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小説「ころがる彼女」・第21話

 その物件を見つけたのは、弓子だった。
 九月五日、木曜日の午前。彼女から届いたメールには、その中古マンションの概要が記してあった。
「名称/彩雲ホームパークス 交通/JR川越線S駅 徒歩一八分価格/一三五〇万円 建物/鉄骨鉄筋コンクリート造地上一〇階建 総戸数/一三四戸 所在階/七階 間取り/三LDK 専有面積/七六・三五㎡(壁芯) 建築年月/一九九六(平成八)年十月 管理費/一三六〇〇円 修繕積立金/一二三〇〇円 敷地内駐車場/空有 月額七五〇〇円 おすすめポイント●四季の彩りに恵まれた閑静な高台の好立地●五木不動産株式会社旧分譲マンション●日照通風良好の二面バルコニー●共用玄関はオートロック●ペットの飼育可……」
 それを読んだ邦春は、戸惑いを覚えた。
 今の住まいがある、さいたま市K区に隣接するN区の物件なので引っ越しには好都合だ。ペットの飼育もOK。しかも、日本を代表するデベロッパー、五木不動産のホームパークスというブランドには強く心を惹かれる。築二十三年の物件だが、五木のグループ会社が管理をしているので、メンテナンスの面でも心強い。
 ところが、価格が問題だ。
 すでに藤井には、家の権利書と引き換えに、一千万円を銀行口座に振り込んでもらっている。しかし、それが自分の全財産だ。この物件の価格には、三百五十万円も足りないではないか。しかも購入にかかる諸費用や引っ越し代などを含めると、不足分は四百五十万円くらいになるだろう。
 予算が一千万円しかないことは、すでに弓子に伝えてある。それなのに、どういうつもりでこのような物件情報を送ってきたのか。電話で訊いてみることにした。
「あ、邦春さん。送ったマンションはお気に召して?」
 明るい声で応対する彼女に、
「確かに素晴らしい。だけど、買えたらの話、だ。予算がこんなにオーバーしちゃって、いったいどうするつもりなの?」
「それがね」
 弓子は答えた。
「ペットが飼えること、それに価格が一千万円未満であることを条件に、さいたま市の西から東まで、すべての区内の物件をしらみつぶしに検索していったの。ぜんぶで二百件くらい調べたかな。ところがね、築四十年とか五十年とか、一DKとか一LDKとかのマンションはあっても、『ペット可』の表記は、どこにもなかったの。戸建て住宅も調べてみたけど、一千万円未満で買えるのは、築五十年とか、六十年とか、そんなのばかり。リフォームしなくちゃ住めないだろうから、結局、一千万円をオーバーしちゃうわね」
 彼女の説明に、
「それで『ペット可』と明記してある最安値のマンションを調べていったら、この彩雲ホームパークスに行き当たったというわけなんだね」
 邦春がそう応じると
「ご明察」
 の声。
「ううむ……」
 彼は黙りこんでしまった。
 すると弓子は
「見に行きましょうよ」
 と言った。
「考えてたって始まらないし。見学するだけなら、タダですもの。ね、行きましょう」
 その言葉に促され、
「じゃあ、これから出かけようか。いちおう、藤井さんにも報告しておくよ」
 邦春はそう言って電話を切った。

 物件の仲介を担当している「五木のスミカエ西さいたま店」へ、邦春の車で二人は向かった。
 ハンドルを握る彼は、出かける前に藤川から電話でもらったアドバイスを頭のなかで反芻していた。五木のマンションなら問題はないと思われるが、二十三年という築年数を考えると、売り出し価格がやや高い。今後、半年とか一年とか売れない状態が続くと、売主も百万とか二百万とか値を下げていくのが通例なのだが、ベスの体調を考えると、そう長くも待っていられない。ただし百パーセント言い値で買うというのは、素人のやること。まずは、端数の金額を値切るべし。つまり、一三五〇の五〇を値切って、一三〇〇万円から交渉を始めるべし。なんとなれば、売主も、値切られるのを想定して端数の金額を付加しているから、云々。
 そうするうちにも、車は目的地に着いた。「お客さま専用」と書かれたパーキングに駐車し、店舗のドアを開けると、女子店員が応対に出てきた。
「K区に住む清水と申します。彩雲ホームパークスの現地見学をさせていただこうと思いまして」                        
 邦春がそう言うと、さっそく二人は店のなかへ案内され、部屋へ通された。
 出されたお茶を飲みながら待つこと数分、スーツ姿の男が二人、部屋に入ってきた。二人とも二十代のようだが、受け取った名刺を見ると、小柄なほうが岩下という名の宅地建物取引士、大柄なほうが南部という名の営業アシスタントであることが分かった。
 書類をクリップボードに挟み、ボールペンといっしょに差し出しながら、岩下が言った。
「お手数ですが、ご記入いただけますか」
 それに従い、氏名・性別・生年月日・年齢・現住所の順に、邦春は記入していった。現住所の横には「持家」と書いた。すでに藤川の名義になってはいるが、構うものかと書き進め、住宅購入の資金計画の欄には「全額現金」と堂々記入した。そして最後まで書き終えると、岩下に手渡した。
「ありがとうございます」
 と彼は受け取り、邦春と弓子の顔を見比べて
「親子でお住まいになられるのですね」
 そう言ったので、いや恋人どうしで住むのだと言い返したかったが、へたに勘ぐられてもまずいので
「ええ、まあ……」
 と、邦春は自制の言葉を口にした。
 岩下は頷くと、
「それでは、さっそく現地へご案内いたしましょう。豊かな自然に恵まれた高台の上に建つマンションは、信頼と実績の五木不動産が分譲をしたホームパークスです。お父さまにもお嬢さまにも、きっとお気に入りいただけるものと思います」
 
