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将棋小説「三と三」・第29話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 昭和二十年の暮れ。
 復員兵たちでスシ詰めになった汽車に運ばれ、幸三は郷里の広島へ向かっていた。
 八月に戦争が終わり、これで帰国できるぞと兵たちは喜んだが、待てど暮らせど日本からの復員船は来ない。魚雷で沈められ過ぎて船が無くなったのではないかと皆で噂していたところ、アメリカ軍が艦を出してくれるとの朗報が飛びこんできた。
 それは上陸用舟艇や戦車などを兵隊といっしょに運ぶ輸送艦で、数万トンはありそうなほど大きく、艦内も広々としていた。全員が乗りこんでポナペ島を出発したのが、十二月の八日。途中、グアム島に立ち寄って給油をし、十日後に横須賀へ入港したのだった。
 汽車を広島駅で降りた幸三は、噂に聞いていた原子爆弾が投下された市内の惨状を見て胸が潰れる思いがしたが、山間にある故郷は戦争の被害を受けず、昔のままの風景を留めていた。
 懐かしい家の戸口に立ち、
「ただいま」
 と言ったら、奥から母が出てきて、息を呑んだ。
 無理もない。すでに「戦死」の公電が届いている息子が、いま、目の前に立ち、
「升田上等兵、ただいま帰還しました」
 と、声を発しているのだから。しかも、二年間の孤島暮らしで、顔は真っ黒。よれよれの軍服に、大きな雑嚢という姿である。
「幸三か……ほんまに幸三か……」
 それっきり、母は声が出ない。どう話したらいいのか、息子にもよく分からない。
「幸三の幽霊じゃと思うたわい」
 と、母の口からようやく明るい笑いがもれたのは、兄や親戚の者たちが詰めかけてからだった。

 敵襲に神経をすり減らし、一日たりともまともな食物を口にできなかった二年間。幸三は、骨の髄まで疲れきっていた。とにもかくにも、体を作り直さなければならない。
 原爆にやられた広島はもちろん、東京も大阪も、焦土と化したと聞いた。棋界の復興は、そう早くは進むまい。将棋が指せるようになるまでに、木村名人と相対する日が来るまでに、勝負に耐え得る体にしておかねばならない。
 そう考えた幸三は、昼は兄の畑仕事を手伝い、それ以外の時間は好きなだけのんびりと過ごした。敗戦後とは言え、農家だから食物には困らない。幸三は、毎日たっぷりと栄養を摂取した。

 戦争に負けた日本は、あらゆる面での改革を余儀なくされていた。マッカーサー元帥をトップとする占領軍総司令部は、日本の再軍備を防止するとともに、六・三・三制への学制の改革などに代表される文部行政にまで干渉した。
 将棋もまた、その例外ではなく、棋界の再興は民主主義の思想を体現した新制度の発足で始まった。
 昭和二十年十一月二十九日。東京・目黒に仮設した将棋大成会の本部では、会長である木村名人ら執行部が臨時総会を開催した。そして戦地や疎開先から戻ってきていた棋士たちに向かって、従来の「段位」を撤廃し、「A・B・C」の各クラスから成るランキング制度である「順位戦」制度に変更することを提議した。この重大動議に総会は紛糾したが、やがてその主旨は棋士たちの賛同を得た。
 こうして第一期順位戦は、翌二十一年の六月から始まることになった。現在の八段十四名をA級、七、六段十五名をB級、五、四段二十九名をC級とし、すべて平手で、それぞれのリーグ戦を行ない、棋士たちに総順位を付けることとした。強い者はCからB、Aへと昇っていき、弱い者はAからB、Cへと落ちていく。
 またチャンピオンに相当する木村名人とは、A級で第一位になった棋士が挑戦者として七番勝負の名人戦を戦う。その結果、勝者は名人位に就き、敗者はA級第一位となることも決められた。
 こうしてスタートすることになった順位戦だが、段位については柔道界や囲碁界、それに国民から寄せられた撤廃への反対意見が多いため、やがて元に戻った。
 また執行部が頭を痛めたのは、対局場の確保だった。焦土となった東京と大阪では、ともに大成会の本部が焼失していた。臨時に本部にしている目黒の家屋だけでは、棋士たちが勝負する場所が到底足りない。
 そこで、戦火を逃れた愛棋家の邸宅や、寺の堂を借りて指すことになった。盤、駒、駒台などの用具は、空襲の中を木村名人が大八車で運び出したものも含めて何とか足りたが、ストップウォッチがない。記録係は腕時計を代用するしかないが、物資の乏しい時代だから贅沢は言えない。
 物資だけでなく、食糧が乏しいのも大問題だった。食っていくのは大変だが、それは棋士たちに限ったことではない。日本中の人たちが、ひもじい思いをしていた。そして、娯楽に飢えていた。
 その飢えを癒すのが、何よりも、棋士たちの務めだ。
 幸三の出番が近づいていた。
 


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