小説「升田のごとく」・第14話
盤と駒の奏でるパチパチという音が、心地よいリズムとなって店内を包んでいる。
勝って、得意そうな顔。負けて、悔しがる声。新橋王道舘将棋道場は、今日もたくさんの客たちで賑わっている。
12月18日、土曜日。耕造は、一週間ぶりにこの道場を訪れ、棋客の一人として、ぎこちない手つきで駒を動かしていた。
将棋を指すのは、小学生のとき以来だから、実に40年ぶりだ。幼い頃の記憶がよみがえり、懐かしさに心が和んだが、駒を持つ手は緊張して震えている。盤をはさんで向かい合っているのは、当道場の師範、竹内知美なのだから。
もちろん、ハンディキャップを付けてもらっての対局だ。自陣の飛車と角、それに桂馬と香車を二枚ずつ、知美は最初から外している。いわゆる六枚落ちという大差の手合いだが、それでも勝負は一方的で、耕造はころりと負かされてしまった。
「ま、参りました」
耕造が頭を下げると、知美は、
「増田さん、コピーを書くのは上手でも、将棋の実力の方は、そうね、10級くらいかしら。でも、これから勉強したら強くなるわよ。私がいつでも教えてあげる」
そう言って、いたずらっぽく笑った。
その、コピーが上手く書けないから、気分転換にここへやってきたのだ。一週間前の、黒豹との死闘。それに打ち勝った知美の姿に、耕造は心を大きく揺さぶられた。升田幸三の将棋に、創造への意欲を掻き立てられた。
熾烈な広告コンペに挑戦する気になったのも、あの日、この場所で、自分の中に長らく眠っていた闘争心が目を覚まし、動き始めるのを感じ取ったからだった。
だが、いざクリエイティブの勝負の場に立ってみると、そこには苦戦に喘いでいる自分がいる。アイデアの行き詰まりに悩む、非力なコピーライターがいる。
「新手一生 升田幸三」
不世出の天才棋士が、自らの勝負哲学を揮毫した扇子。耕造の目の前で、それを知美が閉じたり開いたりしている。
その新手こそが、発想の新手こそが、今の自分にいちばん必要とされるものだ。耕造は、きっかけが欲しかった。劣勢な局面を打開する、ヒントになりそうな、何かが。
そのとき、道場のドアが開き、客がまたひとり入ってきた。
背の低い、中年の男。手には紙袋を下げている。その顔や体型に、何となく耕造は見覚えがあった。コートを脱いでハンガーに掛け、受付で料金を払うと、男はこちらへ歩いてくる。そして知美の前で立ち止まり、彼女に向かって深々とお辞儀をした。
「先週は、たいへんお世話になりました。危ないところを助けていただき、誠にありがとうございました」
そして、紙袋の中から菓子折りらしき包みを取り出し、知美に差し出しながら、
「つまらない物ですが、道場の皆さんで召し上がってください」
男がそう言い添えたとき、耕造はこの人物のことをはっきりと思い出した。黒豹と賭け将棋を指して50万円以上も負け、金を払えと首を絞め上げられたところを知美に救われた、あの客だ。
「どうぞお気遣いなく。私は師範として当然のことをしただけですから」
差し出された包みを、知美が受け取るのを拒むと、
「いえいえ、それでは私の気が済みません。どうぞどうぞ」
菓子折りを強引に押しつけ、さらにジャケットの内ポケットから名刺入れを取り出して、
「申し遅れました。私はこういう者です。今後ともよろしくお願い申し上げます」
男はそう言いながら、知美に対して丁重に名刺を手渡した。それから、傍らの耕造にも、同様に名刺を差し出した。耕造が受け取ると、そこには、こう記されていた。
「西北大学経営学部教授 安野正明」
耕造は、少なからず驚いた。目の前の小男が、まさか一流大学の教授だとは。しかも、そのような学識と地位のある人物が、なぜ賭け将棋などという愚かな真似をしたのだろうか。その思いは、知美も同じらしく、ぽかんとした表情で男を見つめている。
「ええ、おっしゃりたいことは分かります」
安野教授は言った。
「学問に使える身でありながら、先日は愚行に走り、お恥ずかしい限りです。実は私、大学では企業経営とコミュニケーションに関する事柄を教えておりましてですね。ええ、例えば、企業の広告活動が、どのような心理的プロセスを経て、生活者の消費行動を促すのか。最近では、そのようなことを研究テーマにしているわけでありまして。まあ、その、フィールドワークの一環と申しますか。もともと私、将棋は好きなものですから。いやあ、それにしても、あの黒豹氏の心理操作は、実に見事でした」
