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将棋小説「三と三」・第5話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 太陽は西へと進み、阪田の話は過去へと戻る。
「わてはな、ここから南のほうへ歩いて二十分ほどのところ、貧乏人ばっかりが暮らす集落に生まれたんだす。お姉たんが二人に妹が六人もいて、男の子はわてだけ。三番目に生まれたんで、三吉いう名前をつけられたんだす。お父ったんは草履を作ったり直したりの職人で、わても小っちゃい時分から仕事を手伝うてた。せやけど、注文はそないにあらへん。雨の日はもちろん晴れてても仕事のない日が多く、そんな日は、御飯の代わりに朝から夜まで将棋を指してた。七つ八つの頃から、大人たちの中に入って将棋を見て覚え、大人たちを相手にわては将棋を指してたのや。学校へは通ったけど、半年くらいでやめた。丁稚奉公もすぐにやめた。せやけど、将棋だけはずっと続けた。あっちに強い人がいると聞いては行って指し、そっちにもっと強い人がいると聞いては出向いてって指した。そうやって指して指して指しまくり、将棋の腕だけはどんどん上がっていったのや。十七、八の頃になると、もう堺の近在に、わてに敵う相手はおらんようになってた。チンチン電車が走るようになってからは、乗って大阪方面へも遠征をして、泉州堺の三吉の名を大いに轟かせたものや」
 その話は、強く幸三の胸を打った。貧乏な生まれと、将棋ばかりの日々。それらは、まさに、この自分が歩んできた道ではないか。それまで聞き役に徹していた幸三は、ついに口を開いた。
「阪田名人、私にも将棋しかありませんでした。ですから、広島の山奥から飛び出してきたのです」
 幸三の発言に、阪田は意外な言葉を返した。
「名人て呼ぶのはやめとくなはれ」
「えっ……? どうしてですか……?」
「わては堅苦しいのは苦手や」
「…………」
「わては子供の時分から『さんきい』と呼ばれてた。三吉やから、さんきいや。せやから、わてのこと、これからさんきいと呼んどくなはれ」
「さんきい……。しかしそれは、あんまりです。せめて、さんきい先生と呼ばせてくださいませんか?」
「ほなら、さんきい先生でよろし。で、あんさんのことは何て呼びまひょか? 升田二段では堅苦しうおますやろ?」
「うーん……そうですねえ……」
「マスやんで、どないでっか?」
「マスやんで結構です、さんきい先生」
「よっしゃ、それで行こ」
 笑顔になって、阪田は言った。
「マスやんが家出をして将棋界に入ってきたのも、谷ヶ崎はんから聞いてるで。そんな一途なところが、わてに似てて、マスやんのことを気に入りましてん。それから、マスやんの人物と、マスやんの将棋を見せてもろうて、これは、わてと違うて、本物の名人になる器やと思いましてん」
「さんきい先生も、名人ではありませんか」
 幸三が言葉を返すと、
「それが違いまんねん。ええか、よーく聞きなはれ」
 幸三の目を見つめ、阪田はおもむろに語り始めた。
「東京の関根金次郎十三世名人こそが、本物の名人。わての関西名人は勝手に名乗ったもの、いや、名乗らされた名人だす。江戸幕府から禄を食んでた将棋の家元、その最初の名人つまり第一世名人が大橋宗桂はんで、二世名人が大橋宗古はんというふうに、名人いうもんは一度なったら死ぬまで名人っちゅう世襲制度でずーっと続いてきたんやな。ところが御一新で、幕府もろとも将棋の家元も無うなってもうて、さてさて十二世の名人は誰がなるんかいな、年功と実力のある者を推挙しようかいなということで、小野五平はんがならはった。小野はんは、大正十年に九十一歳でお亡くなりというご長命の方で、その晩年に、自分の次は誰を名人にしようかと候補を二人、考えておらはった」
「それが関根先生と、さんきい先生だったのですね」
 幸三の言葉に頷き、阪田は語り続けた。
「わてが初めて関根はんと将棋を指したんは、明治二十四年。わてが二十二歳、関根はんが二十四歳のときやった。場所は堺、大浜の料亭、一力楼。関根はんはすでに専門棋士の四段やったのに、その名を伏せてわての前に現れ、素人天狗の三吉の鼻をへし折った。負けた悔しさのあまり、わては高熱を発して十日も寝こんでしもうたのや。それから十二年後の明治三十六年、二度目の対局は大阪の岡本楼で行われた。関根はんが七段、わてが四段格ということで、香落戦を二番戦い、こんどは一勝一敗と指し分けた。それから三年が経って、三度目の対決や。関根はんはもう八段に昇ってて、わての棋力を五段半と見なして、またも香落戦を二番。最初の一番を大阪で、日をあらためて次の一番を神戸で指したのやが、わては連敗をした。翌年、またも神戸で四度目の対局を香落ちで戦ったのやが、ここでもわては負けてもうた。関根はんという将棋指しは、それほど強かったのや。しかし勝負では負けても、わては気持ちでは負けてへん。必ず関根を倒してみせると、そのまた翌年、大阪で五度目の対決。香落戦を二番戦い、阪田六段が関根八段にみごと連勝したのや。せやけど、まだまだ負け越しとる。このままでは気い済まんよってに、五年後の大正二年に六度目の対決を挑んだのや。七段になってたわては初めて上京して、関根八段との香落戦を勝ち、その一週間後、場所を名古屋に移しての初の平手戦では敗れたものの、帰阪し三か月後に箕面でまたもや平手戦。こんどは会心の将棋で圧倒して、これほど心の底からスカッとしたことはなかったなあ」
