見出し画像

小説「升田のごとく」・第11話

 JR新橋駅のいちばん西側の改札口を出て、通りを渡ると、飲食店や風俗店がひしめく雑居ビルが林立している。
 それらのうちのひとつ、焦げ茶色をしたビルの3階に「新橋王道舘将棋道場」の看板が掛かっていた。
 階段を駆け上がる、知美と耕造。3階のフロアへたどり着いた二人が、狭い通路を進んでいくと、道場のドアが見えた。
 ドアの前には、男が一人、立っていた。知美の姿を見ると、男は駆け寄り、頭を下げながら言った。
「申し訳ございません、竹内先生。師範代の私がついていながら、こんなことになってしまって……」
「仕方がないわ、杉下さん。相手は黒豹だもの。で、今、どれくらい? お客さんの被害額は」
 先ほど知美の携帯を鳴らしたのは、この杉下という名の師範代らしい。表情を曇らせて、彼は答えた。
「それが……もう50万円を超えています……」
 その返事に素早く反応した知美は、ドアを開け、中へ入っていった。
 後を追って入室した耕造は、道場を包む不穏な空気を、すぐさま感じ取った。
 30坪くらいの広さの店内には、細長いテーブルが10卓ほど設置され、それぞれのテーブルには3セットずつ、椅子が向かい合わせに配置されている。椅子と椅子の間の卓上に整然と並べられているのは、厚さ2寸ほどの木製の将棋盤と、プラスチック製の駒。
 土曜日の午後とあって、客の入りは多く、座席の8割方を占めている。だが、いつもであれば彼らが盤と駒で奏でているはずのパチパチという音はいっこうに聞こえず、会話のひとつすらない。客たちは皆、押し黙り、道場の片隅に視線を注いでいるのだった。
 そこには、二人の男が、向かい合って座っていた。
 二人の姿は、まったく対照的だった。一方は背が低く、うなだれているため、いっそう小さく見える。もう一方は、かなりの長身で、脚を組み、椅子の背もたれに反っくり返って相手を見下ろしている。黒いセーターに黒いズボン、黒いソックスに黒い靴。顔には、黒いサングラス。こいつが黒豹なのだろうか。
「黒木豹太郎。通称、黒豹。元、プロ八段の、真剣師です」
 耕造の隣に立っている、師範代の杉下が言った。
「真剣師というのは、賭け将棋が専門でしてね。言わば、将棋の裏社会で生きている連中なんです。黒豹は、その中でも最強の実力者。毎年、夏と冬に、全国各地の将棋道場に現れ、ボーナスで潤っているお客さんたちの懐を狙う。実にあくどい奴です。まさか、うちの道場が狙われるとは……」
 杉下は頭を抱え、嘆息した。
 道場の客たちが注視する中、やおら黒豹は椅子から立ち上がり、向かいの小男の襟首をつかんだ。そして言った。
「どうやら、勝負は終わりのようだな。さ、いっしょに銀行へ行こうぜ。あんたの負け分、55万円、キャッシュカードで下ろしにな」
 どすの利いた低い声を響かせると、黒豹は相手の男を椅子から引きずり倒した。床に倒れた男は、顔面を蒼白にし、哀願するように言った。
「か、勘弁してください……。お、お願いです、どうかご勘弁を……」
 涙声で訴える男。その胸ぐらに黒豹は両手を掛け、絞め上げながら体を持ち上げた。男の小さな体が宙に浮き、両足をばたつかせる。
「金が惜しいか? 命が惜しいか?」
 両手にぐいぐいと力をこめ、野獣の唸り声を上げる黒豹。
 そのときだった、何かがひゅうんと飛んできて、黒豹の首筋を直撃したのは。
「いてっ」
 男から手を離し、黒豹が振り返ると、目の前には竹内知美が立っていた。床の上には、一本の扇子が落ちている。黒豹目がけて、知美が投げつけたのだ。
「暴力はやめなさい。うちのお客さんに」
