そういう弱さを大事にできたなら

蛍光灯に釣られて、作業中の僕の目の前に一匹のカメムシが飛んできた。

湖畔の森に移住して2年。

彼らとの共同生活にもすっかりと慣れている僕はたいてい指で弾くか、外につまみだすのだけど(あるいは専用の掃除機でまとめて吸いとる)

今日はふとじっくり観察して見たくなった。

彼なのか、彼女なのかわからないけど、普段あまり歓迎されはしない卓上の来客をじっと眺める。

最初はノートの上をせわしなく徘徊していたが、飽きっぽい性格らしく今は鉢に入ったセージにしがみついている。

五分経ったか十分経ったかわからないけど、不思議なことになんだか少しずつそいつが愛おしくなってくる。

ほんの少しの時間を共にすることで僕と彼女(ということにしておこう)の間にはさきほどまでなかった何かが生まれているのだ。

関係性。

さぁ、もしここで誰かが部屋に入ってきて、カメムシといちゃついている僕に顔をしかめて、ハエたたきで"彼女"をたたきつぶせばどうなるだろう。

きっと僕は少なからずとも心を痛めるだろうし、その痛みは僅かだとしてもしばらく残るだろう。

なぜか。

それはきっと僕の命とカメムシの命が本質的にはひとつのものとして繋がっているからだろうと思う。

それを今、少しの時間を共にしたことで、思い出したのだ。

思い出してしまったから、痛い。

だからもしカメムシが叩き潰されてしまえば、僕は僕の命を傷つけてしまうような気がしてしまうし、逆にもしこのカメムシが窓の外に解放されれば、僕は僕自身に開放感と自由を感じるだろう。

食物連鎖や生態系のシステムということ以上の何かが、僕らを繋いでいる。

それは目の前のカメムシだけじゃなくて、同じことがうちの飼い猫にも言えるだろうし、植物にだって、石ころにだって、人間にだって言えるだろう。

目の前のあなたは私なのだ。それが悪臭を放つカメムシですらも。

少し意識を向けるだけ、共にいるだけで実は繋がっているのだということを誰でも体感的に思い出すことができると思うんだけど、

僕らは普段はそういうことを忘れて生きている。

だって、このタフでマッチョな社会でカメムシ一匹に、いちいち傷ついてらんないもの。

でも本当はそういうことにいちいち傷ついて生きていたいんだよな、と思う僕もまたどこかにいるし、

そういう"弱さ"を大事にできたら環境問題なんて、存在しないんじゃないかなぁと思ったりするのです。


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