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小説「サムエルソンと居酒屋で」第4話

 毛利、石原と別れたのち、留美、英也、実花子の三人は、大学の正門近くにある停留所からバスに乗り、高田馬場駅へ向かった。歩けば三十分ほどかかる距離を、五分で運んでくれるこの学バスは、運賃六十円。地下鉄東西線と並ぶ、大隈大生の貴重な足だ。
 座席から窓外の景色を眺める、実花子。その後方の席で、留美が隣の英也に言った。
「馬場の栄通りにね、私の行きつけの飲み屋があるの。小さな店だから学生客が集まってバカ騒ぎすることもないし、勉強するにはいいかも。五時開店だから、もうやってるよ」
 それを聞くと、英也はジーンズの尻ポケットから財布を取りだし、そこから一万円札と五千円札を抜いて留美に差しだした。
「三人の飲み代と、残りは授業料。これでお金のやりとりについてもチャラになったね」
 英也の言葉に
「まいどー」
 と、紙幣を受けとりながら、うれしそうに留美が応じた。

 高田馬場駅に着き、バスを降りた三人は、電車のガードをくぐり抜け、栄通りの入口に立った。何十もの飲食店や風俗店がひしめく猥雑な商店街を、まっすぐ進んだり、くねくね曲がったり、留美に導かれて歩いていくと、ぽつんと小さな店があった。
 赤ちょうちんには「居酒屋」の三文字、白いのれんには「ほそぼそ」の四文字が見える。入口の戸をガラガラッと引き開けて留美が店内に入ると
「いらっしゃい! ミニスカ雀姫の留美ちゃん! 本日は早いお越しで!」
 威勢のいい声がした。
 続いて英也と実花子も足を踏み入れると
「いらっしゃい! 留美ちゃんのお友だち! ようこそ、ほそぼそへ!」
 ねじり鉢巻きをした店主らしき四十年配の男が、再び、はつらつとした口調で言った。
「マスター。私の学友の瀬川くんと、はるばる神田から山内さん。今日はね、学問をしに来たの。カウンターの上に分厚い教科書を広げても、いい? 邪魔にならない?」
 二人を紹介しながら、留美がそう訊くと
「もちろんオーケー、学生さんの本分だ。その教科書は『麻雀経済学』かい?」
 店主がそう返したので、三人は思わず笑ってしまった。
 店内に、まだ客は誰もいなかった。テーブル席はなく、カウンターに十脚ほどの椅子が並べてあるだけ。小さくて、とても細長いつくりの店だ。
 そのカウンターの奥から三番目の席より、英也、実花子、留美の順に腰かけると、熱いおしぼりの入った袋を三人に手渡しながら
「ご覧のように、ほそぼそとした店。皆さま方のご愛顧のおかげで、なんとかほそぼそとやってますよ」
 愛想よく笑って、店主が言った。その向こうで、お通しの準備をしている三十代半ばの女性は、彼の配偶者らしい。
「何にする?」
 英也がそう訊くと
「最初はビールですよね」
 と実花子が答えたので
「ビール一本とグラスを二つください」
 と注文をした。
 続いて留美が
「私、いつものやつ」
 と告げると
「まいど! ビールの大にグラスが二つ、ウイスキーのオンザロック、ダブルね!」
 景気のいい店主の声が響き渡り、やがて三人の目の前に飲み物が運ばれてきた。そして乾杯の準備が整うと
「あ、ちょっと待ってください」
 実花子がそう言い、バッグからサムエルソンの本を取りだしてカウンターの上に置き、最初のほうのページを開いて、こう話した。
「この本の序文は、すてきな言葉で結ばれているんです。『経済学という興味のつきない世界を初めて探検しようとする読者を、私はうらやましく思う。残念なことに、それは誰も二度は経験できない感動である。今やその探検を始めようとするあなたに、ここに乾杯の挨拶だけをさせていただきたい』。どうです? 気の利いたフレーズでしょう?」
 そこで留美が
「ありがとう、サムエルソン教授! では、経済学に乾杯!」
 と発声し、高く掲げたグラスを三人は合わせた。
 そうするうちにも酒は進み
「日本酒はお燗もいいけど、やっぱり冷やがおいしいにゃ」
 と、たこわさを肴に、実花子はグラスでぐいぐい酒を飲んでいる。
 留美は無言で、ピーナッツをぽりぽり齧りながら、ウイスキーのオンザロックの三杯目を啜っている最中だ。