 毅然とした口調でそう言うと、知美は顔を上げ、長身の黒豹のサングラスを睨みつけた。
「あん?」
 首筋を擦りながら、黒豹はぽかんと口を開けている。
「うちは賭け将棋はご法度よ。やりたいのなら他所でやりなさい」
「ああん?」
「恥ずかしくないの? 元プロの八段が、素人からお金を巻き上げるなんて」
「あああん? おネエちゃん、いったい、どなた?」
「竹内知美。当道場の師範よ」
「はああん? しはあん? は、はは、ははは。師範だって? はははは、ははははは」
 黒豹は、開いたままの口から笑い声を出し始めた。
「恐れ入ったね。この道場じゃ、こんな小娘が師範をやってるのかい。あははははは、あははははは、あははははは」
「小娘でも、師範は師範なの。あなた、今すぐ、ここから出ていきなさい!」
 知美のその発言に、それまで笑い続けていた黒豹の態度が一変した。
「そうは、いかねえ」
 凄みを利かした低い声で、黒豹は言った。
「おたくの客が、たった今、この俺に借金を作った。55万円だ。そいつを頂戴しねえ限り、俺もここを動くわけにはいかねえのさ」
 そう話しながら、サングラス越しに知美をじっと見据える、黒豹。その、見えない視線を、大きな瞳でしっかと受け止め、知美は決然と答えた。
「分かったわ、黒豹さん。私と勝負しましょ。もしも私が負けたら、お客さんの借金は、すべて私が払います。でも、もしもあなたが負けたら、借金を帳消しにし、もう二度とこの道場に来ないこと。それが条件よ。どう? 勝負してくれる?」
 知美の申し出に意表を突かれたのか、黒豹はしばしの間、沈黙し、何事か思案している様子を見せた。それからサングラスの奥にひそむ両目で、薄手のセーターにジーパン姿の知美の全身を上から下までゆっくりと観察すると、おもむろに口を開いた。
「条件がもうひとつある」
「もうひとつ?」
 知美が問い返すと、黒豹は低い声に野卑な響きを含ませて言った。
「おネエちゃん、この俺がどうして黒豹と呼ばれているか、知ってるかい。名前が、黒木豹太郎だから。いつも黒ずくめの服装をしているから。そう思っているんだろ。だがな、実は、それだけじゃねえんだ」
 黒いズボンの股間に手をやり、撫でさすりながら黒豹は続ける。
「俺は、ココも真っ黒でね。しかも、豹みたいに獰猛なんだ。美味しい獲物を求めて、いつもヨダレを垂らしているのさ、この黒豹ちゃんは。お肉が欲しいよー、若くて可愛い女の子のピチピチしたお肉が食べたいよーってね」
 黒豹の意図するところを察知し、知美は身をこわばらせた。その姿を楽しむかのように、口元に薄笑いを浮かべ、黒豹は言った。
「俺が勝ったら、55万円にプラスして、おネエちゃんの体を一晩自由にする権利をいただく。それがこの勝負の追加条件だ」
 な、何という卑劣な男だ。耕造は憤慨した。いくら将棋が強くても、知美は純情すぎるほどの無垢な娘なのだ。こんな理不尽な条件を突きつけられては、プレッシャーに押し潰され、勝負にも敗れてしまうに違いない。そしたら黒豹の餌食じゃないか。
「昔から、凶悪な男なのです、黒豹は」
 師範代の杉下が言った。
「帰宅途中の女子高生を襲い、婦女暴行罪で懲役刑。将棋界から追放されたのも、そのためです。数年の刑期を終え、出所してからは、ご覧のように真剣師稼業を……」
 杉下の言葉に、耕造は驚愕した。強姦魔、黒木豹太郎! そんな恐ろしい人間に、知美と関わりを持たせては絶対にいけない!
 勝負を止めさせようと耕造が前へ進み出たそのとき、知美の凛とした声が道場内に響き渡った。
「いいわよ、その条件で。黒豹! お前を退治してあげる!」