「平手戦を圧勝したのですか。それは嬉しかったでしょうね」
 まるで自分が阪田になって関根に勝ったかのように、顔をほころばせて幸三が言った。
「この戦果を小野名人に認められ、わてはとうとう八段に昇った。若かった頃は関根はんのほうがずいぶん上やったが、わてもどんどん腕を上げて、追いつき、並び、ついに追いこしたのや。その後、関根はんとは八段どうしで平手将棋を何局か指したんやが、通算成績は三十二番戦って、わての十六勝十五敗一引分。どんなもんだす、わての一番勝ち越しだっせ。このぶんなら、十三世名人に推挙されるやろう。そう思うてた矢先に、とんだ伏兵が現れよった。関根はんの一番弟子の……」
「土居先生ですね」
 幸三が言った。師匠思いの土居市太郎が阪田を破り、関根の名人襲位を安泰なものにしたという話は聞き知っている。
「せや。七段の分際で八段のわてに、土居はんが平手勝負を挑んできよったのや。何を小癪なと、わては受けて立ち、将棋は優勢から勝勢になって終盤を迎えた。そこへ土居はんは、苦し紛れに飛車を取るぞと銀を打ってきた。これに対して飛車を逃げれば何事も起こらず、はっきりと勝ちなのやが、わては別の手を指した。これでも勝ちや、飛車のひとつぐらいくれてやるわい、貫録を見せつけてやるわいと意気がったのやな。ところが、これが大ポカやった。取られた飛車を下段に打たれて、何と受けが無うなってる、負けになってもうてる。まったくもってド阿呆なことを、わてはやってもうたのや……」
 でっかい頭の後部を右手でぽんぽんと叩きながら、阪田は溜め息まじりに話す。
「その敗戦で、わての名人への道は閉ざされた。関根はんには勝ったけど、その弟子の土居はんに負けてもうたのや。しかも一段下の七段に平手将棋で敗れてもうたのやから、阪田は名人の技量にあらずと、わての評価は一気に落ちた。それとは逆に、強い弟子を育てたものやと、関根はんの株が急上昇。小野名人の没した大正十年、とうとう関根はんは十三世名人にならはった……」
 溜め息を、阪田は大きく吐いた。それから言葉を吐き続けた。
「その四年後、五十六歳のときや、わてが関西名人になったのは。ただし、さっきも言うたように、これはわてが意図してなったものやない。後援者たちに担がれて、しぶしぶ関西名人を名乗ることになったのや。話を持ちかけられて、わては断った。日本一の名人は日本にただ一人であって、その名人は東京にいてはるからと。そしたら、こう言うのや。何も関根はんと同じ名人の位を張り合うのやのうて、関西名人いうことやから、関根はんの位を貶めることにはならへんと。相撲かて東に対して西があるのに、何で将棋は東京にあるものを大阪も持ってどこが悪いのかと。将棋の実力かて、関根より阪田のほうが上やないかと。要するに、対抗意識やな、関東に対する関西の。後援者たちがあんまり強く薦めるもんやから、いやいやながら関西名人をわては名乗った。そしたら、東京方が猛反発や、阪田の名人僭称は許さぬと。そういうわけで将棋界から、阪田一派は除外となった。わては、棋界で孤立した。寂しいこっちゃ、もう十何年も孤立したまま、ほんまにほんまに寂しいこっちゃで。こうなったのも、みんなみーんな、わての後援者たちが悪いのや。まったく、ド阿呆やで、あいつらは。あっ、いま言うたこと、後援者の人たちには絶対に喋ったらあきまへんで」
 そのとき、がらがらっと玄関の戸が開き、誰かが家の中へ入ってきた。
「あっ、さっそく来よった。さっき言うたこと、絶対に喋ったらあきまへんで」
 あわてて阪田が立ち上がると、
「先生、例のモノ、手に入れてきましたでーっ」
 野太い声とともに現れたのは、谷ヶ崎だった。白いリネンの上下に、白いシャツ、水色のネクタイが夏らしい。右手にはパナマ帽を持ち、左手には鞄を下げている。
「おお、ご苦労さんだしたな。見つかったんだすか、夏でもみりんを造ってる醸造所が」
 阪田が言うと、
「交遊社の将棋仲間に、伊丹で造り酒屋を経営してはる人がおりましてな。季節外れやけど、ほんの少しならと特別に搾ってくれはったんだす」
 谷ヶ崎はそう応じたのち、鞄の中から、小ぶりの茶筒を取り出した。そして、
