見出し画像

みかんの色の野球チーム・連載第3回

第1部 「青空の夏」 その2

 
  朝礼が始まった。
約1000人の全校生徒が校庭に集合整列すると、ツルピカ頭の校長先生が壇上に昇り、ガーガーピーピーと雑音しか聞こえないオンボロスピーカーを通してのごあいさつ。
 本日ガーガーみんなのピーピー元気なガーガー顔ピーピー見ることガーガーできてピーピーとてもガーガー嬉ピーピー。いつも、こうだ。どうして修理をしないんだろう。
 続いて1時間目。
 今日は臨時登校日なので、授業の代わりに先生からの話だけ。それは嬉しいのだけど、担任の福山英信先生はとても怖い人なので、私たちは神妙な面持ちで聞いていた。先生の年齢は、36歳。身長は180センチ近くあり、がっしりとした体格で、両耳から顔の下半分が濃いヒゲに覆われているので「ヒゲタワシ」というあだ名がついている。得意技は、悪さをした生徒への強烈な往復ビンタだ。
 夏休みも半分終わったけど、まだあと半分残っているので、みんなケガや病気をしないように気をつけて、宿題もきちんとやって、新学期にはまた元気な顔で登校してくるように、といった内容のスピーチ。終業のベルが鳴って先生が教室から出ていくのを見とどけると、心底ほっとした。
さあ、休み時間だ。
 私たちは、さっそくペッタンの席に集まり、彼が少年マガジンの最新号をランドセルから取り出し、机の上に広げるのを待った。
津久見高校の夏はもう終わったけれど、星飛雄馬や伴宙太ら青雲高校の選手たちの甲子園はこれから始まるのだ。分厚い漫画雑誌の、そのページをペッタンが開くと、ブッチン、カネゴン、ヨッちゃん、そして私の4人は、身を乗り出し、視線と心を熱血ドラマの世界へ注ぎこんでいった。
 みんながじっくりと読めるように、ペッタンがゆっくりとページをめくっていく。私たちは、目に映ったものを、ひとコマひとコマ、心のスクリーンいっぱいに大きく広げていく。紅洋高校の花形満、熊本農林高校の左門豊作、それに飛雄馬と伴。もしも彼らがみんな津久見高校の野球部にいたら、絶対に甲子園で優勝できるだろうなあ……。
 
