしばらく思案した。三千万円あれば自分の借金を完済できるだけでなく、残りの二千七百万円で父親の会社の経営を大きく支援することができる。亜理紗は再び口を開いた。
「三千万円を受けとるための条件とは、なんですか?」
 にやりと笑って、清井は答えた。
「今月中に柏田さんの英語の論文が完成する。そうしたら次は貴女がそれをスウェーデン語に翻訳する作業に入る。柏田さんから受けとったデータを、USBメモリに保存して渡してほしい。それだけです。きわめて簡単なことでしょう。あとは速やかに貴女の銀行口座に三千万円をお振込みしますよ」
 清井の話を聞くなり、亜理紗は立ち上がった。そして
「お断りします。私たちが取り組んでいるのはノーベル経済学賞をとるための重要な仕事です。自分の借金など、私情は挟めません」
 と告げると、襖を開け
「今回の件はすべて総長に報告します。覚悟しておいてください」
 そう言って座敷を出ていった。
 取り残された清井は、即座に携帯電話を取りだし、通話ボタンを押した。
「清井です。交渉に失敗しました。処置をお願いします」
「相手の目的地はどこですか?」
「西武新宿線。鷺ノ宮駅南口から徒歩五分の自宅です」
「了解しました。ご安心ください」

 鷺ノ宮駅の改札口を出て、自宅へと妙正寺川沿いに歩いていると黒いワゴン車が亜理紗を追いぬいて急停止した。ドアが開き、出てきたのはピエロのメイクをした人物だった。そうしてニヤリと笑いながら亜理紗に近づいてくると
「バイバーイ」
 と言ったのち、口にストローのような物をくわえた。その直後、亜理紗は身をかがめて回転し、毒矢をかわすとともに伸びあがって後ろ回し蹴りを相手の側頭部に叩きこんだ。
 勢いよく道路にぶっ倒れた相手は、口から泡を吹いている。それを見て二人の男たちがワゴン車から飛びだしてきた。
「私は究心館空手道場五段、オルソン亜理紗。さあ、あなたたちもかかってきなさい」
 男たちを睨みつけながらそう言うと、彼らは路上に倒れているピエロを抱えてストローといっしょにワゴン車の中に運びこみ、ドアを閉めると逃げるように車を発進させ遠ざかっていった。
「これも総長に報告しなくちゃね」
 そう呟くと、亜理紗は後方に飛んでいった矢尻を探し当て、バッグから取りだしたウェットティッシュの袋の中に入れた。それからもうひとつの探し物を見つけようと頑張ったが、徒労に終わった。
「回し蹴りの勢いでパンプスのヒールが折れちゃった。川の中に落ちたのかなあ。修理できるといいんだけど……」
 
              

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