左の向こうに何があるかってお話

 さて、前回の続きです。前回はあくまでも国外の話し。今回は国内の話しです。右寄りが書く共産のお話。ぜひ、ご堪能ください。

 日本共産党

 Wikipediaから引用

 日本の政党。日本政治において最も長く同じ党名を使い、また現存する日本の政党としては最古の歴史を持つ政党である。
概説
科学的社会主義 (マルクス主義)を党是とする。当面は対米従属と大企業の支配に対する民主主義革命を、将来的には社会主義的変革を目指すとする。
 2019年9月現在約28万人の党員を抱え西側諸国で、最大規模の共産党となっている。国会議員数は、衆議院議員12名、参議院議員13名でそれぞれ野党第3党である。また、約2800人の地方議員を抱え、日本共産党が与党の自治体は2018年12月現在62ある。

 歴史ある政党です。党員数も多く、国会にも議席があり与党な自治体も存在しているようです。

歴史
第一次共産党

まずはWikipedia先生お願いします。

第二次世界大戦終結迄(非合法時代
第一次共産党
1922年7月15日、堺利彦、山川均、近藤栄蔵ら8人が、極秘のうちに渋谷の高瀬清の間借り部屋に集まって日本共産党を設立(9月創立説もある)した。一般には「第一次日本共産党」と称されている。設立時の幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らがいる。コミンテルンで活動していた片山潜の援助も結成をうながした。
 11月にはコミンテルンに加盟し、「コミンテルン日本支部 日本共産党」となった。この時、コミンテルンから「22年テーゼ(日本共産党綱領草案)」が示されたが、日本での議論がまとまらず、結局草案のまま終わった。

 いきなり人名とか年とかいっぱい出てきてイヤになりますよね。別にテストじゃないんで覚えなくていいです。ただ、何回か出てくる名前もあるので認識だけしておいてください。
 で、いきなりパンチある言葉で始まりますが、非合法時代がありました。ゴシップっぽく書くと秘密結社なんて方がなじみますかね。公認されてなかったってことです。
 で、コミンテルンってわけわかんないカタカナ出てきましたね。Wikipediaから引用

「コミンテルン」とは正式名称の「共産主義インターナショナル」(ロシア語: Коммунистический Интернационал、カムニスチーチェスキイ・インテルナツィアナール、英語: Communist International)の略称。
1919年3月に結成され、1935年までに7回の大会を開催した。第7回大会には65ヶ国の党と国際組織の代表が出席した。前身の組織として第一インターナショナル、第二インターナショナルが存在する。
第二インターナショナルは、第一次世界大戦の際、加盟する社会民主主義政党が「城内平和」を掲げそれぞれ自国の戦争を支持したために瓦解した。これに反対する諸派がスイスで開いたツィンメルヴァルトで開いた国際会議がコミンテルンの源流である。十月革命後の1919年3月、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)の呼びかけに応じてモスクワに19の組織またはグループの代表が集まり、創立を決めた。
当初は世界革命の実現を目指す組織とされ、ソ連政府は資本主義諸国の政府と外交関係を結ぶがコミンテルンは各国の革命運動を支援する、という使い分けがなされた。しかしウラジーミル・レーニン死後にスターリンが一国社会主義論を打ち出したことで役割が変わり、各国の共産党がソ連の外交政策を擁護するのが中心になっていった。その一方、同じ第二インターナショナルの系譜に属する社会民主主義政党には厳しい姿勢をとりつづけ、1928年夏のコミンテルン第6回大会ではファシズムと社会民主主義のつながりを強調する「社会ファシズム論」が登場した。1930年代前半よりドイツで台頭する国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に対し、ドイツ共産党が社会ファシズム論に基づいてドイツ社会民主党(SPDの略称で知られる中道左派・リベラル政党)との対立にあけくれたことは、ナチ党の権力掌握を許す一因となった。
1935年のコミンテルン第7回大会では反ファシズムを最優先課題として多様な勢力と協調しようとする人民戦線戦術を採択した。スペインやフランスで人民戦線政府が誕生したが、スペインではフランコによる反乱からの内戦で壊滅した。独ソ不可侵条約の成立と第二次世界大戦初期のポーランド分割の結果、人民戦線戦術は放棄された。
独ソ戦の勃発に伴い、ソ連がイギリスやフランス、さらにアメリカ合衆国などとともに連合国を形成したことによって名実ともに存在意義を失い、1943年5月に解散した。