「ちょっと君たち!」
 想像の世界に遊んでいる私たちの背後から、そのとき声がした。振り向くと、学級委員長の深大寺ユカリが、そばに立って私たちを睨んでいる。
「君たち! 漫画は学校に持ってきてはいけない規則になってるでしょ!」
 ユカリの剣幕と強い口調に、不意をつかれ、私たちはうろたえた。ペッタンがあわてて雑誌を閉じ、ランドセルにしまった。カネゴンとヨッちゃんが無言で席を離れようとしたそのときだった、ブッチンが口を開いたのは。
「いいじゃねえか。今日はまだ夏休みなんじゃあけえ」
 予期せぬ反論に、ユカリは一瞬、えっという表情をし、目をパチクリとさせたが、即座にまた険しい顔つきになり、ブッチンに言葉を投げ返した。
「いくら夏休みでも、今日は登校日でしょ。学校に来る日なのよ。学校に漫画は持ってきてはいけない。だから今日も漫画を持ってきてはいけないの。6年生にもなって、そんなことも分からないわけ? バカね」
「なんじゃと」
 表情を怒らせて、ブッチンがユカリに歩み寄り、30センチの間隔で対峙した。
 クラスの中でも背の高い彼と、小柄な彼女。いきおい、ブッチンがユカリを見下ろし、ユカリがブッチンを見上げる構図となった。けれど、身長の差はかなりあっても、互いの顔を睨みあう迫力は拮抗している。
 突然の出来事に、思い思いの休み時間を過ごしていたクラスの40人は、たちまち2人の対決に視線を釘づけにされ、静寂の中で事態の進展を見守るハメになってしまった。
「なんじゃと。バカじゃと。もういっぺん言うてみいや」
 凄みを利かした声をブッチンが放つと、
「ええ、何度でも言ってあげるわよ。バカよ、バカ。大バカの田舎者よ」
 ユカリが、さらに辛辣なせりふを投げ返した。
「田舎もんは大バカか。それじゃったら東京もんは大エライんか」
「あたりまえじゃない。東京の人間にくらべたら、津久見の人間なんて原始人。東京にはデパートだってレストランだって遊園地だって高速道路だって地下鉄だって新幹線だって飛行機だって東京タワーだって霞ヶ関ビルだって国会議事堂だってなんだってあるけど、津久見にあるのは山と海だけ。東京には日本一の文化があるけど、津久見はゼロ。人間はね、文化の中で生きることで知性や教養を身につけられるのよ。だから東京の人間はエライの。津久見の人間はバカなの」
「ほう。そうなんか」
 ユカリの発する差別的な言葉の物量攻撃にひるむ様子も見せず、落ち着きはらってブッチンが返す。
「それじゃったら訊くけどのう。山と海と原始人ばっかりで文化がゼロの津久見に、なんじゃあけん、おまえ、東京からわざわざ来たん?」
 このせりふは、意外なほどの効果をもたらした。さっきまで、あれほど威勢よく口論を続けていたユカリが、急に黙りこんでしまったのだ。
 もちろん、これはブッチンの読み筋通りで、この問いかけがユカリに相当のダメージを与えたであろうことは、彼のみならず、私も、クラスのみんなも分かっているはずだ。
 津久見市の経済を支える主要産業、石灰石の採掘とセメントの製造。それを担っているのが、全国的にも名高い大企業、「矢倉セメント株式会社」だ。日本の各地で操業している石灰石の産出地の中でも、矢倉セメント津久見工場の生産能力は随一であり、その管理統括という重責を務める工場長が、東京本社から数年ごとの任期交替で赴任してくる。
 現工場長の深大寺和宏氏は、去年の4月に津久見へやってきた。東京生まれの東京育ちで、花の都から1000キロも離れた九州の片田舎で生活せざるを得なくなるとは夢想だにしていなかった妻と一人娘を伴って。単身赴任というスタイルなど、考えられなかった時代のことだから。
 5年生になったばかりの新学期。東京からの転校生としてクラスの一員になった深大寺ユカリのデビューは、私を始め津久見の子供たちにたいへんなカルチャーショックをもたらした。
 いまでこそ気の強さを如何なく発揮しているユカリだが、初めて登校してきた頃は、おおかたの転校生というものがそうであるように、実におとなしかった。とりわけ、それまで所属していた首都の生活環境とは、180度も異質な風土や人種とのファーストコンタクトを余儀なくされた彼女の場合、慎重の上にも慎重を期さねばならなかったであろうことは想像に難くない。
 だが、彼女の思惑とは裏腹に、そのルックスや身につけているモノたちは何よりも雄弁に「東京のお嬢様」の出現を物語った。色白でやや切れ長の目をした、お雛様のような顔。きれいに手入れされた、つやつやのロングヘアー。とてもハイカラで高級感あふれるジャケットやスカート、シャツやソックスや靴。なんと、ピンクのランドセル。
 転校してきて数週間も経つと、次第にユカリは本来の饒舌さを取り戻し、その愛らしい口から飛び出す洗練された標準語は、小柄で華奢な体つきの彼女の背後に、大都会という名の守護神が間違いなく存在しているのだと、聞く者たちに確信させた。
 そして何よりも、ユカリは頭脳明晰だった。テストのたびに、すべての教科で100点満点を逃したことがないという事実は、彼女の学力が、他の生徒たちより少なくとも1年以上は進んでいることを先生たちに認めさせた。
5年生の第2学期からは、ユカリは学級委員長を務めることになった。学業優秀な者がクラスのリーダーの座につくことを先生は奨励したし、喜びもした。彼女もまた、几帳面な性格なのか倫理感が強いのか、学校生活における規律の遵守をクラスメートたちにたびたび要求し、生徒への徳育に関する協力者として、ますます先生の信頼を獲得していった。矢倉セメント工場長の娘というブランドをも、先生は愛したのかもしれない。
 しかし、学級活動を通してユカリが津久見での小学生活に馴染み、心から定着したのかというと、そうではない。彼女は、機会のあるたびに、クラスのみんなに公言していた。
「津久見には来たくなかったの。東京に戻りたいの。一日も早く戻りたいの…」
 そういう言葉を口にするとき、彼女の顔からはふだんの勝ち気が消え、とても寂しくて哀しそうだった。
 それでも、ユカリの学級委員長としての任期は続いた。5年生の第3学期も。6年生になって、第1学期を迎えても。
その学級委員長が、いま、ブッチンとの対決で劣勢に陥っている。成り行きを間近で見ている私は、もちろん、親友であるブッチンの側の人間だ。でも、心の中で、私は願っていたのだ。負けないでくれ、ユカリ。負けてあげてくれ、ブッチン。
 
