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小説「ノーベル賞を取りなさい」第13話

あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。




 翌日の夜、西新宿の超高層ホテル。その中にある和食店の座敷で清井と向かいあいに座っているのは総長秘書の萩原だった。
 革製のアタッシュケースから分厚い茶封筒を取りだすと、清井はそれを萩原に手渡して言った。
「君の取り分、二百五十万だ。まだ手付の段階なのに、ぽんと五百万も振りこんでくるなんて、気前のいい学校だよ」
 受けとった封筒の中をちらっと覗いた萩原がそれをビジネスバッグに仕舞うと、しばらくしてかすれた声を出した。
「わ、私は、大隈大を裏切ってしまった……」
 その様子を見て
「まあ、飲みなさい」
 と、清井が酌をし
「すべては私に任せてくれればいいんだよ。君は総長にくっついてノーベル経済学賞の会議に臨み、その議事録を携帯メールで私に送るだけ。私はそれを情報整理して自分の携帯から先方の事務長に送るだけ。君の名前はどこにも出てこない」
 慰めるように言った。そして萩原が一気に飲みほすと
「かつては私のゼミ生だった君も、もう三十二歳か。あれから十年が経つんだな。結婚してお子さんも産まれたそうだし、これからはお金がどんどん必要になってくる。教授とちがって秘書の給料は高くない。普通にやってちゃ、いい暮らしはできないよ。愛する家族のためにも、自分の手で幸運をつかまないと」
 と、説得口調で話した。
「先生」
「うん?」
「私に、これ以上は、無理です。良心の呵責に耐えられません。それに、この役目をお引き受けしたのも、学部生時代にお世話になった先生に感謝の気持ちがあったからです。けれども私は汚れたお金など要りません。普通の暮らしができれば満足です。お願いです。ノーベル経済学賞獲得チームの機密を洩らすのは、今回だけにしてください」
 哀願するように言うと、萩原はテーブルに手をつき頭を下げた。
「おいおい」
 清井があわてて言った。
「肝心なのは、二か月後に完成する柏田の論文の入手だ。それさえやってくれれば、あとは私と晴道学園大の教授らでなんとかする。私は大隈大を去り、先方の学長になる。そして君には、報酬として三千万円が支払われる。こんないい話、ないだろう。な、頼む。お願いだ。もう一回だけやってくれ、萩原くん」
 すると萩原は、ビジネスバッグの中から先ほどの茶封筒を取りだ    
し、それを差しだした。
「申し訳ございません。お返しいたします。私が先生の指図を受けたことは誰にも言いません。ですので私が情報漏洩を行なったことも誰にも言わないでください」
 そう言い終えると萩原は立ちあがり
「失礼します」
 と一礼して座敷を出ていった。
 残された清井は苦々しげに唇をゆがめていたが、やがて携帯電話を取りだすと通話ボタンを押した。
「清井です。裏切者が出ました。処置をお願いします」
「裏切者の目的地はどこですか?」
「東武野田線。岩槻駅東口から徒歩七分の自宅です」
「了解しました。ご安心ください」

 ホテルを出た萩原は、新宿駅まで歩き、埼京線に乗った。吊革につかまり、すっかり暗くなった窓外の景色を眺めていると、自宅で待っている妻と娘の顔が浮かんできた。清井の誘いに乗って大金を手にしたらマイホームの頭金にと考えていたが、そろそろ一歳になる娘の無垢な笑顔を思い浮かべると、そんな汚れた父親であってはならないとの意を強くした。
 大宮駅で東武線の急行に乗換え、十分。自宅の賃貸マンションのある岩槻駅に到着した。大勢の乗客とともに電車を降りた萩原は、ホームを歩き、エスカレーターに乗り、駅の構内を歩いてから再びエスカレーターに乗って地上へ降り立った。
 自宅までの道を歩きはじめ、複合ビルの脇を通り抜けて大通りに向かって行くと、異様な光景が飛びこんできた。車道にうつ伏せに倒れている人がいたのだ。ケガ人だろうか、病人か。
 萩原は駆けだした。
「危ないですよ! 大丈夫ですか!」
 大声を出しながら駈けよると、相手を抱きかかえて歩道へ運ぼうとした。するとその人物はくるりと向きなおり、ピエロのメイクをした顔でニヤリと笑い
「バイバーイ」
 と言うや否や、跳ね起きて歩道へ飛び、視界から消えた。
 萩原はいったいなにが起きたのか分からなかった。その思考の空白が命とりになった。
 後方から猛スピードで襲いかかってくる大型トラックから身をかわすチャンスは、すでに失われていた。

          

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