 なげぇよ。誰が読むんよ。そんな声が聞こえてきたので、メチャメチャザックリ言いうと
 当初は世界革命の実現を目指す組織、レーニン死後スターリンが一国社会主義論を打ち出して以降、各国の共産党がソ連の外交政策を擁護するのが中心になっていった。
 
ここだけでいいです。もっと長い説明ですけど、ここだけでいいです。一国社会主義論は「世界革命じゃなくて、一国で社会主義の建設ができる」って考え方らしいです。前回からいろんな主義主張が登場してアタマぐちゃぐちゃですよね。
 で、そのために世界中の共産党がソ連を擁護した。そんな団体です。その団体に所属したのが第一次共産党です。前回ソ連については書いているのでもうご存知だと思いますが、暴力を用いて独裁をしいていました。
 一応22年テーゼもWikipediaから引用

内容は君主制の廃止、軍隊の廃止、労働者の武装権、朝鮮・中国からの撤退、土地公有化などであった。

 結局草案で終わったんで深堀しません。

歴史の続きをWikipediaから引用

「綱領草案」は、政治面で、君主制の廃止、貴族院の廃止、18歳以上のすべての男女の普通選挙権、団結、出版、集会 、ストライキの自由、当時の軍隊、警察、憲兵、秘密警察の廃止などを求めていた。経済面では、8時間労働制の実施、失業保険をふくむ社会保障の充実、最低賃金制の実施、大土地所有の没収と小作地の耕作農民への引き渡し、累進所得税などによる税制の民主化を求めた。さらに、外国にたいするあらゆる干渉の中止、朝鮮、中国、台湾、樺太からの日本軍の完全撤退を求めた。
 日本共産党は「君主制の廃止」や「土地の農民への引きわたし」などを要求したため、創設当初から治安警察法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかった。ほかの資本主義国では既存の社会民主主義政党からの分離という形で共産党が結成され、非合法政党となったのとは違い、日本では逆に非合法政党である共産党から離脱した労農派などが、合法的な社会民主主義政党を産みだしていった。
 日本共産党は一斉検挙前に中心人物が中国へ亡命したり、主要幹部が起訴されるなどにより、運動が困難となった。堺利彦らは解党を唱え、結果1924年に共産党はいったん解散した。堺や山川らは共産主義運動から離れ、労農派政党の結成を目指した。赤松など国家社会主義等に転向する者もいた。
 その後、1925年には普通選挙法と治安維持法が、制定された。

 まず、綱領って聞きなれない言葉ですよね。
綱領(こうりょう)
 政治団体、特に政党の対策・方針・主義主張を(箇条書で)示したもの
です。まぁ、これも草案なんでね。

 で、君主制の廃止なんかを要求した結果、当時の法律によって非合法活動という形をとっていたと。結果1924年に解散しました。

だいぶザックリです。流れだけってくらいです。気になったら読んでください。飛ばされる前提で書いてます。

第二次共産党(戦前)

Wikipediaより引用

 1926年、かつて解党に反対していた荒畑寒村が事後処理のために作った委員会(ビューロー)の手で共産党は再結党された(第二次日本共産党)。その際の理論的指導者は福本和夫であり、彼の理論は福本イズムと呼ばれた。福本イズムは、ウラジーミル・レーニンの『なにをなすべきか?』にのっとり、「結合の前の分離」を唱えて理論的に純粋な共産主義者の党をつくりあげることを掲げた。福本和夫が政治部長、市川正一、佐野学、徳田球一、渡辺政之輔らが幹部となった。1927年にコミンテルンの指導により福本和夫は失脚させられ、渡辺政之輔ら日本共産党の代表は、コミンテルンと協議して「日本問題にかんする決議」(27年テーゼ)をつくった。「27年テーゼ」は、中国侵略と戦争準備に反対する闘争を党の緊切焦眉の義務と位置づけた。その一方で、社会民主主義との闘争を強調し、ファシズムと社会民主主義を同列に置く「社会ファシズム」論を採用した。「27年テーゼ」が提起した日本の革命や資本主義の性格をめぐって労農派と論争が起こった。

 2年後に華麗に復活します。そして、復活当初の理論的指導者福本氏は1年でコミンテルンの指導により失脚させられます。福本氏の「理論的に純粋な共産主義の党をつくりあげる」って思いはNGだったみたいですね。
27年テーゼは。Wikipediaより引用