 道場の中央の席で、勝負は始まった。
 客たちがぐるりと対局者の二人を取り囲む中、振り駒が行われ、黒豹の先手番、知美の後手番が決まった。
 真剣師の長い指が駒をつまみ、バシッと大きな音を立てて盤上に叩きつける。続いて、女師範の細い指が、ピシッと鋭い駒音を響かせる。
 双方が角道の歩を突き合った後、黒豹は飛車先の歩をグイッと前へ動かした。
それを見て、知美は小考し、そして先ほど突いた角道の歩をすーっともうひとつ押し進めた。
「出た……」
 耕造の隣で、杉下が呟いた。
「竹内先生の必殺戦法、升田式石田流……」
 升田式石田流。その名に、耕造は聞き覚えがあった。そうだ、この道場へ来る前、神田神保町の喫茶店で、知美が語った升田幸三との思い出話。生まれて初めて将棋の駒を握る幼女に、升田老人はこの指し方を教えたとか。そうか。この大勝負を、知美は升田の創案した戦法で闘おうと心に決めたのか!
 大勢の観客が固唾を吞んで見守る中、二人の勝負は序盤戦から中盤戦へ。いよいよ互いの駒が衝突を開始した。
 知美の左陣を突き破ろうと、激しい駒音を立てて飛車先の歩をぶっつける黒豹。それを払った知美の歩を、引ったくるように奪い取り、バッシーンという轟音を響かせて黒豹の飛車が急襲する。
 ニヤッと笑う、黒豹。野獣の鋭い牙が、ついに獲物を捕らえたのか。だが、知美は少しも表情を変えず、自陣の角を敵陣の角と入れ換えると、空いた地点に自軍の飛車をするりと転回させて迎え撃つ。黒豹の顔から笑みが消えた。
 向かい合う、飛車と飛車。肩を怒らせ、体を前後に揺すりながら盤面を睨みつける黒豹。扇子を片手に、じっと読みふける知美。この数手の応酬で勝負は決まると、両者の思いは一致しているようだ。
 満座の客は身じろぎひとつせず、眼下で繰り広げられる激闘に見入っている。その中にあって耕造は、ただただ知美の勝利を祈るばかりだ。
 そのとき、黒豹の口が、ぐわっと開いた。どす黒い舌を突き出すと、血に飢えた野獣は渾身の力をこめて盤上に駒を叩きつけた。飛車の頭に打ちこまれた、歩のクサビ。知美が飛車を端にかわすと、一瞬生じたその空間に、黒豹が角の爆弾を投げこんだ。
 それは、猛襲と呼ぶしかない恐るべき攻撃だった。知美の陣を深くえぐった地獄の兵器。これが炸裂したとき、すべては終わる。絶体絶命のここ危機を、はたして知美は凌ぐことができるのだろうか。
 盤面に全神経を集中させ、一心不乱、読みに没頭する知美。やがてその白い指が自陣の金をつまみ、相手が投下した角の横へピタリと張りつけた。
 知美の指し手を見るや、黒豹は小躍りした。その手を待っていたんだと言わんばかりに即座に角で銀を取ると、相手が同金と応じると同時に、手にしたばかりの銀をズドンと打ちこんだ。知美の左陣は、とうとう完全に破壊されてしまった。
「終わったな、おネエちゃん」
 愉快そうに笑いながら、黒豹が言った。
「そうね。終わったみたいね、黒豹さん」
 そう答えると、知美は自分の駒台の上に並んだ2枚の角のうち、1枚目の角を指にはさみ、将棋盤のど真ん中、5五の地点にピシリと打ち下ろした。
「あん?」
 黒豹が不思議そうな声を出した。
「もう将棋が終わっちゃってること、分かってるんだろ、おネエちゃん。まだ指し続けるつもりかい。往生際が悪いな。時間の無駄だぜ。それより、早くホテルに行こうぜ。その前に銀行に寄ってよー」
 やれやれ仕方がないな。それではトドメを刺してあげましょうかねと、打ちこんだ銀で知美の金をむしり取る、黒豹。
 それには見向きもせず、知美は2枚目の角を、3三の桝目にパシッと打ちつけた。
 その瞬間、黒豹の動きが止まった。
 止まったまま、ぴくりとも動かない。
 まるで時間を止められてしまったかのように、凝固した真剣師。
 知美が続けざまに放った2枚の角は、それぞれが一筋のラインで結ばれ、遠くにおいては相手陣の玉将を狙い、近くにあっては相手の飛車を捕えていた。まさに芸術的な連打の角のコンビネーション。
 勝負の行方を、最後の最後まで読みきっていたのは、女師範の方だったのだ。
 その後は、知美の鮮やかな収束を見るだけだった。
 2枚の角の働きは強力無比で、敵陣を食い破り、敵飛車を食いちぎり、そして敵の玉将を仕留めるまで、さして時間はかからなかった。

