見出し画像

みかんの色の野球チーム・連載第9回

第2部 「連戦の秋」 その1
 
 
 新学期は、意外な出来事とともに幕を開けた。
5年生の秋から丸1年、3期連続して学級委員長を務めてきたユカリが、なんとその座から滑り落ちてしまったのだ。
 9月1日の木曜日、第2学期始まりの日の1時間目。ホームルームの場で実施された学級委員長選挙に、名乗りを上げたのは、深大寺ユカリと山本佳代子の2名だった。
「立候補する者は、手を挙げて」
 福山先生の言葉に、まずはユカリが応じ、続いて佳代子が同じく意思表示をしたとき、クラスのみんなからざわめきが起こった。ヒゲタワシ先生もまた、おや、という顔をした。
 それもそのはず、この1年、選挙のたびに立候補するのはユカリだけ。対立候補のいない中、自らの抱負を述べてしまえば、それで彼女の就任は決まった。学業最優秀で、東京文化のバックボーンを持ち、矢倉セメント工場長の娘というブランドをも有するお嬢様の威光に逆らう者などおらず、加えて先生という後ろ盾の存在は強力だった。
 ところが、今回は違う。夏休みの臨時登校日、あのブッチンとの一件で、ユカリのリーダーシップは少なからず傷つけられた。もはや、彼女のキャリアは、完璧なものではなくなっていた。
 片や、佳代子の人気には根強いものがあった。津久見生まれの津久見育ちで、みんなと同じ言葉を話し、みんなと同じような服を着た彼女は、性格が明るく、いわゆる姉御肌で、クラスの女子たちにとても好かれている。また、チャーミングな顔立ちとコケティッシュな体つきは、男子たちの憧れの的だ。
 思い起こせば、ユカリが転校してくる以前の、5年生の1学期。学級委員長を務めていたのは、佳代子だったのだ。東京娘の登場で、彼女の存在感はやや霞んでしまったのだが、あれから1年と半年、心と体の著しい成長が、いまこそ捲土重来のときと彼女自身に告げたのかもしれない。
 誰も予期していなかった、現職と元職の対決。かくて2人の候補者は、学級委員長就任に向けた各々の抱負を述べ、その後、40名のクラスメートによる投票に己の運命を委ねることとなった。
 先生に促されて、2人は教室の黒板の前に進み出た。並んでこちらに向き直ると、両者の姿はまったく対照的だった。
 男女を合わせ、クラスの中でいちばん背の低いユカリと、いちばん長身の佳代子。
 まだ小学3年生くらいにしか見えないユカリと、もう中学3年生くらいの早熟ぶりを見せている佳代子。
 2人のスピーチもまた、対照的なものだった。
「世の中の規則や約束事をきちんと守り、社会に貢献できる立派な人間に将来なれるよう、みんなを引っぱって、しっかり学んでいきたいと思います」
 と、ユカリ。
「毎日いっしょに楽しく勉強して、毎日いっしょに楽しく遊んで、思い出に残る小学校生活にしたいです。困ったことがあったら、なんでも相談してな」
 と、佳代子。
 両候補者が席に戻ると、いよいよ投票が始まった。
 福山先生からクラスのみんなに投票用紙が配られ、自分が支持を決めた候補者の名前をそれに書きこんで折りたたみ、1人ずつ壇上に置かれた投票箱の中に入れていく。
「全員、終わったか?」
 先生の言葉に、40人が返事をすると、ついに運命の開票。
 深大寺ユカリ、山本佳代子と、黒板にあらかじめ書かれた名前の下に、1枚1枚投票用紙を開きながら、先生がチョークで「正」の字を形づくっていく。
 その作業は手間を要するものだったが、両候補者の間で明暗が分かれるまで、さほど時間はかからなかった。うつむく、ユカリ。満面笑みの、佳代子。
「それでは発表する。深大寺、8票。山本、32票。よって、第2学期の学級委員長は、山本佳代子に決定」
 思わぬ大差だった。
「みんな、ありがとーなっ!」
 佳代子の就任挨拶を聞くヒゲタワシの表情は、どこか憎々しげだった。
 