「のう、ユカリ。なんじゃあけん、おまえ、東京からわざわざ津久見に来たん?」
 沈黙を続ける相手に、ブッチンは同じ言葉で追い討ちをかけた。
 いつまでも無言のままでいては学級委員長の沽券に関わると考えたのか、ようやくして、ユカリは口を開いた。
「だって、仕方がないじゃない。パパのお仕事の都合なんだから……」
 その返答を待ってましたとばかりに、ブッチンは意地の悪い笑みを浮かべ、
「パパっち言うたぞ、こいつ。パパじゃあち。のう、みんな、パパじゃあちよ」
 そう言うと、傍らのカネゴン、ヨッちゃん、ペッタン、それに私に向かって、さらに
「パパっち、何語かのう? 誰か、知っちょらんか?」
 と、話の水を向けた。
 それを受けて、くすくす笑いながら、カネゴンが、
「パパっち、パパ語じゃねえんかのう」
 にたにた笑いながら、ヨッちゃんが、
「パパっち、もしかしたら、とうちゃんのことかのう」
 へらへら笑いながら、ペッタンが、
「パパは文化人じゃあけど、とうちゃんは原始人じゃ」
 そう締めくくると、クラスの40人がどっと笑い出した。
 ブッチンの狡猾なリーダーシップに、学級委員長はすっかりやりこめられ、顔を真っ赤にして再び黙りこくってしまった。
 だが、ブッチンは追及の手を緩めない。
「のう、ユカリ。おまえのパパは、白い色が好きじゃろうが」
 体を折り曲げ、紅潮した彼女の顔を覗きこみながら、妙なことを言った。
「え……?」
 かすれた声を、ユカリがかろうじて口にすると、
「おまえのパパは、白い色が好きじゃろうがち訊きよるんじゃ」
 ブッチンは繰り返した。
「白い色が好き? ど、どういう意味……?」
「勉強ができるくせに、そげんことも分からんのか。6年生にもなっちょるくせにのう。ほんなあ、教えちゃるわい。あんのう、おまえのパパは矢倉の工場長じゃろう。毎日毎日、石灰山を発破で吹き飛ばして、白い粉塵が空に舞い上がって、それがみーんな屋根に降り積もって、おかげさんで、セメント町の家はみーんな真っ白じゃあ。洗濯物も、みーんな真っ白じゃあ。犬も猫も、みーんな真っ白じゃあ。おまえのパパの仕事は、津久見を真っ白にすることなんじゃろう。おまえが東京からわざわざ津久見に来たんは、おまえのパパが町を真っ白にするんを眺めて喜ぶためなんじゃろう? そうなんじゃろう?」
 おっと、ブッチン、いくらなんでも、それは言い過ぎだろう。もう、こんな口論、やめにしようや。私がそう思ったのも束の間、ユカリの猛反撃が始まった。
「パパの悪口を言わないで! 私のパパは偉いのよ! 東大を出てるのよ! あなたたちのとうちゃんとは違うんだから! それにね、矢倉セメントには津久見の人たちもたくさん勤めていて、毎月高いお給料をもらってるんだから! それだけじゃないわ、矢倉セメントは津久見市に税金をいっぱい納めていて、それで津久見の経済やあなたたちの生活が成り立っているんだから!」
 学級委員長の、必死の抗弁。だが、これもブッチンをひるませることはできなかった。
「その高え給料をもろうちょる津久見の人間はのう、みーんな石灰石の採掘現場やら危ねえところで働かされちょるんを、おまえ、知っちょんのか? 発破が失敗して、ダイナマイトで手やら足やら体全部やら吹っ飛ばされてしもうた人間が、これまで何人おるんか、おまえ、知っちょんのか? おまえの一家は、工場からずーっと離れたこっち側の町で、矢倉が用意した料亭付きの豪邸に住んじょるけん、おまえやら、向こうのことは全然分からんのじゃろうけどのう。今度いっぺん、セメント町に行って、見てこいよ。腕の無え人やら脚の無え人やら、ごろごろおるんじゃあけん」
「…………」
「それに、なんじゃあ? 東大を出たパパじゃあ? 東大のパパがエライんなら、東大の娘のパイパイはどげえじゃろうのう?」 
 そう言いながら、ブッチンは驚くべき行動に出た。目の前のユカリの胸部に両手を伸ばすと、わずかな膨らみしかない未熟な2つの乳房を、白いブラウスの布地ごと、ギュッと掴んだのだ。
「きゃああああああああーっ!」
 ユカリの叫び声に、
「なんじゃあ、東大の娘のパイパイは、ぺちゃんこじゃのう。あはははははー」
 笑い声を上げながら、ブッチンは両手を離した。
「先生に言いつけてやるーっ!」
 ベソをかきながら、職員室に向かって駆け出したユカリだが、すでにその必要はなかった。ちょうどそのとき2時間目開始のベルが鳴り、それと同時に教室の戸がガラガラッと開いて、ヒゲタワシこと福山先生が入室してきたからだ。
 教室のすぐ外側で、事の一部始終を聞いていたに違いない先生は、真っすぐブッチンに歩み寄ると、大きな右の手を振り上げた。
 パン! パン! パン! パン! パン! パン! パン! パン!
 発破のような凄まじい音と衝撃が、ブッチンの両頬に炸裂した。
 4往復の8連発ビンタ。少なくとも私の知る限り、これは福山先生の成し遂げた新記録だった。(※注)
 
 
 
(※注)いまの教育現場では考えられないかもしれないが、昔は教師による生徒たちへの体罰は日常的に行われていた。とくに悪童であった筆者など、小学校・中学校・高校を通じて何十発のゲンコツやビンタをもらったか、数えきれない。さすがに大学に入ってからは、そのようなことは起こらなかったが。痛かったけれど、懐かしい思い出でもある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?