「升田君! 伊丹から、今朝の出来たてを、電車を乗り継いで運んできた、お乳だっせ! さあ、ご賞味あれ!」
 と、大声を出しながら筒の蓋を開け、幸三に差し出した。
 幸三が中を覗くと、そこには白い粕のようなものが入っており、甘酒のような匂いを発している。
「これは……?」
 生まれて初めて目にした「お乳」なるものに幸三が戸惑いを隠せないでいると、
「こぼれ梅。関西の伝統のおやつだす。さあ、食べてみなはれ」
 阪田にそう促され、缶の中身をひと摘まみして、幸三は口の中に入れた。
 その直後に、甘い至福が訪れた。白い粕は口の中でとろりと溶けて、ほのかな酔いを残していった。もうひと摘まみ。妙なる甘みが口いっぱいに広がり、幸せの美音を奏でていった。さらにもうひと摘まみ。その甘さはどこまでも優美で、素朴で、可憐で、しとやかだった。軽いのに重くもあり、小さいのに大きくもあり、淡いのに濃くもある。いくつもの豊かな表情を併せ持つ、甘さの宇宙の存在が、そこには感じられるのだ。さらにさらにもうひと摘まみ。もはや、うっとりとしたままの幸三に、
「上品な甘さでっしゃろ。こぼれ梅は、みりんの搾り粕。ほろほろした感じが、梅の花の咲きこぼれる様子に似てるところから、そう名づけられたのや。関西では昔から神社やお寺の参道などで売られててな、僕らは子供の頃からよう買うて食べたものや。ただしアルコールを含んでるから、あまり食べすぎると酔っぱらってまうで、ご用心。ハッハッハー」
 谷ヶ崎が、にこやかに説明した。
「マスやん」
 幸せな顔をした幸三に、阪田が言葉をかけた。
「その縁側でな、小松山はんが大きな足で胡坐をかいて、その上に前向きにわてを座らせて、こぼれ梅をわての頭ごしにしきりに口の中へ放りこんではった。そして時々、わての手のひらにも入れてくれはったのや。ちょうど梅の花が咲きこぼれて、花びらが縁側にも飛んできてふわふわと舞って、口の中いっぱいに甘いのんは、こぼれ梅なのか梅の花びらなのか分からんようになって、振り返ったら小松山はんの浴衣から大きなお乳がはみ出してて、そのお乳はお母たんのお乳とは大きさもかたちもまるで違う何かとくべつなお乳のような感じがして、そのとくべつなお乳から出てくるのがこぼれ梅という甘いお乳なのやないか、このお乳を飲ませてもろてるからわては将棋がぐんぐん強うなってるのやないかと思われたのや。小松山はんのぶっとい足の揺りかごに揺られながら、こぼれ梅のお乳を飲ませてもらいながら、わてはどんどんどんどん将棋が強うなっていく気がしてたし、ほんまにその通りになったのや。こぼれ梅こそ将棋のお乳や。せやからここは、お乳の家なのやで。ええか、マスやん。このお乳の家で、ええ将棋のお乳をいっぱい飲んで、どんどん大きうなんなはれ。ぐんぐん強うなんなはれ。わてのときと同じように、ここがマスやんという将棋指しの、揺籃の地となるのやからな」
 その話を聞くうちに、お乳の家の意味が、幸三は分かってきた。それは「将棋を育てる家」なのだ。
 阪田の希望は、幸三の夢だ。同じ思いに二人が胸をふくらませていると、突然、谷ヶ崎の野太い声が弾けた。
「大変だっせ! 実力制名人戦が始まるそうだっせ!」
 いつもの悠然とした彼に似合わぬ、張りつめた声の響きに、二人はただならぬものを感じ取った。
「実力制名人戦? 何だす、それは?」
 阪田が問うと、
「昨晩、交遊社の将棋サロンに顔を出したとき、噂を耳にしましたのや」
「噂?」
「東京方の関根名人、終生名人制度を廃すると。つまり、自ら名人位を降りるという噂だす。三年後、七十歳を迎えた際に」
「何やて」
「終生名人制度のせいで、長生きした小野名人の跡を継いだとき、自分はすでに五十三歳で、指し盛りをとうに過ぎた名人となっていた。これでは棋道のためならぬ。終生制度は止めるべし、実力制度に変えるべしと」
「どうやって実力を競うんだす?」
「八段全員による総当り戦を二年にわたって行ない、その優勝者を第一期実力制名人にすべしと」
「何やて何やて何やて!」
 阪田のキンキン声が、ますます高くなった。
「八段いうたかて、こちら関西には木見はん一人しかおらんやないか。弱い弱い八段や。さては、関根はん、実力制度にかこつけて、自分の門下から次の名人を出すつもりだんな。つまりは世襲制度と同じやないか。とは言え、土居市太郎はんは確か四十七、金易二郎はんも四十四。二人とも指し盛りを越えてはる……。あっ! 木村がおった! 木村義雄はまだ三十前や! さよか、関根はん、自分の跡を木村に継がせるつもりだんな!」
 キンキン声が、ひときわ高くなった。
「ええか、マスやん! あんさんの敵は、木村に決まりだっせ! 木村は、きっと名人になる! それを引きずり下ろすんは、マスやん、あんさんだっせ!」
 

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