 2時間目の国語、3時間目の算数、4時間目の社会、そして給食の時間が終わって、昼休み。
 クラスのみんなは、ドッジボールをやりに、校舎の階段を駆け下りていった。
「おめでとーっ、佳代子!」
 ペッタンが、笑顔といっしょに声をかける。
「やったのう! 学級委員長じゃあけんのう!」
 ヨッちゃんも、自分のことのように嬉しそう。
「俺どー、みーんな佳代子に投票したんぞ!」
 カネゴンが大きな声で言うと、
「俺も俺も、佳代子に投票したけん」
 ブッチンがやや照れ臭そうに主張し、
「もちろん、タイ坊も、のう?」
 と、私の顔を見ながら付け加えたので、
「う、うん。俺も佳代子に投票した」
 私は、嘘をついた。
 さらに大勢のクラスメートたちから贈られる祝福の言葉の中、新しい学級委員長とみんなは、勢いよく校舎を飛び出し、広い校庭のど真ん中に集合した。
 みんなの靴のつま先でラインを引いて、でっかいコートを作る。2人ずつジャンケンして、2つのチームに分かれ、用具室から空気がパンパンに詰まったボールを持ってきたら、プレーの始まりだ。
 ヨッちゃんがコートの外側から、味方の陣内にロングパスを投げ入れる。それをキャッチしたブッチンが、後ずさる敵陣のメンバーに狙いをつけて振りかぶり、いちばん近くにいた佳代子は標的にせず、別の子めがけてボールを投げつける。
 コートの中を行ったり来たりしながら、こうして昼休みにみんなで遊んでいると、ああまた学校が始まったんだなあと、あらためて私は実感する。
 いつの間にか、校庭は全校の生徒たちでいっぱいになっていた。私たちの両隣で、やはりドッジボールに興じている6年生や5年生。イチョウの木々と草花の植えこみの向こうで、三角ベースボールを楽しんでいる4年生や3年生。でっかいクスの木の裏手に据えつけられた、ブランコや鉄棒で遊んでいる2年生や1年生。
 ふと、私は気がついた。歓声を上げてゲームに熱中するクラスメートたちの中に、ユカリの姿が見えない。
 どうしたのだろう。ユカリは、昼休みのドッジボールの常連なのに。勉強と違って運動は得意じゃないけど、キャッキャとはしゃぎながら、いつもコートの中を逃げまわっているのに。もしかしたら、今朝の委員長選挙の一件が……? そんな考え事をしていたら、ペッタンにボールを投げ当てられてしまった。
コートの外に出る、私。だがやはりユカリのことが気になって、そのまま小走りに、私は校舎の方へ向かっていった。
 
 階段を駆け上がり、教室の入り口に着くと、私は静かに戸を開けた。
そこには、窓を向いて立つ、ユカリの後ろ姿があった。他には、誰もいない。彼女が見つめる窓の下には、クラスメートたちが元気に走りまわっているドッジボールのコートがあるはずだ。
私は、声をかけた。
「いっしょに遊ばんの?」
 ユカリが、振り向いた。
 私を見て、すこしビックリしたような顔になり、しばらくして、また窓の方を向いた。
 私は、もう一度、声をかけた。
「いっしょにドッジボール、せんの?」
 再度の問いかけに、ユカリは黙ったままでいたが、やがて窓の下を眺めたまま、振り返らずに言った。
「バッカみたい」
「え?」
 彼女の口から出た意外な一言に、私は驚き、戸惑い、その意味を知りたくて、教室の中へ足を踏み入れた。そして彼女の立つ窓際へ歩み寄り、訊いた。
「バッカみたい、ち、どげなこと?」
 ユカリは、今度は振り向いた。色白の愛らしい顔が、いくぶん険しくなっている。私を挑発するような口調で、彼女は答えた。
「もうすぐ中学生になるのに、バッカみたいってこと。いつまでもドッジボールなんかで遊んで、バッカみたいってこと」
「…………」
「中学生になったら、その次は高校生。高校生になったら、その次は大学生。私はね、東大に行くの。パパと同じ、東大に行くの。東大に行って、偉い人になるの」
「…………」
「でも、このまま津久見にいたら、東大に行けないわ。田舎の中学校なんか、勉強が遅れてるし、いい高校なんか、ないし」
「津久見高校があるじゃろう」
 私は反論した。津久見高校は、いい高校に決まっているではないか。だが、ユカリの口からは、さらに私の理解を超えた言葉が飛び出してきた。
「なあに、それ。野球が強いだけの学校でしょ。東大へはね、勉強の進んだ学校からじゃないと行けないの! 東京教育大付属の駒場高校とか、日比谷高校とか、麻布高校とか、開成高校とか、頭のいい学校からじゃないと行けないの!」
「コマバ……? ヒビヤ……? アザブ……? カイセイ……?」
 ふん、あなたなんかが知ってるはずないわよね。そんな冷ややかな面持ちで、ユカリが私の反応を見ている。
「コマバ……、ヒビヤ……、アザブ……、カイセイ……」
バビブ、バビブと、まるで外国語のようなそれらの名称を、私は繰り返して口にした。
「コマバ……、ヒビヤ……、アザブ……、カイセイ……。コマバ……、ヒビヤ……、アザブ……、カイセイ……。コマバ……、ヒビヤ……、アザブ……、カイセイ……。あっ! そうじゃ! 海星高校なら知っちょる! 三重県の学校じゃろ! 去年の夏の甲子園で、開会式のすぐ後の試合で、津高が当たって、7対4で勝った! 三浦投手が完投して勝った! あんときの相手の、海星高校じゃろ!」(※注)
 得意げな私の返答に、ユカリは、しばしポカンとした表情になり、それから顔を崩してアハハハハッと笑った。
「面白いわねー、石村君って」
 最後にユカリがそう言ったとき、自分のことをほんのちょっとだけ彼女が認めてくれたような気がして、私は嬉しかった。
 そうするうちにも昼休み終了のベルが鳴り、クラスメートたちが廊下を歩いてくる音が聞こえてきた。
 ユカリと私は、窓際から離れ、それぞれの席に着いた。
 
 
 
(※注)「海星」と言えば、長崎の海星高校もまた、当時の甲子園の常連校の1つだった。なかでも1976年度の夏の甲子園大会でベスト4進出の原動力になった、酒井圭一投手(怪物サッシーと呼ばれ、のちにヤクルトスワローズに入団)の快投は印象的だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?