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小説「ころがる彼女」・第3話

 それにしても変わった人だったな、あの先生は。
 夕食の支度をしながら、邦春はそう考えていた。玄関チャイムを鳴らしてからの応対は妙に馴れ馴れしかったし、明るく気さくな女性かと思えば、いきなりスパルタ教育の鬼教師だし。まあ、そういう性格の人なのだろう。いずれにしても、このあと宿題をやらなくてはならないのだ。
 冷蔵庫から鶏の胸肉とモモ肉を取り出し、茹でる。ミックスベジタブルを茹でて、すり潰す。それらを食器に入れたのち、オリーブオイルを少し垂らして、ベスのぶんができた。続いて、残った肉と野菜をご飯と炒めて、チャーハンに。これが自分のぶん。
 食事を済ませると、午後七時。いよいよ宿題だ。今夜はテレビを見ない。完成するまで、ウイスキーも飲まない。一日二十四時間のうち二十三時間はベッドや床で寝ている老犬のおかげで、居間の静けさは保たれている。新聞チラシの白い裏面をテーブルの上にひろげ、ボールペンを手にして、さあ集中だ。
 午後八時。チラシには「三・一四」および「円周率」という言葉と、それらを平仮名にした「さんてんいちよん」と「えんしゅうりつ」の文字列が並んでいるだけ。
 午後九時。新たに加わった文字は、「んよちいんてんさ」と「つりうゅしんえ」の二行のみ。
 午後十時頃。チラシには奇妙な線が引かれ、それが動いて、やがて船の形になった。煙突が現れ、そこから煙が吐き出され、海面を表す線も伸びていった。
 午後十一時前。先ほどまでのチラシはくしゃくしゃに丸められ、床に投げ捨てられた。新しい白面がテーブルに置かれた。
 午前零時過ぎ。チラシに、一つの言葉が書かれた。「しかし」。
 午前一時頃。さらに、二つの言葉が加えられた。「さいし」と「しいさ」。
 午前二時前。それらの文字に、「やく」と「くや」が追加された。
 午前三時半。再び「さいし」と「しいさ」が、文字列の仲間入りをした。  そして最後に「を」と「お」の字が書きつけられた。
「できたぞーっ!」
 邦春の大声に、寝ていた犬が、目を覚ました。
「八時間半をかけた、デビュー作だ。ついにやったぞ、ベス!」
 飼い主の言葉に誘われて、愛犬はベッドから起き出し、ゆっくりと歩いてきた。
「傑作だぞ」
 それを聞き、チラシを覗きこむ、ベス。
 そこには、このような言葉の連なりがあった。

 才子(さいし)、約(やく)三・一四(さいし)を。
 しかし惜(お)しいさ、悔(くや)しいさ。

「すごいだろ」
 邦春が言うと、
「ぷすぅー」
 老犬はオナラをした。

 午後二時過ぎ。邦春は眠い目をこすりつつ、講義を受けていた。未明に宿題を何とか終えたのち、疲れなおしにウイスキーを数杯傾けた。それから寝たのが、午前五時。目覚めたのが十時で、ウォーキングに出かけるのを諦めた。長年の健康習慣をサボってしまった悔いと眠気をこらえ、彼は授業に集中しようと努めた。月謝はすでに納めてある。もはや回文道を歩むのみだ。
「なるほど、円周率をテーマにしたのですね」
 邦春とテーブルを挟んで向かい合い、宿題の回文を読みながら、弓子は言った。
「回文のおヘソは『しかし』。それに言葉を継ぎ足して、上下に伸ばしていったのですね」
「ええ、まあ……。お粗末な出来ですけど……」
 謙遜する邦春に、
「素晴らしい!」
 と弓子。
「え。ほ、ほんとですか」
 眠い目を、輝かせた邦春だが
「でも、惜しい」
 の声に、少し落胆した。
 弓子が解説をする。
「素晴らしいと思うのは、数学の日のゆえんである三・一四の円周率の回文化に、堂々と取り組んだこと。その姿勢を、私は高く評価します。才知に優れた古代の数学者が、約三・一四という近似値を導き出した。しかし、今では小数点以下幾桁もの計算がなされている。それをもしも彼が知ったならば、さぞかし惜しい悔しい気持ちになるであろう。そういう意味をこめた回文ですよね、これは」
「さすがは、先生。その通りです」
 嬉しそうな顔になり、邦春が応じる。
「この年寄りだって、小数点以下三十桁までは言えますよ。ええと…
三・一四一五九二六五三五八九七九三二三八四六二六四三三八三二七九。語呂合わせで覚えたんです、あの『産医師異国に向かう産後厄なく産婦みやしろに虫さんざん闇に鳴く』ってやつでね」
 それを聞くと、弓子はテーブルに置いたスマホを手に取り、いじり始めた。そうして、言った。
「今現在では、三十一兆四千百五十九億二千六百五十三万五千八百九十七桁まで計算済みだそうです。優れたスーパーコンピュータの開発と、効率の良いアルゴリズムの考案によって」
 その返事に、邦春はシュンとなった。
 弓子は述べた。
「話をこの回文に戻しましょう。いったいどこが惜しいのかと言うと、古代の数学者が現代の円周率の計算の成果を知ったならば、という意味合いの言葉が抜けているところです。これも読みこまれていたとしたら、清水さん、これは大傑作ですよ。いずれにしても、初めての回文がこのレベルにあるということは、清水さんの才能が並大抵ではないという証拠です」
 彼女の誉め言葉に、三たび、邦春の声が明るくなった。
「ほんとうですか! 嬉しいな! 八時間半もかけてやった甲斐がありました!」
 続けて
「ところで、先生なら、どういうのをお作りに?」
 そう問うた。
 すると弓子は
「もう作ってあります」
 と言い、ホワイトボードへ歩いた。そして黒いマーカーで、こう書いた。