「負けた。これまでだ」
 激戦の後の静寂を破って、黒豹がそう告げた。
 そして椅子からゆっくりと立ち上がり、観客たちの間を通り抜け、道場のドアへ向かって歩いていく。
 ドアの前で、ふと立ち止まり、知美の方へ振り返ると、真剣師はこう言った。
「おネエちゃん。その扇子、ちょっと開いてみてくんねえか」
 対局の最中、ずっと左手に握り締めていた白い扇子。黒豹の言葉に応じて、知美はその扇子を大きく広げた。
 そこには、力強い筆致で、このような墨文字が揮毫されていた。

「新手一生  升田幸三」

 それを見て、黒豹はニヤリと笑った。
「なるほどね」
 ドアの脇に並んだハンガーから、黒いコートを手に取り、身にまといながら彼は話す。
「今から30年前、まだ20代だった俺は、プロの六段だった。新進気鋭の若手棋士として、将来を嘱望される。そんな時代が、こんな俺の人生にもあったのさ。棋界の頂点に立つことを目指して将棋に打ちこんでいた俺に、ある日、大きなチャンスが訪れた。升田幸三との対局だ。年老いてはいても、相手は天下の大棋士。この勝負に勝てば、自分の株は上がる。俺は、燃えに燃えたね。しかし、現実は甘くなかった。いざ、盤をはさんで向かい合うと、もう60近いというのに、升田はとてつもなく鋭い眼光を発し、俺を威圧した。ヘビに睨まれたカエルとは、このことだ。汗を垂らしてウンウン長考する俺を嘲笑うかのように、升田はノータイムの着手の連続だ。あっという間に、俺は吹っ飛ばされてしまったよ。持ち時間をすべて使い果たして、敗れた俺。それに対して、升田の消費時間はたったの2分だ。対局が終わると、升田は俺に向かってこう言ったよ。小僧、お前の将棋には大事なものが欠けておる。それはな、創造の心。新手一生の精神じゃ。将棋とは、自分の力で創り出すもの。常識に囚われた手ばかり指しておっては、明日はないぞ」
 黒豹の回顧談に、道場内の誰もが、黙って耳を傾けている。
 真剣師は話を続ける。
「俺は、ぶったまげたね。世の中には、こんなにも強い人間がいるのかとね。あのときからだ、俺の中で何かが狂い始めたのは。升田に看破された、創造力の欠如。それを、ただの腕力で補おうとするうちに、将棋も心も歪んでいった。その後、何とか八段まで昇った俺だが、一度乱れた将棋の軌道を立て直すことは、もうできなかった。所詮、その程度の器だったのさ、俺という人間は……」
 そして、黒豹は、最後の口を開いた。
「俺の人生を大きく変えた、升田幸三。あの将棋に、今日、再び出くわすとは夢にも思わなかったぜ。おネエちゃん、俺の負けだ。約束通り、もう二度とこの道場には来ねえから安心しな。あばよ」
 そう言い残すと、彼は、ドアの向こうへ姿を消した。
 黒豹が道場を去ると、客たちの中から拍手が鳴り始めた。
 拍手は拍手を呼び、やがて万雷の響きとなって、室内いっぱいに広がった。
「竹内先生、日本一!」
「あの黒豹をやっつけた! さすがは師範!」
「無敵だ! 升田式石田流!」
「僕らの道場を守ってくれてありがとう!」
 幾重にも押し寄せる喝采と歓呼の波に、先ほどまでの大勝負の緊張に蒼白くこわばった知美の顔が、だんだんと赤みを帯びて和らいでいく。
 やがて、いつものように明るく晴れやかな笑顔を取り戻した彼女は、自分を取り巻いているたくさんの客たちの中に耕造の姿を見つけると、右手を突き出してVサインを送った。それから、閉じた扇子をもういちど左右に大きく広げ、耕造に向かって高く掲げた。

「新手一生  升田幸三」

 ありがとう、竹内君。
 僕の願いを、聞き入れてくれて。
 升田幸三の将棋を、僕に見せてくれて。
「香一筋」が升田の人生なら、「新手一生」は升田の将棋そのものなんだね。
 新しい将棋を生み出すために、創造への挑戦に棋士生命を捧げ、「現代将棋の父」と呼ばれるまでになった升田幸三。
 ありがとう、竹内君。
 黒豹との闘いに体を張って、君は僕に教えてくれた。
 創造するためには勇気が要る。
 だが、創造したものは勇気を与える。
 創造することは苦しい。
 しかし、創造することは喜びだ。
「シンテイッショウ」
 それが、クリエイティブの極意であることを、僕は今、知ることができた。
 増田耕造の中で、何かが動き始めた。
 それは、広告クリエイターとして再生を始める、新しい生命の胎動かもしれなかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?