骨子
・日本は半封建的国家であり、近代国家として熟成しているとは言いがたい
・君主制の廃止(天皇制という用語が使われるのは32年テーゼ)
・日本共産党は当分の目標としてブルジョワ革命を目指すものとする
・ただしその際のヘゲモニーはプロレタリアート、農民がとるものとする。

 だそうです。骨子は要点って意味で、ヘゲモニーは覇権らしいです。

 歴史の引用続けます

当時の党組織は、非合法の党本体と、合法政党や労働団体など諸団体に入って活動する合法部門の2つの柱を持ち、非合法の地下活動を展開しながら、労農党や労働組合などの合法活動に顔を出し活動を支えた。

 党本部が非合法というパワーワードまででてきました。引き続き引用

 1927年の第16回衆議院議員総選挙では徳田球一、山本懸蔵をはじめとする何人かの党員が労農党から立候補し、選挙戦のなかで「日本共産党」を名乗る印刷物を発行した。総選挙では労働農民党京都府連合会委員長の山本宣治が当選した。彼は非公式にではあるが共産党の推薦を受けており、初めての「日本共産党系の国会議員」が誕生した。しかし、1928年の三・一五事件で治安維持法により1600人にのぼる党員と支持者が一斉検挙され、1929年の四・一六事件と引き続く弾圧で約1000人が検挙されて、日本共産党は多数の活動家を失った。また同年、山本宣治は右翼団体構成員に刺殺された。

 衆議院選挙に労農党から立候補した候補者が選挙選のなかで「日本共産党」を名乗る印刷物を発行した。我慢できなかったのかな?んで、山本宣治氏が当選した。この人が日本共産党系の国会議員第一号です。おめでとうございます。しかし、その後1・2年で約2600人が検挙されました。ごっそり弾圧されてます。ドンマイ。さらに山本宣治氏は右翼団体構成員に刺殺されます。合掌。と怒涛の展開を迎えます。
 続いて引用

相次ぐ弾圧で幹部を失うなかで田中清玄らが指導部に入った。田中らは革命近しと判断して、1929年半ばから1930年にかけて川崎武装メーデー事件、東京市電争議における労組幹部宅襲撃や車庫の放火未遂などの暴発事件を起こした。また1930年に水野成夫らが綱領の「君主制廃止」の撤回を主張して分派の日本共産党労働者派を結成したが、日本共産党は「解党派」と呼び除名した。

 さぁさぁ、物騒な感じになってきましたよ。やられてばかりじゃ共産の名が廃る。
川崎武装メーデー事件をWikipediaより引用

事件の概要
1930年の神奈川県のメーデー会場は、川崎稲毛神社の境内であった。
9時55分、メーデー実行委員会の副委員長が開会宣言を行おうとしたところ、「日本共産党日本共産青年同盟」と大書した旗を掲げ、竹槍や拳銃で武装した集団が乱入した。警察はこれを阻止しようとし大乱闘になった。その際、共産党側は拳銃を発砲し、警察官を負傷させた。また、メーデー実行委員会のメンバーたちにも刺傷させた。約20分後、警察の応援部隊も到着し犯人8人を逮捕した。

 一応、政治政党の話ししてますよ。伊達にレーニン氏の思想引き継いでませんな。共産主義者の本気ですよ。
さらに引用

1932年5月、コミンテルンにて「32年テーゼ」が決定され、戦前における活動方針が決定された。このテーゼは日本の支配構造を、絶対主義的天皇制を主柱とし、地主的土地所有と独占資本主義という3つの要素の結合と規定した。ブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命に至るとする二段階革命論の革命路線を確立した。民主主義革命の主要任務を、天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制の実現と規定し、中心的スローガンを「帝国主義戦争および警察的天皇制反対の、米と土地と自由のため、労働者農民の政府のための人民革命」とした。

 二段階革命論、これいまでも日本共産党の考え方の一つなので覚えといてください。
 んで、このころから党内で内ゲバってヤツが始まります。スパイが暗躍しだします。当時日本共産党もヤバいですが、警察もエゲつないですよ。この辺も紹介したいのですがいかんせん長いので、ご自分の目でご確認ください。


 なっがいでしょ?まだ戦前の話しです。引用多めですが、5000文字超えたらさすがに読まないでしょ。超えてますけど。ってなわけで、ここでいったん切り上げます。


独断と偏見で私見を空に向かって騒いでおります。賛否両論求めておりません。今回なんてほとんど引用なんで。まぁ、もちろん都合いいようにですけどね。だってエンターテイメントですから

批判コメントする際はぜひこちらも。