安野教授の話しぶりが、熱を帯びてきた。
「タダで指すのはつまらないから100円賭けませんか、と言う。100円くらいならと、応じて指すと、私が簡単に勝ってしまう。いやあ上手くやられました、それでは今度は200円でいかがでしょう。その将棋も、私の楽勝です。それから500円、1000円、2000円と賭ける金額が増えていくのですが、いずれも私の勝ち。すでに3800円の儲けです。いやあ、あなたはお強い、私もこのままでは帰れませんから次は5千円でやりませんか。そう言われては断ることもできず、また一局やる。そして、それも勝ってしまう」
教授の体験談に、興味深く聞き入る耕造。その横で、知美は顔をしかめている。
「あいたた、また負けた、弱ったなあ、困ったなあ、よし、これが最後、1万円でお願いできませんか。そう懇願されては、やはり気の毒ですから、私も勝負に応じます。で、その将棋も私の優勢。可哀相だが、いただこうかな1万円、心の中でそう呟きながら次の手を指すと、相手は意外な一手で応じてきた。思いも寄らない、一手でした。それを境に、勝負は大逆転。私は初めて負けてしまったのです。いやー、ラッキー、まぐれです、こんな強い人に勝てるなんて、運が良かった、ただそれだけですよ、どうも申し訳ありません。お詫びにもう一局、今度は2万円でいかがです。相手にそう言われると、そうだな、今のは不運だったな、どう考えてもこちらの方が強いものな、ついつい私はそう思い、またまた勝負を受けてしまい……」
そのとき、教授の話を遮って、知美が言った。
「またまた、優勢な将棋を逆転負けしちゃったんですね。そうして賭け金を増やして、次の将棋を。でも、それも逆転負け。その次も、逆転負け。ふと気がついたら、トータルで55万円の負けになってた」
「さすがは師範、すべてお見通しなのですね。まったくお恥ずかしい限りで……」
頭を掻く教授を、知美はぴしゃりと諭す。
「それが、真剣師たちの手口なんです。今後いっさい、賭け将棋はやらないでくださいね。分かりましたか」
師範の言葉に、深々と一礼し、教授はその場を離れた。そして店内の空席に腰を下ろすと、対局相手が現われるのを待った。
大学では若者たちを相手に教鞭を執っている安野氏が、この道場では逆に若者から教えを受けている。そのことが、耕造にはおかしかった。ただし、企業コミュニケーションの研究者だという彼の言葉から、何かしら創作のヒントが得られないかと期待をしてもいたのだが、それは叶わず、少し落胆した。
「最近、会社の方はどう? 年末で、みんな忙しいんじゃないかな?」
何気なく、耕造は知美に話しかけた。
「そうですね。制作本部の皆さん、とても忙しそうですよ。一日に何度も、会社を出たり入ったり。プロダクションの人たちも、毎日たくさんお見えになるし」
知美の話は、大浜強志が下したという厳命を裏付けている。1月4日の社内コンペに向けて、クリエイティブの企画作業に必死に取り組んでいる制作スタッフたちの姿が目に浮かぶ。
「そう言えば、新しいコピーライターの方が一人、入社されたんですよ」
知美の口から、意外な言葉が飛び出した。
「新しいコピーライターが?」
「ええ。先週の月曜日に、制作本部に配属されて。とても仕事のできる、優秀な方らしいですよ。どこかのプロダクションから、大浜常務がスカウトしてきたんですって」
耕造は驚いた。年末という中途半端なこの時期に、新しい人間が会社に入ってくるなんて、どう考えても異例だからだ。帝国不動産の50億円のキャンペーンを獲得するために、一日も早く働いてもらおうというわけか。しかし、大浜が直々に勧誘するとは、よほどの人材なのだろう。社内コンペで、自分の強敵になることは間違いない。
「女性のコピーライターですよ、年配の」
知美が話し続ける。
「名前は、えーと、そうそう、西川さん。西川由木子さんという方です」
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