 酒があまり飲めない英也は、ひたすら食べようと、鶏の唐揚げやホッケ焼きなどを注文して頬張っていたが
「酔ってしまわないうちに、そろそろ勉強を始めようか」
 と、二人に促した。すると実花子がサムエルソンのページをめくり、そこにある二行を読んだ。
「政治経済学は決して平易な主題ではない。けだるいような夏の午後にハンモックに横になって読むというわけにはいかないのである」
 そして
「でも、居酒屋で飲みながら読むというわけにはいかないのである、とはサムエルソンは書いていないので安心しました。それではさっそく、よろしくお願いいたします。上条先生、ここのところを、ぜひご教授ください」
 そう言うと、実花子は留美にお辞儀をしてから問題のページを開いた。そして再び話し始めた。
「第二章『あらゆる経済社会の中心的な諸問題』の最後のページに並んだ『討議のための例題』の中のひとつです。『土地が段階的に増加できたとし、労働を不変とした場合、収穫逓減の法則は当てはまるであろうか。具体的に例示をし、事実それが当てはまるというなら、その根拠を示せ』。この例題が、私にはさっぱり分からないんです」
 それを聞いていた留美は、煙草を一本吸い終えると
「ボールペンとノート、貸して」
 と実花子に命じ、それらを受けとると、さらさらと何かを描き始めた。まず縦線と横線から成る座標軸を引いた。原点には「O」と記し、縦軸の上には「生産物」、横軸の右には「土地」と書いた。続いて縦軸上に設けた点「H」から右下がりの斜線を引き、それから横軸上に二つの点「M」と「L」を設け、それぞれから垂線を引いた。先ほど引いた斜線と「M」からの垂線との交点に「F」、「L」からの垂線との交点に「E」と記すと、最後に「E」から水平方向に縦軸と交わる直線を引き、その交点に「G」と記して、グラフの作成が終わった。
 ノートをサムエルソンの本の上に置き、実花子によく見えるよう配慮しながら、留美はボールペンを使って説明を始めた。
「まず現在の土地の大きさを『OM』とするわね。そうすると追加的な収穫はいくらになるかしら?」
 グラフに思考を集中しながら、実花子が答えた。
「Mと斜線の交点Fとの距離、『MF』です」
「そう、正解。じゃあこんどは土地の大きさを増やして『OL』としましょう。こんどの追加的な収穫は、いくら?」
「Lと斜線の交点Eとの距離、『LE』です」
「うん、正解。それでは『MF』が『LE』になったということは、収穫は増えていますか? 減っていますか?」
「減っています。斜線との交点までの直線の距離が短くなっているから」
「はい、大正解。土地を段階的に増加できた場合にも、収穫逓減の法則が当てはまるって事実が、これで示せたわね」
 そう言って、留美は微笑んだ。
「すごい! あんなに頭を悩ませた問題が、こんなに簡単に!」
 驚く実花子に
「こうしてグラフを描く習慣を身につければ、経済学は易しくなるわよ。ちなみに土地を増加したこのケースの地代総額は『OLEG』で囲った四角形、労働者の賃金は『GEH』で囲った三角形の面積で表されます」
 そう締めくくって、ボールペンとノートを実花子に返すと、グラスをつかみ、留美はウイスキーをひとくち啜った。その隣で
「ふえーっ」
 と実花子。
「さすがは大隈大政経学部長のお嬢さんで、帝都大の文一を蹴ってきた上条先生ですね」
 その言葉に
「名前で呼んでいいわよ。私もそうするから」
 留美がそう言ったので
「これから毎週金曜日のこの時間、ここのお店でサムエルソンを教えていただいてもいいですか、留美さん?」
 と、さっそく実花子。
「いいわよ、実花子ちゃん」
 留美もフレンドリーに答え
「そちらに座っている男子学生には、先生の大役は荷が重すぎるでしょうからね。試験のたびに『お願い』と称して、校歌の歌詞を一番から三番まで答案用紙に書き連ねて、なんとか単位をもらってる不届きな学生くんには」
 英也に向かって、悪戯っぽく言った。
「おいおい、留美」
 不届きな学生が反論をする。
「あのな、『お願い』は大隈大政経学部に古くから伝わる模範解答であり、学生文化なんだぞ。ほかの連中もやってるぜ。毛利だって、石原だって」
