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将棋小説「三と三」・第18話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 十一月二十三日。堂島の社交クラブ・清交社のホールは、大勢の観客たちで溢れかえっていた。
 関西各地の社交クラブから集まった会員たち、将棋大成会大阪支部の関係者たち、それに新聞社の記者たちから成る幾重もの人垣が取り囲んだその中央には、テーブルを挟んで椅子が向かい合わせに設置され、テーブルの上には将棋盤と駒が、椅子には二人の人物が対局開始の時を待っていた。
 金縁の眼鏡の奥から、上目づかいの視線を注いでくる、木村義雄名人。鳳眼に不敵な笑みを浮かべ、それを受けとめている、升田幸三六段。初対面の両者は、目力を交えて、すでに戦いを始めているかのようだ。
 立ち並ぶ人垣の、一番内側の輪の中には、阪田と谷ヶ崎の姿があり、両対局者の様子を熟視している。そうするうちにも、テーブルに着いた記録係の少年が声を発した。
「それでは対局を始めてください。上手、木村名人の先番でお願いいたします」
 礼を交わしたのち、木村、ビシッと3四歩、角の道を開けた。続いて幸三、バシッと2六歩、飛車先の歩を突いた。木村、3二銀と左の銀を上がり、幸三、2五歩とさらに飛車先の歩を伸ばした。
 木村、3三角と守り、幸三、4八銀と右の銀を使う。木村、4四歩と銀の進出を図った次の着手だった、幸三が3六歩と突き出したのは。
 その手を見て、木村の指し手が止まった。意外な一着だったからだ。これによって、自分が指そうとしていた3五歩の伸ばしが不可能になり、得意の「3四銀」の構えを採ることができなくなった。得意戦法を、早々と封じられてしまったのだ。
 この若僧めといった目つきで木村が相手の顔に一瞥をくれると、幸三は涼しげな顔をしている。最前列で見守る阪田は「ほう」という表情だ。
 盤面に視線を戻した木村は、少考ののち、4二飛と飛車を四間に振った。幸三すかさず1六歩と、相手の弱点である端の歩を突く。木村が1四歩と突き返したのを見て、幸三は5六歩と右銀の進路を作った。
 その後は互いに玉の守りに移り、木村は片美濃囲い、幸三は舟囲いの陣容へ。木村が7二銀と玉の脇を固めるのを見て、幸三、7六歩と、ここで初めて角道を開けた。それまで眠っていた角が、ようやく目を開いたのだ。そして木村が4三銀、幸三が5八金右と、それぞれ金駒を動かしたのち、木村の指した次の手は6四歩。玉の守りをさらに拡充しようとした歩突きだが、これぞ幸三の待っていた手であった。
 自陣の角を指で摘まむと、幸三はそれを将棋盤のど真ん中、5五の桝目の中へ、バッシーンと打ち下ろした。今しがた木村が突いた6四の歩を、取ってやるぞと角が躍り出たのである。
 その角を見て、木村の動きが止まった。三十四歳の名人は、生まれてこのかた、こんな手を見たことがなかった。なぜならば、これこそ幸三が、この勝負のために用意してきた新手だったからだ。
 盤面を見つめて凝固したままの木村の頭越しに、幸三の視線が、観客たちの中の阪田の視線とつながった。老師は、笑みを浮かべて頷いた。
 長考ののち、木村はやっと着手した。6三銀。取られそうな歩を銀を上がって守ったのだが、その銀はそれまで玉の脇を固めていた銀だ。この瞬間、木村の玉の守りは非常に弱くなった。
 その応手に、間髪を容れず、3七角。幸三は角を右辺へ引いた。八手目に指した3六歩は、木村得意の「3四銀」型を実現不能にしたばかりではなく、敵陣を攻略するための、角の引き場所をも作り出していたのである。この、流れるような駒の連携もまた、幸三の研究の成果だったのだ。
 木村、7二金と、玉の守りを固め直したが、自陣を強化する幸三の7七銀に対し、5二金と、もうひとつ守りの手を要した。
 それを見て、1五歩と、ついに幸三は攻撃を開始した。歩の交換から香車を走り、飛車をも攻め駒に加えて、敵陣を端から食い破るのに、さして時間はかからなかった。

「そろそろ、行きまひょか」
 視線を盤上から谷ヶ崎の顔へ移し、阪田が言った。
「えっ? 将棋はまだ中盤戦ですよ。先生、勝負がつくまで観ないんでっか?」
 谷ヶ崎が問うと、
「勝負はもう、ついておます。こないに差が開いてもうたら、将棋はもう終わりだす」
 そう答えると、阪田は観客たちの隙間を縫って出口の方へ歩いていった。あわてて谷ヶ崎が後を追う。大きな体で人混みをかき分けながら。
「大したやっちゃ、マスやんは。あないな新手、わてにはよう思い浮かばへん。ほんまもんの天才や。ほんまもんの天才や。ほんまもんの天才や……」
 ホールを出て歩き進む阪田の顔は、笑みでクシャクシャになっていた。

