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小説「ノーベル賞を取りなさい」第16話

あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。




 それから数日後。留美の使いで新宿区役所まで出かけた亜理紗が総長室へ戻ってくると、ドアのそばに黒い物が落ちていた。近よって見るとペンケースで、六角形の白いロゴマークが付いている。それを拾うと、亜理紗はドアを開け、部屋に入っていった。
「お疲れ様。混んでたでしょう、区役所」
 留美のねぎらいの言葉に
「ええ。でもスマホで読書してたら、すぐに順番が来ました」
 そう答えた亜理紗は留美のデスクに近づき、ペンケースを差しだして告げた。
「いま帰ってきたら、ドアの向こうに、これが。誰かの落とし物でしょうか?」
 黒いペンケースを受けとった留美は
「モンブランのロゴね。開けてみましょう」
 と言い、中に入っている黒い万年筆とボールペンを抜きだした。そして二本のペンを観察したのち
「どちらにも『清井亮一』の名入れがしてあるわ。亜理紗ちゃんが出かけたあと、主任教授の清井さんがやってきて、研究費の申請について話をしたの。そのときの落とし物よ、きっと」
 と断定した。
「主任教授の清井先生ですね。私、これから届けてきます。大事な物を失くしてお困りでしょうから」
 亜理紗の言葉に
「清井さんの研究室は三号館の五階よ。外から帰ってきたばかりなのに、たいへんね」
 と留美。
「いえ、全然。まいにち空手道場で鍛えてますから」
 そう返事をすると、ペンケースを手にした亜理紗はドアを開けて出ていった。

「あ! あった! 部屋の中を探し回っても見つからなくて弱ってたんです! まさか総長室の前に落としていたとは! ありがとうございます! 何十年も愛用してきた宝物なんです! ほんとうにほんとうにありがとうございます!」
 三号館の研究室を訪れた亜理紗がペンケースを差しだすと、清井は大仰に喜びと感謝の意を述べた。
「総長の秘書の方ですね。いつだったかソバ屋さんでごいっしょのところをお見かけしたことがあります。お名前はなんと?」
「オルソン亜理紗と申します。交通事故でお亡くなりになった萩原さんの後任です」
「そうでしたか。あの事故は悲惨でした。ひき逃げで、まだ犯人は捕まっていないそうだし、残された奥様とまだ幼いお嬢様のことを思うと胸が潰れそうになります」
「ほんとうに、そう思います。でも私にできるのは、後任の秘書として萩原さんの分まで頑張っていくことだけです」
「おお、なんという殊勝な心がけ。あなたのような方が総長にお仕えしているだけで大隈大は安泰です。なにはともあれ、モンブランを見つけて届けにきてくださったことに、お礼をしなくては」
「お礼など結構です。私は当たり前のことをしただけですから。万年筆とボールペン、これからも大事に使ってくださいね。それでは失礼いたします」
 そう言うと、亜理紗はドアを開けて出ていった。

 一週間後。勤務を終え、九段下の究心館空手道場で稽古に励んだ亜理紗は、西武新宿線鷺ノ宮駅から歩いて五分の賃貸マンションに帰ってきた。エントランスのメールボックスを開けると、宅配ロッカーに荷物を配達済みとの連絡票が入っていた。そこでロッカーを開くと、届いていたのは厳重に包装された荷物で、かなり重い。表面に貼られた送り状を見ると、依頼主の欄に「清井亮一」、品名の欄には「額縁」と記入され「ワレモノ」の文字がペンで囲んである。
 部屋に入り、さっそく梱包を解いていくと、緩衝材の中から出てきたのは、額装された木版画だった。縦三十センチ、横四十センチほどもある額縁に収められたその刷り物は、自分がこよなく愛する「源氏物語」五十四帖のうちの一つ、第三十二帖「梅枝」を描いたものだった。古い和紙に墨一色で刷られたその木版画をじっと見つめているうちに、いつしか亜理紗は自分が平安貴族の日々に溶けこんでいくような感覚にとらわれた。学部生時代に夢中になって読みかえした、美しすぎる恋愛小説「源氏物語」。その「梅枝」の「薫物合せ」で交わされる歌が、知らず知らず口をついて出る。
 
 「花の香は散りにし枝にとまらねど うつらむ袖に浅くしまめや
  花の枝にいとど心をしむるかな 人のとがめむ香をばつつめど」
 
 そのとき、マンションの近くを走る電車の音でハッと我に返った亜理紗は、額縁に同梱されている封筒の存在に気づいた。手にとって見ると、表に「オルソン亜理紗様」、裏に「清井亮一」と記してある。かなりの達筆だ。開封すると、中から三枚の便箋が出てきた。
「前略
 先日は大変有難う御座いました。今こうして御礼の手紙を書くことができるのも、オルソン様がペンを見つけ届けて下さった御陰に他なりません。
 御礼をと申し上げた際、オルソン様は御遠慮なさいましたが、どうしても感謝の意を形にして差し上げたいという私の思いは日増しに強くなり、大変失礼ながら教務部にてオルソン様の卒業論文について調べさせていただいたところ、源氏物語に関する御研究をテーマになさっていることを知りました。
 経済学一筋に生きてきた無粋な私には、源氏物語に関わる御進物に、どういう物がふさわしいのか全く分かりません。そこで、昨今よく耳にするフリマサービスなるものを利用することを思いつき、テレビの広告でも有名な「ミルカイ」というサイトを検索したところ、この木版画を見つけた次第です。
 商品の説明を読むと、江戸時代前期(一六六〇年、万治三年)の物だそうで、源氏物語の第三十二帖の「梅枝」の巻、香道の薫物合わせを描いた絵だそうですが、これはオルソン様の御専門、釈迦に説法で、無知なる私がこれ以上述べるのは憚られます。
 どうぞ御部屋に飾られ、平安の気分を御楽しみ頂ければ、私としてもこれに勝る喜びは御座いません。なお、オルソン様の御住所を人事部にて尋ねました無礼を御許し下さい。                   草々」           
 手紙を読み終えた亜理紗は、スマホを手にとると「ミルカイ」のアプリを起動し、検索ボックスに「源氏物語 木版画」と打ちこんだ。すると手元にある額装品の写真が「SOLD O U T 」の赤いマーク付きで現われ、その値段は三十万円と記されていた。
 ただペンケースを拾って届けてあげただけなのに、こんなに高価な物を送ってくるなんて……。いけない。受けとってはいけない。私はなにかが欲しくて親切をしたわけではない。困っている人のことを思ったら、ごく自然に体が動いただけだ。それは、人間として当然のことだろう。
 でも、私はこれが欲しい。受けとって、自分の物にしたい。壁に飾って、一日中でも眺めていたい。だって、これは私が愛する日本文学の、最高傑作の一部を絵にしたものなのだから。
 いけない……欲しい……いけない……欲しい……。悶々として眠れぬ夜を過ごした亜理紗は、留美の判断を仰ごうと決めた。

「もらっときなさいよ、くれると言うんだから」
 翌朝、亜理紗の相談を受けた留美は、開口一番そう答えた。
「でも、三十万円もする品を……」
 ためらう亜理紗に
「清井さんの年収がいくらか、知ってる? その木版画の百倍近くよ。ろくに仕事もしないくせにね。それと、あなたからお礼の手紙を書いたりしなくてもいいわよ。慇懃無礼な主任教授を相手に面倒でしょ。私から話をしといてあげるから、大丈夫」

           

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