見出し画像

小説「ころがる彼女」・第9話

 翌日の昼過ぎ、インターホンが鳴った。
 通話ボタンを押すと、聞こえてきたのは
「ごめんください、西原です」
 という弓子の声。
 玄関へ行き、ドアを開けると、彼女の姿があった。その手には、本を持っている。
「あ、こんにちは。昨日はお付き合いいただき、どうもありがとうございました」
 邦春が言うと、
「スマホの解説書が家にあったので、お持ちしました。私が今の機種に変えたときに買ったものです。どうぞ、お使いください」
 弓子はそう応じ、本を差し出した。
「これは、助かる。どうもありがとう……」
 受け取りながら、邦春が礼を言いかけたとき、彼女の顔が、どこかやつれて見えた。顔色が悪い。いつもの若々しい弓子の表情ではない。そこで、訊いてみた。
「ところで弓子さん、今の体調は、ABCのどのあたり?」
 すると、彼女は黙りこんだ。それから、しばらくして答えた。
「Bだと思うんですけど……Bのままでいられるのかどうか、自信がないんです……」
 じっと聞く邦春に、弓子は続けて言った。
「清水さん、昨夜、私の夢のなかに出てきませんでしたか? 化物蜘蛛の脚をナギナタで切って、追い払ってくれませんでしたか?」
 その言葉を耳にすると、邦春は彼女を家へ招き入れた。
「まあ、お上がんなさい。ゆっくり、話を伺いましょう」

 居間のソファーに並んで座り、邦春は弓子を悩ます悪夢の話を聞いていた。それが幼いときに叔父から受けたいじめによるものであることにも、おぞましい蜘蛛の正体が叔父であるということにも、これまでに数えきれないほど繰り返して悪夢に襲われてきたことについても、彼は耳を傾け続けた。彼女がひどく蜘蛛に怯えた、以前の出来事を思い出しながら。
 弓子の話は、一時間以上に及んだ。ベッドに寝ていた老犬が、いつの間にか、彼女の足もとに移動し、寄り添うように座っている。
それに気づいた彼女は、
「あっ」
 と声を出し、
「ベスちゃん、ベス子ちゃん。こんなところにいたの」
 そう言って表情を和ませ、老犬の体を撫でた。
 それを見て、邦春は口を開いた。
「この犬はね、人の心が分かるんです。歳をとり、寝てばかりの毎日を送ってはいても、人の心の機微にはとても敏感なんです。心がピンチに陥ったとき、知らないうちにベスが足もとにいてくれる。それはもう、超能力と言ってもいい。五年前に妻を亡くしたとき、ベスが傍にいてくれたおかげで、どんなに救われたことか。呆けたような私の心を、どれだけ励ましてくれたことか。今、ベスがあなたに付き添っているのは、あなたの心の痛みを、とても強く感じているからです。その痛みを、少しでも癒してあげたい。あなたの心を、できるだけ慰めてやりたい。そういう気持ちから、ベスはそこにいるのです」
 邦春は言葉を継いだ。
「弓子さん。それほどまでに、あなたの心は弱っている。なのに、この私は、携帯ショップへの同行を求めたり、回文教室の再開をせがんだりと、無神経すぎました。あなたのご好意に、甘えすぎました。どうも申し訳ない」
 邦春が頭を下げると、
「いえ。そんなことは……」
 と首を振った弓子だが、彼の次の言葉には、頷いた。
「今のあなたに必要なのは、きちんとした服薬と、たっぷりの休養でしょう。体調をBのままに保っていられるよう、ぜひそれらのことに専念してください。そして、ベスに会いたくなったときには、いつでも気軽にインターホンを鳴らしてください」
 ややあって、弓子が言った。
「昨日買ったスマホ、ちょっとさわっても、いいですか?」
 その声に応じ、邦春はテーブルに置いたままの紙袋からピカピカの携帯端末を取り出すと、弓子に手渡した。
 操作を始めた彼女は、隣の邦春に画面が見えるように、ブラウザを立ち上げ、検索ワードを打ちこんだ。

 ゆみコミ

 続いて実行ボタンを押すと、

 弓子とみんなのコミュニケーションブログ/ゆみコミ
 
という表示が現れ、それを押すと、ブログの画面が開いた。
 彼女は、こう言った。                          
「去年から始めた、私のブログです。このなかには、回文の連載記事もあります。私が傍にいないときは、それを読んで、お勉強に役立ててくださいね」
 スマホを受け取った邦春は、「最新の記事」という文字をタップしてみた。すると、