 それを聞き
「そのうち『お願いされても困ります。不可!』なんて反応をする教授が現れないことを心からお祈りしてるわね」
 と留美が返したので、実花子は大笑い。
いつの間にか店内は混んでいる。時計を見ると、八時前だ。
すると
「私、そろそろ寮に帰らなくちゃ」
 と実花子。
「寮はどこにあるの?」
 英也の問いに
「杉並区です。阿佐ヶ谷駅から歩いて二十分くらい。かなり歩くので、門限に間に合うためには早目に出たほうが……」
「門限って、何時?」
 留美が訊くと
「九時です」
 実花子が答えた。
「九時? そんなに早いの?」
「ええ。ほんのちょっとでも遅れると、大変なことになってしまうんです。一週間の外出禁止で、その期間中は学校へも行けないし、実家の親にも門限破りの通知が行くという罰則が……」
「なんで?」
「守るためです」
「なにを?」
「乙女の純潔」
「ぶっ」
 と、その答に留美が口からウイスキーを噴きだした。
「留美さんは純潔ではないんですか?」
「あんなもの、とっくの昔にくれちゃったよ、高校の先輩に」
「……」
「ま、それは個人の自由だけどさ。じゃ、そろそろ行こうか。地下鉄乗って、中野経由で。私、吉祥寺だから、阿佐ヶ谷駅までは一緒だね。瀬川くんも同行だよ。実花子ちゃんを、駅から寮まで送ってあげて」
 留美はそう言うと、ウイスキーの残りを飲みほした。
 
 中央線の電車内で留美と別れたのち、二人は阿佐ヶ谷駅の南口を出て歩き始めた。実花子が半歩先を進み、英也は歩調を合わせてそれに続いていく。駅の近くなので、人通りが多い。
「いやー、実花子ちゃんがあんなに熱心にサムエルソンを勉強しているとは思わなかったよ。昨日の午後に本を手に入れたばかりなのに、もう第二章までマスターしてるだなんて驚いちゃった」
 英也が言うと
「それもこれも、あの神保町の古本屋さんで、瀬川さんと出会えたおかげです。そうでなかったら、私はまだこの教科書の素晴らしさを知らずにいたことでしょう。瀬川さんに上下巻を千円で譲っていただいたからこそ、こうして本気で経済学に取りくむ気持ちになれたんです」
 実花子はそう答え、英也の顔を見てにっこり笑った。
「実はね」
 英也がさらに言った。
「僕はいま、恥ずかしい気持ちでいっぱいなんだ。君はあの例題について、留美とのやりとりにきちんと応じたのに、この僕ときたら収穫逓減の法則という経済学用語すら知らなかった。政経学部の二年生なのに、家政学部の一年生にすっかり遅れをとってしまっていることに、少なからずショックを受けたんだ。だから……」
「だから?」
「僕も勉強することに決めた。どこかの古本屋で、もう一度あの本を買って、じっくりと読んで、次回からは僕も一緒に経済学を学ぶことにするよ」
「やったー」
 実花子が嬉しそうに言った。
「これで先生が一人に、生徒が二人。ちょっとした学校ですよね。サムエルソン学校かな」
「サムエルソン大学ほそぼそ分校だ」
 英也の返事に
「あははははー」
 と実花子。
 街の明かりが遠のくにつれ、夜道はずいぶん暗くなってきた。女性の一人歩きはかなり危険だなと、英也が腕時計を見ると、針は八時五十分を指している。これが最後の会話のチャンスになるだろうと考え、英也は口を開いた。  
「どうしてそんなに、君は経済学の勉強に一生懸命なの? 初めて会ったときから、ずっと思っていたんだけど」
 すると、実花子が急に黙りこんだ。先ほどまでは饒舌だったのに、口を閉じたまま歩き続けている。一分が経ち、二分、三分……。しまった、失言だったか、と英也が後悔したそのとき、実花子の静かな声が聞こえた。
「父への抵抗です。私が経済学を学ぶのは」
 その語調に、どこか毅然とした響きを感じとった英也は
「お父さんへの抵抗? どういうこと?」
 と訊いてみたが、返ってきた言葉は
「寮は、すぐそこです。送っていただいて、どうもありがとうございました」
 というものだった。
 英也にぺこりとお辞儀をすると、前方に見える明るい建物に向かって、実花子は小走りに駆けていった。


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