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将棋小説「三と三」・第4話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 停留場から東へ伸びる道を、二人は歩き始めた。道の幅は狭く、両側にはくすんだ木造の建物が軒を連ねている。それらの多くは格子造りで、張り出しを設けた二階家だが、中には大きな丸窓をしつらえた広い構えであったり、破風に装飾を施した屋根や、ひょこんと空へ突き出した高楼もある。
 だが、家々の戸は締めきられ、音も動きも人の気配もなく、午後の日差しに、寂れてうらぶれた姿ばかりを晒している。ここは何かの遺構だろうかと、幸三は思った。
「遊廓の跡だす」
 半歩ほど先を歩きながら、阪田が言った。
「鎌倉の世から栄えたとも伝えられる遊里でしてな。わてが子供の頃は、綺麗にお化粧をして艶やかに着飾った、ええ匂いの女子はんたちがようけいたもんやけど……」
 振り向いて、翁は話し続けた。
「これも時代の流れっちゅうもんですかいな。南海鉄道が海沿いに和歌山まで線路を延ばしてからは、それまでのお客が龍神や栄橋、さらには飛田遊廓の方にまで移ってもうて、ここはすっかり取り残されたんだすな……」
 案内を聞きながら駅から五、六分ほどを歩いただろうか、歴史の遺物と化した朽ちた軒並みが途絶えると、目の前に寺が現れた。
「臨江寺だす。入ってみまひょ」
 阪田の後について、幸三は寺の門をくぐった。蝉しぐれを浴びながら境内を歩くと、こんもりと生い茂った萩の緑の連なりの中、いくつもの墓石や供養塔が並んでいる。苔むし、ひび割れたそれらの一つ一つに目をやりながら進んでいくと、小さな祠があった。
 そこには御神体と思しき石が祀られており、手前の碑文には「乳守明神社」と刻まれている。
 それを見て、幸三はピンときた。そして言った。
「ははあ、分かった。ここは母乳の出ない女性が祈願をすると出るようになる、チチモリの明神様というわけでしょう。となると、これにちなんで先生が名づけたお乳の家とやらも、ここからそう遠くはなさそうですね」
 したり顔の幸三に、阪田は言葉を返した。
「残念やけど、今のは百点満点の五十点くらいの答でんな。わての命名は、そないに単純なもんやあらしまへんで。だいいち、乳守はチチモリやのうてチモリと読みますのや。先ほど通ってきた遊廓もチモリユウカク言いますねん。せやけど、願ったらお乳が出るよう
になることと、ここから家が近いことだけは正解だっせ。ほなら、行きまひょか」
 二人は寺の境内を出た。
 そうして二、三分ほど歩いていくと、目の前に草むらが広がっており、茫々たる緑の中に、ぽつんと平屋が建っていた。周囲には何もない、文字通りの一軒家だ。
 幸三が近づいて、見ると、かなりの歳月を経た家であることが窺えた。瓦葺きの屋根を頂いた、木と土壁造りの小さな拵えだが、それよりも目を引いたのは、家の南側に陣取る異形の樹木だった。
 緑葉を巻きつけて空へ曲がり出た枝先は屋根に届くかどうかの高さだが、あちこちが苔むした太い幹は中ほどから大きく割れ裂けており、たくさんの枝と一緒になって這うように草むらに足を広げたその姿は、まるで緑と茶色のウロコを着た何匹もの蛇がくねくねと絡み合っているかのようだ。
「梅の木だす」
 阪田が口を開いた。
「臥竜梅いう姿かたちでな。春になると薄い紅色の花を咲かせますのやで。樹齢は、そうやな、たぶん百歳くらいにはなるんやないかな。家のほうは、まだ六十の半ば。わてと、ちょうど同じくらいの年齢だす。さあ、中へ入りまひょ」
 その言葉に従い、梅の古木を迂回して家の北側へ行くと、玄関と思しき引戸があった。阪田は巾着袋の中からごそごそ鍵を取り出すと、がちゃがちゃと錠を外し、がらがらっと左へ戸を引き開けた。沓脱石にそれぞれの下駄を脱ぐと、二人は板敷に上がった。
 暗がりの屋内へ入った阪田は、畳を踏みながら進み、襖を左右に開いた。さらにまた畳の上を歩くと、こんどは右手の障子を開き、板敷へ出た。それから無双窓の閉じた雨戸を右方向へごろごろっと滑らせていき、戸袋の中へ収納した。パーッと差しこんできた夏の光が、家の中を輝きで満たし、いきなりの眩しさに手をかざしながら幸三も畳の上を歩き進んだ。
 仕舞われた雨戸に続いて、もう片側の雨戸も収納が終わり、家内はすっかり戸外と同じ明るさになった。幸三があらためて見回すと六畳の間が二つ襖ごしに並んでおり、障子で仕切られた西側には、三間半、南側には二間の長さで縁側が設けられ、二つの和室を抱えこむように直角につながっている。