 師、すでに問うと、賛嘆か。
 九と三、足したんさ。
 解く、簡単さ。十と二ですし。

[し すでにとうと さんたんか くとさん たしたんさ とく かんたんさ とうとにですし]

 上から読んだのち、下から読んでみて、邦春は唖然とした。なんと、回文のなかで、足し算が行われているではないか。
「出題をされて簡単に解いてしまい、先生を賛嘆させたこの生徒は三歳児くらいと思ってくださいね。数学と言うより、算数の初歩ですから、九+三は。ところで清水さん、この回文のおヘソは?」
「足した、です」
「はい、正解。ずいぶん慣れてきましたね」
 テーブルに戻ってきた弓子に、邦春は訊いた。
「昨日のサンドイッチといい、今日の足し算といい、先生の回文の見事さには、まったくもって感服です。いったい、どこで、そのような技術を身につけられたのですか?」
 弓子は、こう答えた。
「そうね。余芸ってとこかしら。コピーライターの」
「コピーライター?」
「広告の文案家。宣伝文句を作る仕事です。私、大学を卒業してから、都内の広告代理店で働いていたんです」
「へえー。宣伝文句って、たとえばあの、男は黙ってサッポロビール、みたいな?」
 その問いに、弓子は再びスマホの操作を始め、そして答えた。
「昭和四十五年に大ヒットしたテレビCM。それに使われたキャッチコピーですね。広告業界でも、名作中の名作と言われています」
「あのCMは良かったな。お風呂上がりに、三船敏郎の真似をして黙ってごくごくビールを飲んだものですよ。海水のお風呂だけど」
「海水のお風呂?」
「そう。航海生活では、真水は貴重品ですからね。けれども海水なら、いくらでも汲み取ることができる。まずは海水を沸かした風呂にゆっくりと浸かって温まり疲れを取り、しかるのちにシャワーから出る真水で体に付着した塩分を洗い流す。これが、昔の船乗りたちの入浴のやり方だったんです」
「へえ……。えっ、清水さん、船乗りだったんですか?」
 弓子の目が輝き、言葉が弾んだ。
「ええ。こう見えても、地球を何周も船旅してきた海の男ですよ。今じゃ、海なし県の独居老人ですけど」
 その返答に、弓子は
「私だって、銀座のコピーライターだったのに、今じゃ、ダ埼玉のオバサン主婦です」
「オバサンってことは、ないでしょう。そんなに若いのに」
 邦春が言うと、
「若くなんてないですよ。もう五十三だし」
 との返事。
「ええーっ。二十代か三十代かと思ってた」
「あはは。そんなに外してちゃ、お世辞にもなんないですよ。たまたま、若く見えるだけ。たまたま、です」
 驚きついでに、邦春は訊いてみた。
「それじゃあ、私はいくつに見えますか」
「六十代か七十代。えーとねー、六十七くらいかな」                           
「八十四です」
「えっ。ウソでしょー。顔にシワとか、あんまりないし。髪は白いけど、眉はまだ黒くて男らしいし。背も高くて、とっても若く見えますよ、清水さん」
「人間は丸くなっても、背筋は伸びてますってね。そういう体質なのかな、私は」
 邦春の言葉に
「あっははー。コピーライターみたい」
 弓子は笑い声。
「私は昭和十年生まれですけど、あなたは?」
「四十年生まれです」
「じゃあ、同じ昭和二桁だ。私は、ぎりぎりですが」
「ぎりぎり、同世代ってか。あっはははー」
 楽しそうに、彼女は笑う。
 しかし、次の瞬間、彼女の声音は大きく変わった。
「きゃああーっ!」
 その悲鳴に
「どうしました?」
 邦春が訊くと、弓子の人差し指がテーブルの端に向けられ、
「く、く、く……」
 というかすれ声が口から漏れた。
 その方向を見ると、小さな蜘蛛が一匹、テーブルを這っていた。
「なんだ。クモくらい、いますよ。ここは田舎だもの」
「蜘蛛はダメ……蜘蛛はダメ……蜘蛛はダメ……」
 弓子の怯え声に、邦春は椅子から立ち上がった。テーブルの端へ行くと、その虫を右手に乗り移らせ、両の手に抱え、窓のほうへ歩いていった。そして小指と薬指でクレセント錠を回し、窓を開け、虫を戸外に放してやった。
「それに、クモはゴキブリやハエやダニなどを食べてくれる、益虫ですよ」
 そう言いながら、振り向くと、弓子が椅子にもたれて、小刻みに震えていた。
「殺される……殺される……蜘蛛に殺される……」


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