 回文エブリデイ

という画面が現れた。そこには、邦春がすでに知っているものも含めて、彼女がこれまでに創作をしてきた、たくさんの作品が並んでいた。

 次の日から、「ゆみコミ」にアクセスをし、「回文エブリデイ」を開いて、新たに投稿された弓子の作品を読むのが、邦春の新しい日課になった。
 
 きょう五月四日は「ラムネの日」です。一八七二(明治五)年のこの日、東京の実業家・千葉勝五郎が商業的なラムネの製造販売を始めたことから制定されたとか。では回文を。

 SUNSUNだ。 
 わあ! と美味し、かつ懐かしい音、泡。
 炭酸さ。

 [さんさんだ わあとおいし かつなつかしいおと あわ たんさんさ]

「SUNSUN」は、「陽光がさんさん」と降りそそぎ、喉が渇いた情景を思い浮かべてくださいね。

 きょう五月六日は「コロッケの日」です。「コ(五)ロ(六)ッケ」の語呂合わせから、食品会社が制定。明治の昔から親しまれてきた日本独自の洋食料理のPRが目的だそうです。では回文を。

 寄った、肉屋。
 よう、おかず、買おうよ!
 役に立つよ!

 [よった にくや よう おかず かおうよ やくにたつよ]

 威勢のいい声でお客さんに呼びかけます。新鮮なラードで揚げているから、肉屋さんのコロッケは、美味しくて重宝なお惣菜なのですね。

 きょう五月七日は「コナモンの日」です。たこ焼き、お好み焼きなど、粉を使った料理「粉もん」のPRのために「コ(五)ナ(七)」
の語呂合わせから制定されたとか。では回文を。

 明石のタコや。
 生地も、じき。
 焼こ! 楽しかあ!

 [あかしのたこや きじも じき やこ たのしかあ]

 関西弁で始まり、博多弁で終わる、都合のよい回文でした。

 きょう五月九日は「アイスクリームの日」です。一九六四(昭和三九)年のこの日、東京アイスクリーム協会が消費拡大のための記念事業を行なったことから制定されたそうです。では回文を。

 カスタード。
 溶ける甘さ、まさに様々あるけど、
 どー足すか。

 [かすたーど とけるあまさ まさにさまざまあるけど どーたすか]

 バニラ、抹茶、チョコ、イチゴなどなど、美味しさ、いろいろなアイスクリーム。皆さんは、どのアイスがお好き?

 きょう五月十二日は「看護の日」です。クリミア戦争で負傷兵たちへの献身的な看護に務め、白衣の天使と称えられたナイチンゲールの誕生日であることに由来。では回文を。

 行くは、野戦か。
 夜、ケアで明けるよ。
 看せや、白衣。

 [いくは やせんか よる けあであけるよ かんせや はくい]

 この日は「ナイチンゲールの日」とも呼ばれ、「国際看護師の日」にも制定されているそうですよ。

 きょう五月十三日は「カクテルの日」です。アメリカの、ある週刊新聞の一八〇六年五月十三日号に「カクテル」の名称と定義が初めて掲載されたことから制定。では回文を。

 なみなみのウォッカ? ジンか?
 足した感じが、強う!
 飲みな、皆。

 [なみなみのうぉっか じんか たしたかんじが つおう のみな みな]

 バーテンダーさんが、グラスに、強いお酒をなみなみと注ぎ足し
てくれたのですね。

 きょう五月十四日は「温度計の日」です。水銀温度計を発明し、華氏温度目盛り(℉)を定めたドイツの物理学者ファーレンハイトが、一六八六(貞享三)年のこの日に誕生したことから制定されたそうです。では回文を。

 寒気、居座るか。
 はて、何度?
 どんな手、計るは?
 水銀か!
 
 [かんき いすわるか はて なんど どんなて はかるは(わ)すいぎん か]

 華氏温度目盛り(℉)は、現在ではアメリカ、カナダ、イギリスなどの国々で用いられています。イギリスと言えば、スコットランド原産のウエスティー、お向かいさん宅のベス子ちゃん、十六歳のお誕生日、おめでとう!

「覚えていてくれたんだ」
 スマホの画面を見つめていた邦春が、笑顔になった。
 トイレで用を終えた愛犬が、こちらへ歩いてくる。
 邦春は、ソファーから立ち上がると、タンスの引き出しを開け、袋を取り出した。そして、

「オシッコできたのー。おりこうさんだねー。きょうは、お誕生日だから、特別サービスだよー」
 と言いながら、ササミ巻きおイモを二つ、放り投げた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?