 盤上の勝負は、終盤戦を迎えていた。
 端を破られ、飛車も角も動きを封じられて苦戦の木村は、その角を相手の銀と刺し違え、手にした銀を5六の桝目に打って敵の玉の守りの金を攻めにきた。
 この手に対し、7七の桝目へ金を逃がせば明らかに安全勝ちなのだが、そこは若き闘志が許さない。あくまでも攻め倒して勝たねば気が済まない幸三は、相手陣に飛車を成りこませた。
 それを見て、木村、銀で金を取り、自陣に押さえつけられていた飛車を攻めに活かそうと2四の桝目へさばいた。幸三、その飛車の成りこみを防いで2六歩と打つ。
 木村、相手の玉の守りをさらに薄くしようと、6六の桝目に香車を打ちこむ。幸三、構うものかと、敵陣深く5一の桝目に角を打ちこんだ。一気に相手の玉を寄せようとするその角は、敵の飛車取りにもなっている。
 そのとき、金縁眼鏡の奥の、木村の目が光った。すばやく香車で相手の金を王手で取ると、同じく玉の応手に対して、自陣の4二の桝目に守りの歩を打ったのだ。
 この手を、幸三は見落としていた。もしも同じく竜と、この歩を取れば、先ほど5一に打った角の利き筋が遮られ相手の飛車が安全になると同時に、6一に金を打たれて肝心の角を取られてしまう。この局面で角を相手に渡しては、自分の玉が危ない。
 憎き木村だが、さすがは名人だと思った。もしも自分が一手でも誤れば、逆転する形に、いつの間にか持ちこまれている。十手前に5六銀と打たれたとき、やはり7七金と逃げておくべきだったか。それなら何の問題も起こらなかったのに、血気に逸って攻め急いでしまった。大観衆の見守る中、格好をつけて、危ない橋を渡ってしまった。後悔と焦りが、幸三を責め苛む。 
 やむを得ず、4二の歩を角を成って取ったが、その直後に1一歩と竜の頭に歩を打たれ、同じく竜と位置を変えられて、木村の玉は安全度が増した。それから飛車を2四から5四の桝目に転回され、幸三の玉にじわじわと危機が迫ってきた。
 ええい、ままよと、自陣にいた幸三の角が相手の歩を取って8四の桝目へ飛び出したのは、そのときだった。1一にいる竜と連携して相手の王を寄せてしまおうという手だが、ここで木村は8三歩と攻めを催促してくるだろうと幸三は読んでいた。そこで誘いに乗って9三銀と打ちこむと、相手の玉は詰まず、こっちの負けになってしまうので、じっと3九の桝目へ角を引いておく。そうすれば木村は7五歩と突いて、角の利きを遮断してくるだろう。それからどうするかは、その局面になって、じっくり考えるつもりだった。
 ところが木村の指した手は、8三歩ではなく、守りの金を幸三の角にぶつける7三金左だった。より強い姿勢で守備に出た手だが、その着手を見たとたん、幸三は不思議な感覚にとらわれた。
 なぜならば、その手は自分の読み筋のひとつであり、もしもそう指したら、次の手によって、木村の玉は受け無しに陥ってしまうからだった。
 幸三は盤から目を離し、上を向いて深呼吸をした。それから再び盤上に目をやると、局面は依然として自分の勝ち筋に入っている。木村ほどの名人上手が、いったいこのような大失着を指すものだろうか。それとも、無敵名人とは言え生身の人間、見落としだってあるのだろうか。そうかもしれない。いや、きっとそうに違いない。幸三はそう思うことに決めた。そうして駒台に手を伸ばすと、指で桂馬を摘まみ、8四の角のすぐ後ろ、8五の桝目の中へ、気合をこめて叩きこんだ。
「あっ」
 木村の口から、声がもれた。やはり見落としだったのだ。7三の金で角を取れば、7三に銀を打ちこんで木村の玉は詰み。かと言って、受けるすべもない。
 それからの木村の指し手は、悔し紛れと言うほかはない。相手の玉に、王手をかけ続けただけ。最終手、幸三の7一竜を見て、ようやく木村は投了した。
「まで、百十四手にて升田六段の勝ちでございます」
 記録係のその声に、ホールの大観衆が拍手をし、歓声を上げた。
「升田幸三、日本一!」
「無敵木村を粉砕だーっ!」
「関西棋界、バンザーイッ!」
 それらの声に、木村は不機嫌な顔になり、
「負けたといっても、たかが座興の駒落将棋じゃないか」
 と、吐き捨てるように言った。
 それを聞き、
「負け惜しみ、言うなっ!」
 と、幸三が声を張り上げた。
「名人に向かってその口の利き方は何だ! 六段の分際で!」
 そう言って木村が椅子から立ち上がると、
「その名人位、すぐに奪い取ってやるわい!」
 応戦して、幸三も立ち上がった。
 超満員のホールのど真ん中で、二人の勝負師は、ずっと睨み合っていた。
 


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