 営業アシスタントの南部が運転をし、助手席に座った岩下が後部座席の二人に説明をしていく。さすがは五木不動産のグループ会社だけあって、高級車の乗り心地は快適なものだった。
 車は、市街地からだんだん遠ざかり、田園地帯へ。窓外の緑が、濃くなっていく。
「いかがです。素晴らしい自然環境でしょう。都内の大学の西さいたまキャンパスも出来たばかりですし、これからは商業施設の開発も進んでいきますよ」
 助手席の岩下がそう言い、
「あっ、見えてきましたよ。左手に広がっている田んぼの、ずっと向こうに、丘があるでしょう。あの丘の上に建っているのが、彩雲ホームパークスです」
 と、窓外を指さした。
 その先に見えるもの、まるで異国の山城のようなシルエットに、思わず邦春は声を上げた。
「エジンバラ城だ!」
 その歓声に、弓子もつりこまれて座席から身を乗り出し、遠くの景色に視線を凝らした。
「エジンバラ城だ! キャッスルロックの上に建つ、エジンバラ城だ! 今から五十六年前、初めての航海で寄港した、エジンバラ。その美しい石造りの街並みを、あのエジンバラ城の上から見渡したんだ、この私は!」
 と、邦春。
「思い出のお城にまた出会えるなんて、とてもラッキーじゃない!見学に来て、ほんとうに良かったわね!」
 と、弓子。
「何と言っても、日本を代表するデバロッパー、五木不動産が分譲したホームパークスです! 外観だけでなく、お部屋もご満足いただけること、間違いなしでございます!」
 と、岩下。

 マンションのエントランスを入り、エレベーターに乗って七階の住戸へ。北西と南東にバルコニーを持つこの住まいは、内側からの眺望も素晴らしかった。
「山を削って、小高い丘にして建てたのです、このマンションは。なので、七階と言っても、通常のマンションの十二、三階くらいの高さがあります」
 との岩下の説明の通り、北西の窓からは遠くに山々の稜線が見える。あれは、秩父だろうか。それに嬉しいのは、山だけではない。とても広いのだ、空が。
 さらに南東のバルコニーは、自然公園と隣接している。窓を開けると、目の前にこんもりとした木々の茂りがあり、過ぎ去った夏を惜しむかのように、セミたちの大合唱が聞こえてきた。やがて木々は紅葉し、黄葉し、春には紅梅白梅、それに桜も楽しめるのだと、岩下は自慢げに話す。
 バルコニーから差し込むたっぷりの陽光は、十四畳のLDのフロアをとても明るく輝かせている。ここをベスのスペースにしたら、病気なんかすぐに治って、いつまでも長生きしてくれるかもしれない。ベッドでじっとしている愛犬のことを思うと、邦春は今すぐにでもここへ越してきたくなった。そこで、さっそく購入の申し込みをしたいと岩下に告げ、再び「スミカエ西さいたま店」へ戻ることになった。

 クリップボードに挟まれた購入申込書を目の前にして、藤川からアドバイスされたことを、邦春は口にしてみた。
「マンションの価格なのですが……」
「はい……?」
「たしかに素晴らしい物件だと思います。しかし、建築後二十三年も経っているとなると、一三五〇万円というのは少し高いのではないでしょうか」
「…………」
「少し、安くなりませんでしょうかね」
「おいくらほど……?」
「端数の五十万円を切り捨てて、一三〇〇万円にしていただけると嬉しいのですが……」
邦春が言うと、
「中古物件ですが、五木のブランドです。一三五〇万円はけっして高くない価格だと、私どもは考えております」
 と岩下は応じ、
「とはいえ、買主さまのご意向をくんで差し上げるのも、私どもの務めです。価格の件は、売主さまにご相談してみましょう」
 そう言葉を継いだ。
 岩下の話によると、お盆を過ぎてすぐに大宮から名古屋への転勤を言い渡された売主は、直ちにあのマンションを売りに出し、すでに名古屋市内の賃貸マンションに住んで新しい職場で働いているとのこと。四十代で、子供はおらず、奥さんと共働きとのこと。
 それならば、分かる。住戸にいる時間が普通の家族に比べて短く子育てによる瑕疵もなかったから、あの部屋は、あの状態を保てたのだろう。築二十三年というのに、彩雲ホームパークス七〇三号室は、三つの居室も、リビングもダイニングもキッチンも、文句のつけようがないほどきれいに使われていたのだ。
 それなのに、藤川の指示とはいえ、五十万円も値切った自分を、邦春は恥ずかしく思った。
 購入申込書に署名捺印をして岩下に渡すと、彼はこう言った。
「第一回目の契約は、売主さまのご都合にもよりますが、早ければ来週中にも行われます。場所は当店で、日時は追ってご連絡を差し上げます。当日お持ちいただくものは、手付金が五十万円、印紙代が一万円、あとは運転免許証などの身分証明書、それに印鑑です」

 帰りの車中で、邦春がつぶやいた。
「お金もないのに、始めちゃったよ……」
 それを聞き、弓子が励ました。
「乗りかかった船。船乗りだから大丈夫」
 

                    

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