 入ってきた玄関口の右手には炊事場が、左手には厠がある。風呂はなく、押入れや物入れなども含めて、せいぜい二十坪くらいの家だ。天井や壁や柱などの主だった構造物に築六十余年という劣化は隠せないものの、合計十二枚の畳は青々とした新品だし、板敷などもきれいに掃除されている。古い家に新しい息吹をもたらそうという、阪田と谷ヶ崎の思いがはっきりと感じ取れた。
 南側の押入れの傍らには、厚さが七寸ほどもありそうな将棋盤が桐の覆い箱を被せて置かれ、その上には桑の駒箱が乗っている。盤の周囲には茶色い座布団が三枚、これも新品のようでふっくらとして並んでいる。北側の間の壁には小ぶりの家には似合わない大きな振り子時計が掛けられ、二本の針が指し示しているのは、ちょうど午後四時だ。
 草むらの一軒家が幸いして、陽当たりや風通しが素晴らしい。太陽はすでに西の縁側の上空にあるのだが、同じ方角に広がっているのであろう大阪湾から、心地よい海風が吹いてきて、夏の暑さを忘れさせてくれるのだ。
「光と風の家」なら頷けるのだが、どうしてここが「お乳の家」なのだろう? 幸三は、またもや疑問を抱いた。そのとき、阪田が座布団を二枚、南の縁側のほうの畳に並べて敷いた。
「まあ、座んなはれ」
 そう言うと、翁は左の座布団に正座をした。それを見て、幸三が右の座布団に同じく正座をすると、
「そこ」
 幸三の目の前の板敷のあたりを、彼は指差した。
「え……?」
「そこんとこ、へこんでますやろ」
 阪田はそう言うのだが、幸三には平らに見える。黙っていると、
「分かりまへんでっか。ほなら歩いてみなはれ」
 そう促され、座布団から立ち上がり、幸三は縁側を左から右へと歩いてみた。すると、どうだろう。指摘された箇所が足の裏できしむのが感じられた。こんどは右から左へと縁側を歩いてみた。やはりその箇所で、板敷がキシキシする。両足でそこを交互に踏んでみると、ミシミシする。
「ここだけ傷んでいるようですね」
 立ったまま、そう告げると
「四十貫の重みだす」
 阪田が応じた。
「四十貫……?」
「そうだす。四十貫もあるお相撲取りが、いつもそこに座っていたんだす。まあ、あんさんも座んなはれ」
 幸三が再び座布団に正座をすると、縁側に視線を落としたまま、阪田は話し始めた。
「もう、五十年以上も昔のこと。この家には、小松山という四股名の関取りが、遊郭のおかみさんと二人で暮らしていやはったのや。将棋の大好きなお人でな。まだ十二か十三くらいの子供やったわてを、しょっちゅうこの家へ招いては、縁側に薄い板盤を挟んで差し向かいに座らせ、将棋を指していたんだす。身の丈が六尺を超え、目方が四十貫もある小松山はんがいつも座っていたんが、そこの場所なのや。せやから、へこんで、キシキシするし、ミシミシいうわけや」
 縁側の一点を見つめながら、翁は話し続ける。
「子供とは言え、当時のわてはもう初段くらいに行ってたさかい、勝負にはならへん。小松山はんは負けてばかりや。負けては、ギリギリと歯ぎしりをして悔しがり、また指しては負け、ギリギリ歯ぎしりの繰り返しやな。その様子に、おかみさんまでヤキモキして、お前がきて将棋が始まるたんびにこっちまでイライラする、肩がこる、病気になるいうて腹を立てはるんやが、小松山はんは、構うもんか、負けてもこんなに面白いものはないと、わてを庇うてくれ、盛んに二人で指したもんや」
 話をする三吉の顔がだんだんと空を向き、遠くを見つめるような眼差しになっている。その目には、半世紀前の光景が映っているのだろうか。
 関西棋界の第一人者であるこの名人は、先々月に六十五歳になったと聞く。その十二、三歳の頃といえば、明治十五、六年の昔になる。訪れる客たち、迎える遊女たちで、賑わいを見せていたという乳守の廓。そのほとりに建つこの家に、巨体の力士が住み、縁側にでんと座って、豆粒のように小さな子供を相手に、来る日も来る日も切歯扼腕しながら将棋を指していた。その微笑ましい数刻を、あの梅の木もまた、今よりもはるかに若々しい枝姿をして、じっと見守っていたのだろうか。
「さんざん指して、さんざん負けて、さんざん歯ぎしりをして悔しがった後、夕飯どきになると、小松山はんはわてに御馳走を出してくれはった。せやけど、わては少しだけ食べて、残りを包んでもろうた。家でひもじい思いをしている妹たちに、持って帰って喜んでもらおう思うてな。いつも、いつも、そうしてた……」
 阪田の顔が、幸三へ向いた。
 そして口から、ぽつりと言葉をこぼした。
「わてはな、貧乏の底から、将棋に乗っかって浮かび上がってきましたんや……」


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