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将棋小説「三と三」・第12話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 発車時刻にぎりぎり間に合った幸三は、東海道線を十二時間揺られ、何とかその日のうちに帰阪した。内弟子として住みこんでいる北区老松町の木見八段宅に帰り着くと、寝床から起き出してきた師匠が、寝ぼけ眼で「ご苦労さん」と言った。
 翌朝、将棋大成会の大阪支部へ勝利の報告に行くと、情報はすでに伝わっており、支部の皆が大喜びで幸三の快挙を称え、労をねぎらってくれた。関西の代表として一緒に戦った畝も、関東の大和久と並んで四勝二敗の成績を上げ、見事に五段への昇段資格を得た。「弱い」と言われ続けてきた関西棋界のために、二人の活躍はまさに万丈の気を吐く結果となったのだ。
 大成会を出た幸三が次に向かった先は、もちろん、お乳の家だ。阪田も谷ヶ崎も、幸三が成し遂げた快事、果たした約束についてはとうに知っていようが、自分の口から直々に伝え、彼らの顔を笑みで溢れさせ、たっぷりの褒め言葉をかけてもらいたかった。
 阪堺電車を御陵前の停留場で降りて、乳守遊廓跡の道を小走りに進み、梅の古木を迂回して玄関へ辿り着き、戸を引き開けて家内に上がりこむと、阪田と谷ヶ崎が縁側寄りの六畳間に座っていた。
 幸三の姿を見ると、二人は座布団から立ち上がり、
「ようやった! マスやん!」
 阪田がカン高い声を張り上げ、
「五段昇進おめでとう、升田君!」
 谷ヶ崎も野太い声を上げて祝福してくれた。
「ささ、こっちへきて座んなはれ」
 阪田に手招きされて、幸三は部屋を歩き進み、二人とともに座布団に着いた。
「六戦全勝、たいしたもんや。さすがは、わての見こんだ男や」
 阪田が言うと、
「関東勢を一蹴。さすがは、我らの誇る升田君や」
 谷ヶ崎も相槌を打ったので、幸三はすっかり嬉しくなった。だが阪田の口から出た次の言葉は、幸三の意表を突くものだった。
「わても、関東勢を粉砕してみせまっせ」
「さんきい先生も……?」
 怪訝な面持ちで幸三が応じると、
「せや。関東の八段二人と対局することになったのや」
「えっ……」
 幸三は驚いた。もう十年以上も昔に関西名人を名乗ったせいで、将棋界から阪田一派は除外され、さらに神田事件を機に半年前に結成された将棋大成会からは阪田一人が蚊帳の外に置かれてしまっている。それは、阪田本人の口から聞いた話でもある。なのに、関東の八段二人と対局することになったとは、いったいどういうことなのだろう?
 戸惑いを隠せないでいる幸三に、谷ヶ崎が言った。
「実はな、升田君。将棋大成会がでけて棋界が隆盛期を迎えたとは言え、そこにはひとつ、大きな穴が開いておるやろ。関根名人の力をも凌駕した最強の棋士、阪田三吉の不在という穴や。これを埋めるべく、阪田先生の棋界復帰を望む声は、実は以前から聞こえてきておったのや」
「…………」
「その大きな穴を修復して、将棋界を完全な姿にでけたら、隆盛はほんまもんになる。せやけど、我らが阪田先生にも意地っちゅうもんがおますわな。人気も実力も随一やのに、ずっと袖にされて十何年も放って置かれたんやさかいに。阪田三吉の将棋が見たいという満天下の愛棋家たちの声に押されて、新聞社もたびたび棋戦開催の交渉に来てたのやが、そのたびに先生は断わらはった。これぞ棋神の意地いうもんだっせ」
「…………」
「ところが事態は急転直下。先生は東京方との対局に応じることになった。それというのも、升田君。君のおかげなのや、先生がその気にならはったんは」
「私の……?」
 幸三の問いに、
「せや。こんどの全四段登龍戦で、升田君が関東の代表棋士たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げ……」
 谷ヶ崎がそう答えていると、
「せやせや」
 つぐんでいた口を阪田が開き、代わって話し始めた。
「ちぎっては投げ、ちぎっては投げ。ほんまにスカッとしたんや、わては、マスやんの活躍に。そしたら、わても、ちぎっては投げ、ちぎっては投げをしとうなってな。昔のように、ちぎっては投げ、ちぎっては投げをしとうなったんや。なんぼ意地を張ってても、心の奥底では、ちぎっては投げ、ちぎっては投げをしとう思うてたんやな。おおきに、マスやん。あんさんのおかげで、わては目が覚めた。木村義雄と花田長太郎を、ちぎっては投げ、ちぎっては投げしてみせまっせ」
「えっ!」
 幸三はびっくりした。
「関東の二人とは、木村八段と花田八段なのですか!」
 去年の六月から進行している第一期実力制将棋名人決定大棋戦は、すでに四分の三の対局が消化されており、首位を走る木村を二位の花田が追う展開となっている。ともに関根名人門下である両棋士のどちらかが、新しい名人位に就くであろうというのが、大方の予想だ。つまり現棋界における二強を、阪田は相手にすることになる。   
 往年の最強者とは言え、六十八歳の阪田に、果たして勝ち目はあるのだろうか。しかも、長年の間、実戦からは遠ざかっているだろうに。幸三の心を不安がよぎる。
 その胸中を察したかのように、阪田は言った。
「確かに、木村は三十二歳、花田は四十歳と指し盛り。二人とも、研究と実戦漬けの毎日や。対するこのわては、もう十五年も指導将棋しか指しておまへん。せやけど、決して遊んでたわけやのうて、将棋の研究をしない日は一日とてなかったのや。それに、この対局では、持ち時間が三十時間もある。一週間をかけての勝負やさかいに、じっくりと時間をかけて、ええ手を考えられるやろ」
「持ち時間が三十時間で一週間? そんなに長い対局は聞いたことがありません」
 半ば驚き、半ば呆れて幸三が応じると、
「升田君が東京に居てる一か月半の間に、対局の条件とかもいろいろ決まってな。舞台は、いずれも京都の巨刹。まず阪田対木村戦は年明けの二月五日から十一日まで洛東の南禅寺において、続く阪田対花田戦は三月二十二日から二十八日まで洛西の天龍寺において行なう。七日間の対局中は泊まりこみとし、外出を禁ずる。関係者以外の立ち入りを許さない。ただし、老齢の阪田先生には付添人を認める。これは奥様の亡くなったのち、ずっと先生の身の回りの世話をしてはる、ご長女のタマエさんが務められるそうや」
 と、谷ヶ崎が説明をした。
「南禅寺といい、天龍寺といい、舞台は最高や。この自分にとって将棋は宗教。その修行僧として、あらゆる邪念妄想を祓い、立派な棋譜を後世に残したいので、出来得るならば大寺院の講堂で対局をしたい言うたら、ほんまにその通りにしてくれよった」
 阪田はそう話し、
「マスやんより先に、このわてが木村をやっつけても、恨まんといてや。アッと驚くような阪田将棋を見せたるさかいに」
 と言い添えて、子供のように笑った。
 そして、昭和十一年も師走の二十四日。主催する新聞社の紙面には、次のような見出しが躍った。
「将棋界空前の大手合」
「待望の巨人今ぞ起つ! 関西の棋聖・阪田三吉氏、木村、花田両八段と闘う」
   

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